戦争という狂気の時代に、暗愚な上官の命令に抵抗し、信念を貫いた指揮官がいた――インパール作戦で牟田口廉也の部下だった佐藤幸徳ら4名の指揮官の決断と行動をたどった『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』。執筆にあたり、古谷経衡さんはすべての戦跡を現地取材しました。インパール作戦における日本軍最大進出地点である激戦地コヒマで古谷さんが見たものは……。2回に分けてお届けするコヒマ紀行、後編です。(記事の最後に刊行記念イベントのお知らせがあります)
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誰がいつ、どこで、どのように死んだのか分からない
次に向かったのはコヒマ市内にあるインパール戦での英印軍の犠牲者を追悼する公的墓地であった。すでに述べた通り、コヒマは南のインパール、北のディマプルと いう戦略的要衝たる都市の中間地点にあり、補給拠点を兼ねていたため、英印軍の防備は堅牢であった。よって 日本軍は、このコヒマの要塞攻撃に非常な犠牲を払った。そのコヒマ要塞のちょうど中腹あたりに、インパール作戦で犠牲になった英印軍の遺骨を埋葬した墓地が広がっている。
私は目を見張った。綺麗に磨かれた墓石には、戦没兵士の姓名と、出身地、没年月日が記載されている。日本軍がコヒマを占領したのは1944年4月であったが、その後、英印軍が要塞や防塁から反撃に出たので、戦没者の命日は1944年4月、5月に集中していた。
驚いたのはその戦没者の出身地の多様性である。イギリスは当然のこととして、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フランスなどの欧州連合国のほか、インド、ネパール、ブータン、バングラデシュなど南アジア出身の戦没者が目立った。
英軍は、まさか急峻極まりない断崖密林のアラカンの山々を越えて、日本軍がこのコヒマまで攻め込んでくるとは想定していなかった。よって日本軍の攻撃に即応するために、当時イギリスの植民地であった南アジアの現地人構成部隊からなる混合兵力で日本軍との戦いに臨んだのであった。『抗命』にも、英軍の指揮下で、現地のインド兵が日本軍と交戦して多数戦死した旨が頻出する。
しかし私は、この墓地に来て一抹の疑問を持った。埋葬されているのはすべて連合国の兵士たちで、その数倍ないし数十倍の犠牲者を出した日本兵の記載はただの一兵としてない。
例えば沖縄南端の摩文仁にある平和の礎(いしじ)では、沖縄戦で戦死した日本軍と米軍の兵士が一緒に祀られている。英印軍からすればいかに日本軍が敵であるとしても、一方的に連合国の戦没者のみを追悼するこの墓地には偏りがあるのではないか、という義憤がちらと私の脳裏をよぎった。アランバム氏にこの義憤を問うと、意外な答えが返ってきた。
「この墓地に日本兵の記載がないのは、英領インドに対して敵であった日本軍への怨嗟が反映されたものではなく、単に日本兵の戦死場所と戦死月日が全く判明しないからである」
私はこの回答を聞いて悄然とした。思えば当然のことであった。インパール作戦は、1944年7月に正式に中止決定がなされ、3個師団約10万の日本兵がのちに「白骨街道」と呼ばれた道なき道を延々と後退するさなか没していった。
コヒマの連合軍墓地には、戦死した英印軍兵士の遺骨が埋葬されているが、ちりぢりになって、食料不足で餓鬼の如き姿で撤退し、餓死していった約4万の日本兵の大群は、いつどこで死亡したのか。その氏名は何なのか。それすら、戦後70年以上を経てもその遺骨さえ収集されておらず、詳細は不明だというのである。
このコヒマにあって、インパール作戦はまだその最終的結論に至らず、終わっていないのである。どこで日本兵の誰が死んだのか。いつ死んだのか。その遺骨はどこにあるのか。そんなことでさえ、戦後70年以上たった現地コヒマの人々にも判然としないのである。
私は慄然として宿に向かった。日は傾き、宿に着いたときにはもう日没となっていた。私はコヒマ2日目もまたぞろ密売店で求めた焼酎をグレープフルーツジュースで割ったもので晩酌をした。
いかにこの地域が過酷か。密林に一歩入れば、生死すら判明せず、ただ70年以上にわたって土の中にその白骨が埋もれている。その現実に愕然としてやがてうたた寝は深い眠りに変わった。この時、私が破損した富士通製のPCに書き込んだ旅行雑感にはこうある。
「嗚呼……コヒマは、想像を絶する領域である。ここに日本兵が進撃してきたことそれ自体が奇跡であり、如何なりとも形容しがたい蛮勇なり」
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『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』の刊行を記念し、10月20日19時半から、近現代史研究者の辻田真佐憲さんとのトークイベントを開催します。アーカイブ視聴もできますので、ふるってのご参加をお待ちしております。詳細・お申し込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。
敗軍の名将
インパール作戦で上官に逆らって撤退を決断した佐藤幸徳(さとうこうとく)、その配下で1人の餓死者も出さず撤退に成功した宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)。沖縄戦で大本営の方針と異なる作戦を立案・実行し、米軍を抑え込んだ八原博通(やはらひろみち)。特攻を拒み、独自の作戦で戦果を上げた芙蓉部隊の美濃部正(みのべただし)――戦争という狂気の時代に、なぜ彼らは、暗愚な上官・中央の命令に抵抗し、信念を貫くことができたのか? 太平洋戦争を俯瞰しながら、4人の指揮官の決断と行動をたどる。根拠なき精神論・同調圧力・理不尽が跋扈する現代日本への教訓の書。