「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。
カツセマサヒコさんのデビュー小説『明け方の若者たち』の文庫が11月17日に発売いたします。北村匠海さん主演で映画化も決定している大注目の作品より1章・2章を、映画の場面写真とともに、8日間連続で特別公開します。(全8回/6回目)
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記憶を呼び起こすスイッチというものが、世の中にはいくつも設置されている。
定食屋で流れたJ-POPを聞いて、受験期の校舎の空気を思い出すことも、キンモクセイの香りを嗅いで、幼少期に住んでいたアパートの自転車置き場を思い出すことも、全てはこのスイッチによって過去と現在が強制接続された結果だ。
僕に付けられた「彼女を思い出してしまうスイッチ」もまた、田舎町で見られる星の数と勝負できるほど、たくさんあった。たとえば綺麗な満月が見えたくらいで、脳内には鮮明に彼女の横顔が描かれた。コンバースオールスターを見かけただけで、小さな足はささくれまで見えるほど、高い解像度でまぶたの裏に映った。
いくつものスイッチのうちの一つに、「雨の日」というものもある。
雨が降った日には、彼女を思い出すことが多い。なぜかと振り返ってみれば、霧雨でも、台風でも、大抵の雨の日は、なぜか二人でいることが多かったからだ。
彼女との初デートも、初めて夜を明かした日も、今おもえばそこには、雨が降っていた。
*
「演劇好き? 観に行かない?」
彼女からLINEが届いたのは、明大前で出会った夜から三日後のことだった。再会するための口実をどうにか見繕おうとしていた僕にとって、突如届いた彼女からの誘いは、大げさに言えば、遠い海や星を越えて届いた、奇跡の手紙のようにおもえた。
すぐに返事をするのもなんだか暇におもわれそうで、しっかり十一分あけてから、既読をつける。明大前からの帰り道、「楽しかったです」と、お互い敬語で送り合ったきりになっていたやりとりに、絵文字もスタンプもない短い文章が、追加されていた。
どんな返事を送ろうか迷った末、「行きたい行きたい。最近見てないし!」と当たり障りのない一行を送る。本当は、演劇なんて好き嫌いの判断もつかないほど、見たことがなかった。
僕は文化的な趣味を一切持たない親から生まれた。劇場や美術館に連れて行ってもらったことはなかったし、演劇部の友人を持つこともなかった。過去に観に行った舞台は高校の修学旅行でプログラムに組み込まれていた劇団四季の「ライオンキング」だけで、その壮大さには感動したものの、それ以降も観劇とは無縁の暮らしをして、今に至った。観劇という趣味は僕にとって、まさに「ライオンキング」のように壮大で、身近にはない崇高なものだった。
好きでも嫌いでもないのだから、劇の内容がどのようなものであっても構わない。わかりやすく笑えるコメディや現代劇なら嬉しいけれど、シェイクスピアの四大悲劇がどれかもロクに言えない僕なのだから、どんなものを観てもそれなりに楽しめるのではないかとさえ考えていた。
なにより、薄暗くなった劇場の隣の席に彼女がいる。その官能的で緊張感のある空間を、ただ味わってみたかった。演劇に対してどこまでも不誠実な態度で当日を迎えた。
彼女がそれを「デート」とおもっていたかはわからない。でも、「下北沢で観たい舞台があるから」と日時・場所まで指定されたLINEは、僕にとっては紛れもない初デートの誘いだった。
彼女が当日の集合場所に指定したのは、下北沢駅から徒歩二分、本多劇場の階段から直結している「遊べる本屋」こと、ヴィレッジヴァンガード下北沢店だった。
「サブカルの入門じゃん。知らないの?」と友人からマウントを取られた高校三年の夏以降、僕はこの店に多大なコンプレックスを抱いている。
地元の書店では見たこともない漫画やカルチャー誌、廃墟の写真集、ジブリの名曲をジャズアレンジしたCD、真顔では使えなそうなアダルトグッズ、忘年会以外に着るタイミングがわからないプリントTシャツ。この店は「本屋」という概念から逸脱するように、明らかに雑多な商品群を、何らかの軸や筋、文脈をもって陳列している(もしくは、そうおもわせている)。
濁流のように溢れる情報を「ふうん、なるほどね」と知った顔をしたり「ほお、そうきたか」と熟練ぶったフリをしたりして歩くのが、僕なりのこの店の嗜み方だった。
店内は迷路のように混沌とした形状をしていて、その複雑さこそがウリだ。待ち合わせスポットとしては最難関のようにおもえた。そこをあえて指定してくる彼女にもまた、この店に対する嫉妬や羨望に似た感情を抱いてしまう。なんか、ズルい。いつもそうおもわせてくるのが彼女であり、この店だった。
「店内で待ち合わせするの、ムズくない?」
「いいじゃん、先に見つけた方が勝ち、ってゲームにしよう?」
待ち合わせに勝ち負けなんてあるかよ、とおもいながら、無邪気な彼女の発想にニヤけた。「絶対先に見つける自信あるよ」と返事を打って、LINEを閉じる。僕と彼女の小さなかくれんぼが始まった。
いくつかのお香と古着の匂いが混じったような、ほんのり甘い香りがする。ヴィレッジヴァンガードは、どの店舗に行ってもだいたいこの匂いだ。
相変わらず情報量が多い店内に目を慣らしながら進むと、ボサノヴァ風にアレンジされたスピッツの『ロビンソン』が小さなスピーカーから流れている。少し鼻にかかる歌声を響かせる女性ヴォーカルが、この店の雰囲気によく似合う。目線をおろすと、海外アニメのキャラクターみたいなキーホルダーがこちらを馬鹿にするように笑っていた。
さらに二十歩ほど歩く。今度は別のミュージックビデオが流れていて、キンキンと張り詰めた声をした男性ヴォーカルが、マイクに噛みつきそうな勢いでサビを歌っていた。この店特有の黄色い手書きのポップを眺めながら、アーティストの名前をスマホのメモ画面に入力してみる。
タワーレコードやツタヤといったレコードショップでは見たことがなかったアーティストが、ヴィレッジヴァンガードでは最前列に陣取っていることがよくある。クラスメイトが知らないであろう音楽と出合うだけで、学生時代の僕の承認欲求はひたひたと満たされた。今おもえばそれも、神保町ジャニスやディスクユニオンといったレコード専門店が、当時の僕にはハードルが高すぎた結果、辿り着いた妥協点なのかもしれない。
彼女との約束の時間までは、まだ少し余裕があった。僕は磁場の狂った樹海のような店内を彷徨(さまよ)いながら、彼女と会ったらまずどんな話題から切り出そうかと、ひとり妄想にふけっていた。
気付けば足は、女性の肌がやたらと強調された写真集コーナーに辿り着いている。ほぼ全裸の女性モデルが、「オシャレでしょ?」とあざとく問いかけてきて、エロとオシャレの境界線みたいな場所に、なんとなく居心地が悪くなる。引き返そうとしたそのときだった。
「へえ、そういうのが好きなんだ?」
完璧に最悪なタイミングだった。細くて、やわらかい声。明らかに意地悪な顔をした彼女が、グラビアコーナーの角に立つ僕を見て、ニヤついていた。
「いや、違くて。この子、知り合いだったんだよね」
巨乳の美人をそれとなく指差しながら、彼女から視線を外す。もちろん、表紙の女性には、何の面識もない。
「へえ、知り合い。うちの大学の子?」
「いや、全然! 遠い知り合い、って感じ?」いや、そもそも、知り合いではないんです。
「へえー。おっぱい大きい子、好きなの?」
「いや、そんなことないけど。ねえ、真昼間から性癖チェックするの、やめない?」
口角をわざとらしく上げて「おっぱいかあ」とニヤつく彼女の後ろを歩きながら「ほんとやめろ」とツッコんだ。
この前と同じ黒のキャップ。でもこの前とは違う、丈の長い真っ黒なワンピース。何度か脳内でシミュレーションした感動的な再会シーンとは全く異なる形で、僕らは再び出会った。小さなかくれんぼは、僕の敗北で終わっていた。
明け方の若者たち
6月11日発売、人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説、『明け方の若者たち』をご紹介します。
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