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本屋の時間

2021.10.15 公開 ポスト

第120回

I邸辻山良雄

JR目白駅から目白通りを日本女子大方面に歩き、坂道マニアに有名な小布施(こぶせ)坂を下ると、その下りきった先にI邸はある。I邸とはいっても家の一階にはちゃんと大家さんが住んでいて、Iはその二階を間借りしているだけ、つまりは賃借人な訳だが、仲間うちではみんなその家のことを「I邸」と呼んでいた。

 

わたしは昔、大学生のころ、一度だけこのI邸に閉じこめられたことがある。その時はI邸で、明け方まで数人で飲んでいた。夜が明け九時になり、十時になって、用事のある人は朦朧としたまま、それぞれ勝手に部屋を出ていった。部屋にはIとわたしが残っていたが、まだわたしが寝ていたその横で、ゼミがどうしたとかヤバいとかいいながら、Iは慌てた様子でそのまま服を着替え、何もいわずに出ていってしまった。

ガチャリという鍵を回す音が、扉の向こうから聞こえたと思う。それからしばらくしてわたしも、自分以外は誰もいなくなった部屋でゆっくりと起きたのだが、部屋の扉は開かず、窓の外には隣の家の壁が見えるだけで、完全に閉じこめられてしまったことがわかった。まだ誰も携帯電話なんか持っていない時代だったから、Iに連絡を取ることもできず、正直二日酔いも完全にどこかへ消え去ってしまった……。

 

彼がそう意識していたかどうかはわからないが、思えばその頃からIには、どこか調子はずれで、運の悪さを引きずりながら歩いているようなところがあった。

彼とわたしは同い年で、それぞれ留学や留年をしていたから、お互いほんとうだったらもう卒業している歳になっても、大学の溜まり場であるラウンジでまいにち時間をつぶし、くすぶっていた。

Iはジャーナリストになりたいといって、マスコミなど手当たり次第に履歴書を送っていたが、結果の方はどうも芳しくなさそうである。当時はわたしも近くに住んでいたから、夜、彼をI邸まで迎えに行き、よく二人で近所をランニングした。椿山荘、護国寺、鬼子母神……。走っているときはお互い無言だが、ゴールに決めていた公園で少し話をしたあと、それぞれの家までまた歩いて帰った。

Iは元来明るい性格で、会話のなかに唐突に横文字を混ぜながら、何か前向きなことを話すのが常だったが、その時期はかなりまいっているように見えた。いつだったか走り終わったあと、苦笑いを混ぜながらこのようにつぶやいたことがある。

「このままずっと、こうなのかな」

わたしはそうだとも、違うとも、何もいえなかった。その問いは口に出さないまでも、わたしもずっと思っていたことだったから。

いつまでもこのような時間が続くわけではない。I邸の床には、Iが近所の古本屋で買ってきた一冊何十円の文庫本が積み重ねられていたが、その溜め込まれたたくさんの本が、我々に残された最後のよすがのように見えた。

先日、Iが久しぶりに店に来た。彼が来るのは何年か前、嫌なことがあって会社を辞めたと聞いて以来だ。その時は開店時間の前だったので、店の外で立ち話をした。結局Iはジャーナリストにはならず、いまはコンサルタント会社に勤務している。

Iは最近わたしが出した新刊を読んでくれたようで、むかし我々がよく話題にした、ある翻訳家のことを思い出したと話した。

「辻山は、●●さんの本を読んだことがあるんだっけ?」

いや、読んだも何も、その人の本を薦めたのはあなたですよね。そのようにはいわなかったが、それを聞き、この人はわたしのことをよく知っているんだなと思った。彼女はわたしが文章を書くとき、いつも頭の片隅にいるひとりだから。

 

いくら部屋に閉じこめられたとしても、友人というものは得難いものだ。結局I邸に閉じこめられたときは、一時間ほど考えを巡らせたあと、床下に向かって大声を出し続けた。そうしたら一階でテレビを見ていた大家さんが異変に気づき、階段を上って扉を開けにきてくれた。扉が開いたときには、ほんとうに生きた心地がした。

 

今回のおすすめ本

『東京の古本屋』橋本倫史 本の雑誌社

同じ〈本〉を扱うとはいっても、新刊書店と古本屋では世界がまったく異なる。きれいごとだけではない彼らのタフさに圧倒された本。ただ傍らに立ち、言葉を引きだしてくる取材がほかにはない。

◯連載「本屋の時間」は単行本でもお楽しみいただけます

連載「本屋の時間」に大きく手を加え、再構成したエッセイ集『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』は、引き続き絶賛発売中。店が開店して5年のあいだ、その場に立ち会い考えた定点観測的エッセイ。お求めは全国の書店にて。Title WEBSHOPでもどうぞ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

辻山良雄さんの著書『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』のために、写真家・齋藤陽道さんが三日間にわたり撮り下ろした“荻窪写真”。本書に掲載しきれなかった未収録作品510枚が今回、待望の写真集になりました。

○2024年11月15日(金)~ 2024年12月2日(月)Title2階ギャラリー

三好愛個展「ひとでなし」
『ひとでなし』(星野智幸著、文藝春秋刊)刊行記念

東京新聞ほかで連載された星野智幸さんの小説『ひとでなし』が、このたび、文藝春秋より単行本として刊行されました。鮮やかなカバーを飾るのは、新聞連載全416回の挿絵を担当された、三好愛さんの作品です。星野さんたってのご希望により、本書には、中面にも三好さんの挿絵がふんだんに収録されています。今回の展示では、単行本の装画、連載挿絵を多数展示のほか、描きおろしの作品も展示販売。また、本展のために三好さんが作成されたオリジナルグッズ(アクリルキーホルダー、ポストカード)も販売いたします。

※会期中、星野さんと三好さんのトークイベントも開催されます。
 

【店主・辻山による連載<日本の「地の塩」を巡る旅>が単行本になりました】

スタジオジブリの小冊子『熱風』(毎月10日頃発売)にて連載していた「日本の「地の塩」をめぐる旅」が待望の書籍化。 辻山良雄が日本各地の少し偏屈、でも愛すべき本屋を訪ね、生き方や仕事に対する考え方を訊いた、発見いっぱいの旅の記録。生きかたに仕事に迷える人、必読です。

『しぶとい十人の本屋 生きる手ごたえのある仕事をする』

著:辻山良雄 装丁:寄藤文平+垣内晴 出版社:朝日出版社
発売日:2024年6月4日 四六判ソフトカバー/360ページ
版元サイト /Titleサイト

◯【書評】

『アウシュヴィッツの小さな厩番』ヘンリー・オースター [著]/デクスター・フォード [著]/大沢 章子 [訳](新潮社)ーーアウシュヴィッツを含む3つの強制収容所を生き延びたユダヤ人が書き残した悪夢のような日常とは? [評]辻山良雄
(Book Ban)

『決断 そごう・西武61年目のストライキ』寺岡泰博(講談社)ーー「百貨店人」としての誇り[評]辻山良雄
(東京新聞 2024.8.18 掲載)

◯【お知らせ】

我に返る /〈わたし〉になるための読書(3)
「MySCUE(マイスキュー)」

シニアケアの情報サイト「MySCUE(マイスキュー)」でスタートした店主・辻山の新連載・第3回が更新されました。今回は〈時間〉や〈世界〉、そして〈自然〉を捉える感覚を新たにさせてくれる3冊を紹介。

NHKラジオ第1で放送中の「ラジオ深夜便」にて毎月本を紹介します。

毎月第三日曜日、23時8分頃から約1時間、店主・辻山が毎月3冊、紹介します。コーナータイトルは「本の国から」。1週間の聴き逃し配信もございますので、ぜひお聞きくださいませ。

関連書籍

辻山良雄『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』

まともに思えることだけやればいい。 荻窪の書店店主が考えた、よく働き、よく生きること。 「一冊ずつ手がかけられた書棚には光が宿る。 それは本に託した、われわれ自身の小さな声だ――」 本を媒介とし、私たちがよりよい世界に向かうには、その可能性とは。 効率、拡大、利便性……いまだ高速回転し続ける世界へ響く抵抗宣言エッセイ。

齋藤陽道『齋藤陽道と歩く。荻窪Titleの三日間』

新刊書店Titleのある東京荻窪。「ある日のTitleまわりをイメージしながら撮影していただくといいかもしれません」。店主辻山のひと言から『小さな声、光る棚』のために撮影された510枚。齋藤陽道が見た街の息づかい、光、時間のすべてが体感できる電子写真集。

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本屋の時間

東京・荻窪にある新刊書店「Title(タイトル)」店主の日々。好きな本のこと、本屋について、お店で起こった様々な出来事などを綴ります。「本屋」という、国境も時空も自由に超えられるものたちが集まる空間から見えるものとは。

バックナンバー

辻山良雄

Title店主。神戸生まれ。書店勤務ののち独立し、2016年1月荻窪に本屋とカフェとギャラリーの店 「Title」を開く。書評やブックセレクションの仕事も行う。著作に『本屋、はじめました』(苦楽堂・ちくま文庫)、『365日のほん』(河出書房新社)、『小さな声、光る棚』(幻冬舎)、画家のnakabanとの共著に『ことばの生まれる景色』(ナナロク社)がある。

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