「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。
カツセマサヒコさんのデビュー小説『明け方の若者たち』の文庫が11月17日に発売いたします。北村匠海さん主演で映画化も決定している大注目の作品より1章・2章を、映画の場面写真とともに、8日間連続で特別公開します。(全8回/2回目)
* * *
会場が広くなったように感じたのは、石田がトイレに立ったからだ。さっきまで彼のテンションに引っ張られて盛り上がっていた酔っ払いたちは、「いや~石田すげえわあ」と誰に向けるでもなく言った後、仕切り直すように二、三人ごとに談笑を再開していた。
僕もどこかの輪に加わろうと立ち上がったところで、彼女も同時に、腰を上げたことに気が付いた。
空気が変わりつつあった半個室に擬態するように、彼女は壁伝いにひっそりと、部屋の入り口へ向かう。石田がいなくなったとはいえ、話題の尽きない「勝ち組」たちは、彼女の異変に気付かない。
僕は腕に抱えられたトレンチコートとリュックを見て、今日一番興味を持てた人が、早々に帰ってしまうことを悟った。
せめて一言でも、会話くらいできたら。あわよくば、一緒に抜け出しちゃったりとか。軽い妄想を繰り広げている間にも、彼女はこちらに向かってくる。そのまま一言「お疲れ様です」とか言って、会場全体に声をかけてしれっと帰るのが、こういう人にありがちなパターンだ。きっとそんなもんだろうと諦めかけた、そのときだった。
「あれ?」
彼女はワイドパンツにつけられた前後のポケットを、ぱんぱんと叩き始めた。
わかりやすく、何か忘れてるやつ。
ポケットに目的のものがないことを確認すると、今度はリュックのファスナーを開けて、ゴソゴソと底まで腕を忍ばせる。探し物をするその様子が、なんだか滑稽に映って、見ているこっちが照れてきた。あまりにも見つからないようで、助けるべきかと声をかけようとしたところで、目が合った。
「ごめん、携帯なくしちゃったみたいで。番号言うから、かけてくれない?」
ここでようやく、冒頭に戻る。これが、僕と彼女の始まりだ。
別注で作られたような似合いすぎる黒いキャップ。細い首と鎖骨が露わになったカットソー。シルエットをぼかすように穿いたデニムのワイドパンツ。
腕に抱えられたトレンチコートは、色が濃すぎないベージュで、彼女以外が背負ってもオシャレにならない黒のリュックは、少し傷んでいるようだった。
彼女は申し訳なさそうに、僕の携帯の画面を覗き込んだ。少し不安になるほど小さな顔が、すぐ横にある。放っておくと、萎んで消えて、なくなってしまいそうだった。
「番号いくつ?」と尋ねると、「080」から始まる十一桁の番号を、彼女は歌うように告げる。キャップ越しでも届く甘すぎない石鹸のような匂いが、ふわりと香った。僕は間違えないように、言われたとおりの番号を画面に打ち込んだ。
居酒屋で落とした携帯電話は、大体はメニュー表の下か、座布団の裏から見つかる。
さっきまで彼女が座っていた場所に注意を向けてみるけれど、周りのやつらはやたらと騒いでいるし、携帯が震えたぐらいでは、気付かないかもしれない。
いっそ席まで探しにいこうかとおもったところで、隣にいた彼女が「あ」と言った。
一瞬、こちらの顔色を窺うような表情をしてから、ワイドパンツのポケットをゴソゴソと漁る。震えて光るスマートフォンが、気まずそうに顔を出した。
「え、持ってたの?」
「ごめん、ポケット入ってた」
「いやいや、探すの、下手すぎじゃない?」
あははと、彼女は力なく笑った。
「ほんと鈍臭いよね、ごめんごめん」
笑うと、目がなくなる人だった。くっきりとした二重の線は消えて、口元には、少し主張の強い八重歯が覗いていた。口元を手で隠す癖があるのは、この八重歯のせいかとおもった。
初めて僕にだけ向けられた笑顔に、心が溶けていく感覚があった。パンケーキの上に置かれたバターみたいに、じわじわと滲んで、端からやわらかい生地に、染み込んでいくようだった。温かな笑顔の余韻を残したまま、彼女は僕に話しかけた。
「ごめん、先に店出ちゃうんだけど、お金どうしよう?」
「あ、もう帰るの?」薄々わかっていても、落胆した気持ちが、自分の表情に出ていないか、心配になった。「うん。ちょっと顔出そうとおもっただけだから」
そう言いながら、彼女はリュックから黒革の長財布を取り出す。女性が持つには、少し渋すぎるデザインが、何か財布以外の別のものに感じさせた。
「んー、千円くらいでいいんじゃない?」適当に僕が値段を設定すると、彼女はありがと、と言いながら、千円札を抜き出して僕に渡す。無造作に入れられたクシャクシャのレシートたちが、ガサッと溢れそうになって、下着を見たような罪悪感に駆られた。
「じゃあ、ありがとね」「うん、おつかれさま」
静かに去ろうとする彼女に向けて、どうにか笑顔を作ってみる。会場内の勝ち組たちも、彼女の退席に気付いた。主に男性陣を中心とした野太い声で「えー!」とお決まりのリアクションが上がる。小さなライブハウスに出演したアーティストが「次で最後の曲です」と言ったときと同じ、アレだった。「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングで、お友達紹介に移ったときと同じ、アレだった。彼女は男たちのリアクションを聞こえなかったかのように受け流して、笑顔で部屋を出て行った。
BGMが途切れがちになる沖縄料理屋の店内を、キャップを被ったショートカットが軽やかな足取りで進んでいく。わずかに覗いたうなじが見えなくなるまで、僕の視界は、ただ一点に集中し続けていた。
明け方の若者たち
6月11日発売、人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説、『明け方の若者たち』をご紹介します。
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