「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。
カツセマサヒコさんのデビュー小説『明け方の若者たち』の文庫が11月17日に発売いたします。北村匠海さん主演で映画化も決定している大注目の作品より1章・2章を、映画の場面写真とともに、8日間連続で特別公開します。(全8回/1回目)
* * *
「ごめん、携帯なくしちゃったみたいで。番号言うから、かけてくれない?」
それが彼女から届いた最初の言葉だった。場所はこの公園からすぐ近くの沖縄料理屋。十畳ちょっとの半個室は、とにかく下品で騒がしかったのを覚えている。
彼女の声は少し掠れていて、酷く小さかった。なんとか聞き取ろうと耳を傾けると、言葉より先に匂いが届いた。石鹸が温もりを持ったような、咲きたての花のような匂い。その香りが彼女自身から発せられているものだとわかったのは、もう少し後のことだった。
もう五年も前のことになる。それでも高い解像度を保ったまま、当時のことを思い出せてしまう。あの日から始まった彼女との時間は、底の見えない沼であり、僕の人生の全盛期だった。
二〇一二年五月、東京都世田谷区明大前。
僕はこの場所から始まった淡い日々に、今も憧れを抱いたままでいる。
*
明大前は、学生街ならではの時の流れの遅さに甘えて、街自体が弛緩していた。経済活動がすっかり停滞したようなこの街に、朱色をふんだんに使うことで「それっぽい外観」を作り出している沖縄料理屋がある。
泡盛を前面に押し出したキッチンレイアウト、堅すぎる木製の椅子、洗われていない座布団。「洗練」という言葉から程遠いその店は、「キャンパスから近いし、そこそこ美味いし、何より安い」という理由から、大学入学当初よりよく使っていた。終電を逃したときには、晩酌モードの女将さんが二階に布団を敷いてくれるものだから、常連だった僕からすると、ちょっとした実家のような場所でもあった。
その沖縄料理屋で、「勝ち組飲み」という、イヤミな名称のイベントが開かれていた。
参加条件は、第一志望の企業から四月中に内定を得ていること。幼い頃から何をしても褒められるような家庭に育ち、自己肯定感に満ち溢れた学生が考えそうな企画だった。テニスをしないテニスサークルみたいなところに所属して、そのサークルの幹事であることをウリに内定を取ったような学生こそが、考えそうな企画だった。
その華やかすぎるイベントの参加者に、僕がいた。ほかの学生同様、内定ひとつで勝ち組を気取れた人間が、僕だった。
企画者の石田とは、語学の授業が四年間同じだった。在学中はロクに絡んだことがなかったから、相性は良くなかったのだとおもう。大学生にもなって無作為に括られたクラスメイトと群れたくなかったし、そもそも石田の瞳に僕が映っていなかったせいでもあった。
大学に入学したての春、石田はギョロっとした目を見開いて、僕に話しかけた。
「今度、クラコンあるじゃん? 吉井が誕生日みたいでさ、俺、ケーキとプレゼント用意するから、カンパしてくんね?」
そのクラスコンパの日が、僕も誕生日だった。SNSに書かれた誕生日欄を慌てて「非公開」に設定したあの日から、僕は石田と距離を置いて生きてきた。
そんな石田が突然肩を組んで、鼻息荒く距離を詰めてきた。僕が内定を手にした、四月中旬の雨の日のことだった。「お前、やっぱりすげーよ。お前みたいなやつと将来仕事つくっていきたいわ」「ああ、うん、ありがとう」そのとき初めて知った。石田は口臭がひどい人間であることを。
「三十代で家を建てられるけど、四十代で墓を建てなきゃいけない」
だいぶブラックな噂がたったメーカーに内定した石田は、座右の銘に「面白きこともなき世を面白く」とか「死ぬこと以外かすり傷」とかを挙げるタイプで、ほかにもSNSで見かけるような格言はだいたい好きな人間だった。
そういう僕も当時は「レセプション・パーティ」や「ローンチ・イベント」といった類の言葉に密かに高揚してしまうタイプだったから、二人の価値観や人間性に、大した違いはなかったのかもしれない。
そんな石田から提案された「勝ち組飲み」に、僕は二つ返事で参加意思を表明した。もちろん石田自体に興味はない。ただ、「リリース・パーティ」のように限られた人にだけ参加権利が与えられたコミュニティに入れることを、悪くはおもわなかったのだ。
その日のうちに招待されたLINEグループには、「勝ち組メンバー2013」なるタイトルが、やたらと眩しく輝いていた。
総合商社、外資金融、大手コンサル、総合広告代理店、ITメガベンチャー。
震災から一年は経っていたものの、二〇一二年に実施された新卒採用試験はかなりキツかった。そんな状況下でも「勝ち組」メンバーは皆、誰が聞いてもわかるような会社にばかり内定を得ていたから、最低でも運だけは強い集団と言えた。
一方、僕の就活と言えば、実は第一志望に掲げていた広告代理店に全敗し、あくまでも第一志望“群”だった印刷会社に行くことで決着していたから、手放しで喜べるエンディングを迎えたわけではなかった。
「クリエイティブなことをしたい」と大雑把に願った僕の夢は、せいぜいエントリーシートか二次面接止まりで散った。大手の印刷会社に内定が決まると、両親は見たことないほど喜んで、僕はその顔を見て、あっさりと将来を決めたのだった。
妥協だらけだった人生に、もう一つ妥協を押し込んだ瞬間だった。そのときから生まれた小さな違和感を“後悔”と呼ぶことに気付くまで、大して時間はかからなかった。
明大前の沖縄料理屋に集まった「勝ち組」は、十四名だった。
出席者はみんな黒髪で、就活終わりたてに匂いがあるなら異臭騒ぎにでもなりそうなほど、わかりやすく大学四年生の身なりをしていた。ソリューション。モチベーション。イノベーション。「言いたいだけ」のカタカナが十畳ちょっとの座敷の半個室、二テーブルの間を飛び交っていく。
二つ隣の席の女子の笑い声が、やたらキンキンと響いていた。負けじと声を張ろうとするから、より騒がしくなる。地獄絵図のようになった場内で、鏡月のボトルは、みるみる水位を下げていった。
「彼女」の存在に僕が気付いたのは、隣に座っていた石田が立ち上がり、自作の名刺を配りながら、海外留学の自慢話を始めた頃だった。
半個室の入り口から、最も遠いテーブルの奥。何人かの内定者の陰になる位置で、彼女は膝を折り曲げて、体育座りをするように座っていた。ビールがわずかに残ったグラスを、折り曲げた膝の上に置いて、持てあますようにユラユラと揺らしていた。
ぼんやりと石田の話を聞く彼女の頰には、大きく「退屈」と書かれていた。盛り上がり続けるこの場の空気には相反しすぎていて、彼女の座る場所だけ、沈んで見えた。真夏の乾燥地帯に、一カ所だけゲリラ豪雨が訪れているようだった。大きな暴風雨の隙間から、小さな陽だまりが湧いているようだった。
その存在を意識した途端、僕には彼女だけが3D映画のようにくっきりと浮かび上がって、見え始めたのだった。大振りなイヤリングがよく似合うショートヘア。幅の広い二重のまぶたは色気を醸し出していて、低い鼻と小さな口は、それらとバランスを取るように置かれていた。モデルのように華やかな印象はないけれど、各パーツの絶妙な配置によって、先天的な愛嬌を生んでいた。LINEよりも手紙が似合いそうだし、パスタよりも蕎麦が似合いそうだった。スマホよりも文庫本が似合いそうな人だし、要するに、完全に僕の好きなタイプだった。
この日までそれなりに授業には通ってきたつもりだ。それでも彼女をキャンパスでは見かけたことはなかったから、もしかすると別の大学、もしくは別のキャンパスの人かもしれない。考えてみればこの飲み会、参加者の自己紹介すら、途中で有耶無耶になっていた。それもこれも、石田の冒頭の挨拶が長すぎたせいだ。おかげで彼女の名前すらわからないし、僕の名前すら、知られていない。
リノベーション。プレイステーション。マスターベーション。ビールの空き瓶が交換されるたび、「勝ち組」たちの会話は中身を伴わなくなっていく。何も生まない議論は泡のように分解されて、濁った空気に溶けた。彼女は時折り愛想笑いを浮かべながら、じっとじっと、何かに耐えているようだった。
明け方の若者たち
6月11日発売、人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説、『明け方の若者たち』をご紹介します。
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