東京都内で連続殺人が発生。凶器は一致したものの、被害者たちに接点は全くなく、捜査は難航を極めた。過去のトラブルで心を壊したベテラン刑事・田伏とITオタクの新米・長峰がタッグを組んだ傑作警察ミステリー『血の雫』(相場英雄著、幻冬舎文庫)から、試し読みをお届けします。(前回 はこちら)
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6
新宿駅西口の商業ビルを出たあと、田伏は若宮を伴って同じエリアにある地下街の古びた喫茶店に向かった。
地下街の通路を見渡せる席に座ってアイスコーヒーを二人分注文したあと、書き留めた捜査メモのページをめくり始めた。依然怨恨やトラブルに関する情報は拾えていない。
会ったばかりの香西の話の要点を手早く手帳に記したあと、昨日回った参宮橋の寿司屋の証言を田伏は再チェックした。
河田は週に一、二度、多いときは三度もこの寿司屋に通っていた。板前や見習い計五人から話を聞いたが、払いは全て河田と親しい老カメラマンか商談会などで司会をこなすMCと呼ばれる男性が済ませていた。
河田は若いモデルだ。接する機会の多いカメラマンやMCとの間に色恋や金銭絡みのトラブルがなかったか尋ねたが、空振りだった。二人の男性はいずれも河田と同じ立川の高校出身で、フリーで健気に活動を続ける後輩を親身に支えていたのだという。インスタグラムでは殺しにつながるような濃い鑑は一向に浮かばない。
「これ、全部当たりますか?」
手帳から顔を上げると、若宮がスマホの画面を見ながら溜息を吐いた。
「香西さんとツーショットで撮影していた客は五八三人もいます」
「他班も砂浜で落とした針を探すような仕事をしている。俺たちだけ特別なことをしているわけじゃない」
田伏にとっても地道な鑑取りに取り組むのは久しぶりだ。自分に活を入れる意味で言ったのだが、目の前の若手捜査員には存外に応えたらしい。
「捜査本部に戻ってから、手分けして洗い出しやるぞ。作業が一段落したらウマい飯食わしてやる」
田伏が言うと、若宮の表情に少しだけ明るさが戻った。
「綺麗な顔、親切そうな奴にも必ず本当の顔がある。ショップの香西さんはああ言ったが、この中に被害者を逆恨みするような者がいる可能性はゼロじゃない」
田伏がそう言ったときだった。テーブルのコップ脇に置いていたガラケーが鈍い音を立てて振動した。折りたたみ型の端末を開くと、小さな液晶画面に恩人の名が表示されていた。田伏は掌でガラケーを覆い、通話ボタンを押した。
「どうされました?」
本部捜査一課長の上田だ。
〈殺人事件だ。これから杉並署に捜査本部 を立てる〉
上田はぶっきら棒な口調で言った。
〈検視官によれば、中野と遺体の傷が酷似しているそうだ〉
「仮に一致すれば、連続殺人ですね」
〈そうなったらの話だが、おまえにやってもらいたいことがある〉
「俺ですか?」
〈そうだ。心構えだけしておいてくれ〉
上田が一方的に電話を切った。河田の事件の糸口が見えない中、凶器が一致したらマスコミが大騒ぎを始め、警察は批判を一身に集める。上田が言った新しい任務とはなにか。また騒動の渦中に放り込まれるのか。そう考えた途端、ガラケーを握る手に嫌な汗が滲んだ。
7
「鑑取り班からの報告は以上です」
幹部席の刑事課長に向け、中野署の鑑取り担当の警部補が言った。田伏は手元の腕時計に目をやった。時刻は午前八時五一分になった。
捜査本部に詰める約三〇名の刑事たちが地を這うような調べを続けているが、時間だけが虚しく過ぎていく。
この辺りで有力な証言や証拠の類いが見つかれば捜査本部の士気は盛り返すが、現状、そんな気配は微塵もない。
「引き続き、全員で真摯に捜査に向き合ってほしい」
幹部席の刑事課長が苦々しい顔で告げた直後だった。会議室のドアを乱暴にノックする音が響き、すぐに扉が開いた。
「おはよう」
弾かれたように会議室の全員が立ち上がる。本部捜査一課長の上田だ。ゆっくりと幹部席に向かうと、一同を見回しながら言葉を継いだ。
「隣の杉並署管内でまたも殺人事件が発生した。ここの捜査本部が片付く前でもあり、都民の不安な目が我々に向けられている。一日も早い事件解決を望む」
会議室の窓を震わすような声に、田伏を含めた全員が大声ではいと応じ、一斉に敬礼した。
杉並署管内の事件がマスコミ発表されたのは、昨日午後六時過ぎだった。この段階では上田の言った〈傷が酷似〉という情報は開示されなかった。つまり、杉並署の事件についてほとんどなにも語らなかったに等しい。連続殺人であるかどうか、まだ一般の捜査員には明かせない状況なのだ。壇上で捜査員一同を鋭い目線で見回したあと、上田が言葉を継いだ。
「全員気を抜くことなく捜査に当たり、被害者の無念を晴らせ」
下腹に響くような声のあと、上田が顔を会議室の外に向け、大声で入れと言った。
すぐにドアが開き、俯いた若い捜査員が入ってきた。前回は、運転手を仰せつかった本部の若手巡査長だったが、今回は違う男だった。
田伏が若い男から視線を移すと、壇上から上田が目配せしているのがわかった。その目は廊下に出ろと言っていた。田伏は会議室の後ろ側から廊下に向かった。横目で見ると、捜査員たちを叱咤しながら、上田も同じように廊下へ歩いているのがわかる。
そっと扉を開け、田伏は廊下に出た。ほぼ同じタイミングで上田が現れ、廊下の奥へ行くよう顎を動かした。
田伏は後を追い、廊下の角を右に曲がった。ここから先は中野署の生活安全課の部屋に通じるエリアだ。
「悪いな、こそこそさせて」
先を行く上田が足を止め、言った。
「昨日の電話の件ですね? 検視官の見立てはどうなんですか?」
「検視官のほか、司法解剖した監察医からもほぼ同一だとの見立てが出た」
上田が低い声で言った。
「なぜ、未発表なのですか?」
「被害者が違いすぎる」
田伏は今朝、自宅マンションで目を通した在京紙の見出しを思い起こした。
杉並署管内、JR高円寺駅からほど近い住宅街で、中年のタクシー運転手の刺殺体が発見された。
「中野の一件で犯人が遺棄した凶器を別の人間が使った可能性もある」
たしかに事件発生からまだ時間が経っていない。幹部捜査員としては、様々な状況を勘案し、多数の捜査員が吸い上げてきた情報を加味した上で二つの事件の関連性を見立てたいのだ。
「鑑識の見解は?」
「半々だ」
刺し傷の角度、人体に入った深さ等々、鑑識課員は検視官や監察医とともに精緻に分析する。その道のプロ達が同一犯と断定できなかった以上、同じ凶器の可能性があるとはいえ、情報は厳重に管理されねばならない。
「こんな厳重保秘の情報をなぜ俺に?」
田伏が言うと、上田が声を潜めた。
「頼みたいことがある」
上田が田伏の肩越しに廊下の先、捜査本部がある会議室の方向に目をやった。田伏は上田の視線をたどりながら、振り返った。会議室の扉の前で若手の捜査員が所在なげに立っていた。
「ちょっとこっちへ」
上田に呼ばれた男が、田伏の傍に駆け寄った。本部では会ったことのない捜査員だ。所轄署から本部に上がったばかりなのか。
「こいつは俺がSIT(特殊犯捜査係)の管理官だったころ、部下だった田伏だ」
田伏の肩を叩きながら、上田が若い捜査員に言った。
「田伏、彼は生安から来た長峰だ」
田伏が目を向けると、若い捜査員はおどおどしながら警察手帳を開いた。
〈巡査長 長峰勝利〉
巨躯で体育会系警官の見本のような若宮と接していたため、長峰という巡査長に違和感を覚えた。不安げな目線と細身の体がまず警官らしくない。秋葉原のアニメ関係のショップをハシゴしているマニア系の雰囲気がある。長峰はしきりに前髪をいじっている。神経質そうな男だ。
「実は、長峰は昨日から一課に異動になった」
「よろしくお願いします」
上田が告げたあと、消え入りそうな声で長峰が言った。
「捜査は全くの素人だ。生安のサイバー犯罪対策課にいた人材でな」
「サイバー犯罪対策課って、ハッカーとか、不正アクセスとかを扱うあの部署ですか?」
田伏が訊くと、上田が頷いた。一方、長峰は居心地悪そうに肩をすぼめた。
「長峰は元々民間のIT企業でエンジニアを務めていた。一年前に本部に採用され、以降はサイバー犯罪捜査官として活躍してきた」
上田の言葉を聞きながら、長峰がかすかに頷いた。
「田伏、よろしく頼む」
いきなり上田が頭を下げた。
「どういうことですか?」
田伏が首を傾げると、長峰が申し訳なげに頭を下げた。
「生安総務課に同期がいてな。長峰を預かった」
生活安全部の総務課といえば、大所帯の捜査方針を企画立案する、部の頭脳に当たる部署だ。
「サイバー犯罪対策課は今までずっと専用部屋に籠って仕事をしてきた。バーチャルな世界から出て、そろそろ実地で捜査のノウハウを養うべきだと上層部が決めた。長峰はその第一号というわけだ」
上田が言うと、傍らの長峰が項垂れた。望んでいない異動であることは明白だ。
「それでは俺はなにを?」
「しばらくの間、長峰の指導役を頼む。長峰と一緒に、新規で発生した事件の捜査本部に出向き、生の捜査のなんたるかを教えてやってほしい」
「どの程度の期間でしょうか」
田伏が言うと、上田の目つきが鋭くなった。一方で、普段の野太い声ではなく、消えいりそうな声だ。
「おまえはまだリハビリの途中、無理をさせるわけにはいかんのだ。それに長峰も生安で周囲と馴染めず浮いていた。一年ちょっとで辞められたら困るから、環境を変えてみることにした」
やはり、特殊な事情が神経質そうな青年の背後に潜んでいた。田伏が口を開きかけると、上田が廊下の奥へ目を向けた。ちらりと目をやると、運転手役の若い巡査長が駆け寄ってくる。
「これから杉並の捜査本部へ行く。おまえたち二人も一緒だ」
長峰を見ると、下を向き、手の中のスマホをしきりに操作していた。警察官然としていないのは、見てくれだけではない。直属の上司、それも現場捜査員にとっては雲の上の存在とも言える上田の横で、長峰の振る舞いは無礼に当たる。
サイバー捜査官でネットの扱いには慣れているかもしれないが、ここは殺人事件を扱うリアルな世界であり、とりわけ捜査員同士の連携が事件の解決には不可欠だ。スマホなんか片付けろ……田伏がそう言いかけたときだ。
「行くぞ」
上田が低い声で告げた。
前の部署でなんども日の当たる場所をあてがってくれたうえに、あの一件以降、強行犯捜査係に引き戻してくれた恩人には逆らえない。鞄を取ってくると運転手に告げ、田伏は慌てて会議室に駆け込んだ。
血の雫
沸騰する自意識と承認欲求――。SNSが怪物を生む。スマホが、人間を、社会を壊してしまうのか!? 『震える牛』『血の轍』の著者、最新作『血の雫』(幻冬舎文庫、10月7日刊)、怒濤の試し読み。