戦争という狂気の時代に、暗愚な上官の命令に抵抗し、信念を貫いた指揮官がいた――インパール作戦で牟田口廉也の部下だった佐藤幸徳ら4名の指揮官の決断と行動をたどった『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』。執筆にあたり、古谷経衡さんはすべての戦跡を現地取材しました。インパール作戦における日本軍最大進出地点である激戦地コヒマで古谷さんが見たものは……。2回に分けてお届けするコヒマ紀行・前編です。(記事の最後に刊行記念イベントのお知らせがあります)
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英軍の戦車が当時のまま残っていた
翌朝、私は「コヒマ最高の宿」で身震いするほどの冷気にたたき起こされた。暦は7月に入り、ここインド東部は高湿度の灼熱地帯であるというのに、コヒマは標高1400メートルを超える高原地帯であるから、朝の時間は極めて寒いのである。
管理人から1杯の熱いコーヒーを貰って、共同のシャワー室で体を洗い洗髪する。シャワー室と言っても密閉されたものではなく、壁が半分しかなくもう半分は外に露出しているという簡易的なものであった。浴室の壁には時折、内地で見るよりも大きなヤモリがひょこひょこと顔を出して壁を這っている。
備え付けのタオルで体を拭うと、私はこの宿に重大な備品が存在していないことに気がついた。ドライヤーである。管理人に「ドライヤーを貸してくれ」と言うと、管理人は怪訝な顔をして「そんなものはない」と言う。私は愕然とした。「では貴方は、濡れた髪の毛をどうやって乾燥させているのか」と問うと、「自然乾燥である」と答えた。
これには困った。あらゆる海外の宿で、ドライヤーがないという室に私は泊まったためしがない。個室に常備していなくとも、必ずフロントには貸し出しがあるものだが、この宿にはそんなものは1台もないという。
長髪の私はほとほと困り果て、管理人に電器店の所在を聞いた。管理人の言うところ徒歩5分という近傍にコヒマ唯一の電器店があり、そこで韓国製のドライヤーを4000円程度で買い求めた。電器店の品は洗濯機と冷蔵庫が中心の白物家電ばかりだった。
コヒマは至るところが急な坂道で、現地の人が言う徒歩5分には3をかけて15分と見積もらなければならない。一寸近所を歩くにも行き帰りで徒歩30分を要する。私はこれによりようやく髪を乾燥させることができた。このドライヤーは、私が宿をチェックアウトするときに管理人氏に寄付することになる。
アランバム氏は、またもきっかり約束通りの時間に私を迎えに来て、コヒマ市内の戦跡へと出発した。
最初に見学したのは、山坂また山坂のコヒマにあって、市街のど真ん中にある場所であった。このコヒマはすでに述べた通り、佐藤幸徳中将率いる第31師団が攻略し一時占領した、インパール作戦における日本軍側最大進出点であったが、日本軍の攻勢を予期して英印軍が頑強な陣地を築いた要塞でもあり、ここで壮絶な激戦が展開されている。
林道を分け入ると、私は意外なものを目撃した。そこには、擱座(かくざ)した英軍のM3(エムスリー)中戦車が、73年前と同じ姿勢で鎮座ましましていた。『抗命』を読むと、英印軍はコヒマよりさらに北方にあるディマプルから機械化師団を増援しており、『抗命』にはこの英軍の中戦車、М3を重大な脅威とみなす日本軍の描写が頻出する。
これに対して日本軍はどのような対抗措置に出たのかというと、3000メートルに迫るアラカンの山々を徒歩でやってきた日本軍は、山砲も、自動車も、すべて分解して手作業で運んできて、特にこのコヒマ攻略にあたった第戦31師団には、戦車は1台もないという有様であった。
このМ3中戦車は北アフリカ戦線においてドイツ・イタリア軍との戦闘で非常に重宝された兵器であるが、通常このМ3の撃破にはその重厚な戦車装甲を貫通する対戦車砲を必要とする。当たり前のことだが、戦車というのはピストルの弾や機関銃の掃射を受けてもすべて撥ね返す強靭な装甲を有する。
それを貫通して戦車を破壊するためには、対戦車砲という、戦車との戦闘に特化した特殊な装甲貫徹弾が必要となるが、ドイツ軍が当たり前のように持っていた対戦車砲について、日本軍は圧倒的に開発不足であった。なぜなら日本軍が戦っていた中国軍(国民党)には、戦車装備がなかったからである。よって日本軍の対戦車兵器の開発は遅れ、米英との対戦車戦において非常に苦労することになる。
そこで日本軍は、進出するイギリスのМ3に対して、肉弾攻撃を仕掛けた。つまり特攻である。装甲地雷を背負った日本兵が隙を見てキャタピラー(車輪のホイールの全周を覆っている鉄のシリング)の下に潜り込み、体もろとも地雷を爆発させる。そうすると戦車の駆動源であるキャタピラーが破壊され、戦車の前進は止まるのだ。
日本軍は、М3を止める術を特攻以外に持たなかった。そして私が今、73年の時を経て相対しているМ3も、そういった日本軍の特攻攻撃によって擱座した戦車のひとつだったのである。
日本兵の血しぶきが車底部に染みついているであろうМ3に、私は急に登りたくなった。アランバム氏は「危ない」と言って止めたが、私は遮二無二戦車の砲塔付近までよじ登り記念撮影をした。この戦車の擱座のために何人の日本兵が死んだのだろうか。戦没者を足蹴にするようで気がとがめたが、私はコヒマで唯一当時の英軍戦車が残されているというこの場所で、己がここまで来たという証拠を欲したのである。
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『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』の刊行を記念し、10月20日19時半から、近現代史研究者の辻田真佐憲さんとのトークイベントを開催します。アーカイブ視聴もできますので、ふるってのご参加をお待ちしております。詳細・お申し込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。
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敗軍の名将
インパール作戦で上官に逆らって撤退を決断した佐藤幸徳(さとうこうとく)、その配下で1人の餓死者も出さず撤退に成功した宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)。沖縄戦で大本営の方針と異なる作戦を立案・実行し、米軍を抑え込んだ八原博通(やはらひろみち)。特攻を拒み、独自の作戦で戦果を上げた芙蓉部隊の美濃部正(みのべただし)――戦争という狂気の時代に、なぜ彼らは、暗愚な上官・中央の命令に抵抗し、信念を貫くことができたのか? 太平洋戦争を俯瞰しながら、4人の指揮官の決断と行動をたどる。根拠なき精神論・同調圧力・理不尽が跋扈する現代日本への教訓の書。