「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。
カツセマサヒコさんのデビュー小説『明け方の若者たち』の文庫が11月17日に発売いたします。北村匠海さん主演で映画化も決定している大注目の作品より1章・2章を、映画の場面写真とともに、8日間連続で特別公開します。(全8回/7回目)
* * *
本多劇場の前を通過することは何度かあっても、中に入るのは初めてだった。
入り口前でチケットの確認を済ませると、天井がやや低い、少し圧迫感を覚えるロビーへと通される。開演初日と彼女が言っていたのもあり、開演前のロビーフロアはとても混雑していた。物販コーナーの近くでは、パンフレットとキャストのブロマイドを購入しようとする観客で、大きな賑わいを見せている。酸素が外気の半分に設定されたように薄く感じて、どうにも息苦しい。
彼女は立ち止まることなく、客席へ続く分厚い扉に手をかける。僕は場慣れしていないことを気付かれぬよう、できるだけ余裕を持ったフリをして、ドアマンのように後ろから扉を引いた。
外観から想像していたより、よっぽど大きな劇場だった。二階席まではないものの、後方から見れば、演者の表情まで確認するには少し難しいほど、奥行きと高さがある。客席はすでに半分ほど埋まっていて、みんなこの場に慣れた、文化的な顔つきをしていた。
僕らに用意された席は、真ん中より少し後方、端っこの二つ。彼女にどちらに座りたいか尋ねられ、「好きな方を」と答えると、僕の右隣に座った。座るなら右側を選ぶ人なのだと、脳に刻み込んだ。
「結構大きい劇場なんだね」
「今回のやつ、演出家が有名な人なの。普段はもっと大きな会場ばっかりだから、このくらいのハコは、余裕で埋まりそう」ワンピースがシワにならないように、手で体のラインをなぞりながら、彼女は続ける。
「小さい劇場だと、本当に狭いんだ。中目黒のウッディシアターとか、行ったことある?」
「行った気がするけど、どんなんだったっけ?」
もちろん行ったことがない僕は、小さな嘘を着々と積み重ねる。
「堅い木の長椅子に、薄い座布団が並んでるだけ。足組むこともできないまま、二時間ぎゅうぎゅう詰めのやつ」
「あー、行ったこと、あったかな」
「それでもまだ大きい方なんだけど、でも小さいハコも、楽しいよ。舞台って、映画よりはライブに近いとおもっていて、ハコが小さいとそのぶん、演者とお客さんの熱量が一体になっていく感じがするのね」
「おおー、なるほど?」
「私は、その感じも好き」
好き、という言葉を愛おしそうに使う人だった。そんな人の好きな人になりたいとおもう僕がいた。シェイクスピアの四大悲劇すらロクに答えられない僕の存在は、ヴィレッジヴァンガードにいちいち憧れを抱かないであろう彼女の目に、どのように映っているのだろう。開演を告げるブザーが、僕らの会話を遮るように鳴った。
*
本多劇場を出ると、梅雨の予行演習のような雨が降り始めていた。街はここのところ外れがちな天気予報に辟易としながらも、慣れた手つきで店先に、雨除けのビニールカバーを垂らしていく。
重たく曇った空を二人で眺める。傘を買ってちょっと歩こうかと提案したのは僕からで、彼女はそれに快く同意してくれた。コンビニのビニール傘は在庫をかなり減らしていて、この雨が少し前から降っていたことを物語っている。
残り少なくなったビニール傘を二つ買ってコンビニを出ると、キャップから覗く大きな瞳に向かって、「どうでした?」と劇の感想を尋ねる。僕の感想が彼女の意にそぐわなかったら申し訳なくて、先に聞くことだけは決めていた。
劇は、部分部分で楽しめる要素は確かにあったものの、没入するには至らず、モヤモヤとした気持ちを残して静かに終わった。二度のカーテンコールで客席に姿を見せた演者たちは、遠目から見ても清々しい顔をしていて、それが尚更、違和感に繋がった。
劇の冒頭、舞台の両脇から十五人ほどの役者が出てきて、すれ違う。役者たちが交差する間際、オフィスカジュアルに身を包んだ女性だけが、突如客席に体を向けた。
「昨日もだよ! 昨日も同じ道を歩いてた。一昨日だって、その前だって、何カ月も、何年も前だって、私はこの道を行ったり来たりしてる。ほかにいくらでも道は広がっているはずなのに、ただ会社から指定された定期券に従って、通勤経路を辿って、アリのように家とオフィスを行ったり来たりするだけ。何の意味がある? この行動に! 替えなんていくらでもいる、この生き方に!」
雑踏の中心で叫ぶ女性に対して、会場は異質な存在を受け入れきれないように、沈黙を貫いた。複数の通行人役の演者たちは、主人公を見ることもなく、その場に静止している。
「いくら声を荒らげたって、誰も救ってくれないことも知ってる。それが大人ってことだもん。じゃあ、あのとき、私が夢見てた将来は、どこに行ったんだろ。あんなにキラキラしてたはずの未来は、どうして現実になってみれば、こんなにくすんで、魅力を失っちゃうんだろう。みんな、忘れて大人になるのかな。大人ってそういうことなのかな。いまだに諦めきれないのは、私だけなのかなあ!」
序盤から、怒濤の長ゼリフが続いた。強い言葉と露骨なメッセージ性に、気恥ずかしさすら覚えて目を背けたくなる。早くも興醒めしかけている僕がいた。それすら狙いであるかのように、舞台は、鋭さをもって進行し続ける。
心細くなって、すぐ横にいる彼女の存在を、確かめようとする。薄暗い客席では、自分の手元すらよく見えなかった。
舞台は、主人公が会社の屋上から飛び降りて終わった。
*
演劇の知識がないから楽しめなかったのか。それとも作品として面白くなかったのか。僕は答え合わせがしたくて、改めて彼女に感想を促した。
「んー、ちょっと、期待はずれかな?」彼女はビニール傘をゆっくりと回しながら答える。
「もちろん、あの演出家さんっぽいなって感じさせるシーンも多かったし、オマージュもたくさんあってニヤニヤしちゃったけど、でも、なんか、ストーリーだけで言えば、この間の飲み会の、延長線の話なんだなあっておもった」
「あの、勝ち組飲み? どゆこと?」
「んー、私たち、一番の夢を叶えたわけではないにしろ、来年から働くことに、多少は前向きでいるでしょ?」
「そりゃあまあ、そうだね?」
「働かなくて済むならそれが一番! って考えもあるけど、でもどうせ働くなら、少しでも自分が興味を持った分野で働きたいとおもって、就活してたでしょ?」
「ウンウン、そうね」
「で、その結果が、今日の劇の人たちじゃん。夢見た景色とは全然違うところに立って、こんなハズじゃなかった! って、頑張って抗って、平凡から逃れようとして、何者かになろうとしてる。結果、主人公は飛び降りちゃうし」
「確かにそうかも」
「社会人になったら、イイ会社に入ったら、何者かになれるかとおもったのに、そんなことないんだなあって」
「そうだねえ」
「それ考えてたら、逆に、なんか楽しいなっておもっちゃった」
「え、なんで? しんどくない?」
「だって、何者か決められちゃったら、ずっとそれに縛られるんだよ。結婚したら既婚者、出産したら母親。レールに沿って生きたら、どんどん何者かにされちゃうのが、現代じゃん。だから、何者でもないうちだけだよ、何してもイイ時期なんて」
「うっわー、大人すぎる。人生、何周目なの」
そんなんじゃないって、と笑いながら、彼女はまたビニール傘をゆっくりと回す。雨はまだまだ、止みそうになかった。
明け方の若者たち
6月11日発売、人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説、『明け方の若者たち』をご紹介します。
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