「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」その16文字から始まった、沼のような5年間ーー。
カツセマサヒコさんのデビュー小説『明け方の若者たち』の文庫がいよいよ本日11月17日に発売となります。北村匠海さん主演で映画化も決定している大注目の作品より1章・2章を、映画の場面写真とともに、8日間連続で特別公開します。(全8回/8回目)
* * *
駅を中心に広がった複数の商店街をダラダラと歩いていると、観劇で帯びた重たい熱は徐々に冷めて、傘を持つのも少し億劫になった。どこか店に入ろうかと提案したいけれど、カレー屋ぐらいしか知らないのが、恥ずかしい。わかりやすくオシャレそうなカフェに入るのもいいけれど、この街の飲食店は、どの店も入り口が狭い気がして、OPENという文字がかえって排他的な空気を醸し出している気がした。
いい店を知っているわけでもないし、居酒屋に行くには早すぎる。どうしたものかと考えていたら、いつの間にか本多劇場の近くまで戻ってきていた。下北沢は不思議な街で、迷ったとおもった瞬間に、元の場所まで戻ってきていることがよくある。
「もうサイゼで飲んじゃうってのは、どう?」
ライブハウスCLUB Queやカラオケ館がある交差点で、彼女はサイゼリヤの看板を指差した。
「え、サイゼって、飲めんの?」「知らない? すっごく安く飲めるの。優秀なの」こちらの同意を取ることなく、彼女は水たまりを避けながら、テナントビルへと足を進めた。
傘を畳んだのは、まだ十七時のことだった。
店内は酷く閑散としていた。普段ならドリンクバーひとつでいつまでも居座ろうとする高校生や大学生が溢れているのに、奥に部活帰りの男子高校生を確認できたぐらいで、あとは新聞を読みふける老人や、買い物帰りとおもわれる三人の女性しかいなかった。入り口近くの天井の照明がチカチカと点滅していて、物寂しさにさらなる追い討ちをかけていた。
ブリーチして傷みきった髪をそのまま伸ばしたような風貌の男性スタッフが、気怠そうに出てくる。一度もこちらの顔を見ないまま「お好きな席どうぞ」と言うと、そのままフロアの奥に消えて行った。
「なんか、シモキタ感がすごいね」彼女が小さく笑いながら言うと、それもそうだとおもって、なんだか愉快に感じてきた。隅のテーブルに着くと、端が折れ曲がっているメニューを何度か開いて、白ワインのマグナムボトルを頼む。
まだ日も暮れぬうちから、僕らは乾杯を始めた。
「とりあえず」と言って頼んだミラノ風ドリアやエスカルゴのオーブン焼き、小エビのサラダを二人ですくいながら、互いのグラスになみなみとワインを注ぐ。どんな男が好きで、どんな女と付き合ってきたのか。どんな映画が好きで、どんなCDを最初に買ったのか。お互いの「これまで」を、出会った夜より詳細に明かし合った。二時間が経つ頃には彼女の二重のまぶたはさらに重たくなっていて、気怠さを通り越して、ふてぶてしさすら感じさせつつあった。その態度もまた、僕という存在が彼女に許されている証拠のようにおもえた。
「あれ、間違い探し、載ってる」
子供用のメニューを開いた途端、目が覚めたような顔をして彼女が言った。
「あ、知ってる、それ。めっちゃ難しいんでしょ?」
「そうそう。難しすぎてクレームがきて、なくなったって聞いてたの」
「え、じゃあ、なんであるの?」
「わかんない。なんでだろ? 店員が、ズボラだから?」
「いや、そんなことある? 失礼すぎるでしょ」
笑いながらテーブルの上にメニューを広げると、彼女が身を乗り出す。石鹸に似た香りがこちらまで届いた。可愛らしいというよりは幼稚なイラストが二つ並んでいる。互いの髪の先が触れる距離で、覗き込んだ。
「こんだけ酔った状態でやるの、ハードモードすぎない?」
「大丈夫、私、得意だから」
彼女は重たそうな目をこすりながら、これじゃない? ここでしょ? と、当てずっぽうにイラストを指差し始めた。違うね? また違うね? と僕がツッコむたび、ヘラヘラと笑ったり、ブーと膨れたりして、忙しい。
五分ほど経ったところでようやく一つ間違いを見つけると、ほら、できるでしょ? と大げさに威張ってみせた。はいはいと雑な相槌を打つと、強引に促された乾杯に、渋々グラスを反応させる。
「楽勝なんですよ、こんなの」
「いや、まだ一個目だからね?」
「大丈夫、ここから早い。こちとら人生、間違えまくってるから」
意気込みを全く感じさせない笑顔で答えた。彼女の目は、ほぼ閉じかけている。店内は気付けばファミリー層一色になっており、スーツ姿の男性が、気不味そうに隅に座っていた。
途中で全く別の話をしたりすることはあったけれど、彼女はなんとか八つの間違いまで見つけ出した。
飲み干して傾けたグラスに、微かに残った白ワインが一滴垂れる。底に向かってゆっくりと降りていく水滴を、彼女の細く綺麗な小指が小さくなぞった。
「間違いだらけなのに、こうやって探そうとおもったら見つからないの、なんか人生っぽくない?」
綺麗な声で、綺麗な言葉が出てくる。彼女は酔っ払うとたまに、メモでも取りたくなる名言を呟いた。「よくそういうポエム、浮かぶね?」「うるさいよ」
僕の手を軽くつねった指先は、「痛い痛い」と大げさにリアクションすると、力を弱めた。酔いのせいなのか、人差し指と親指だけでもわかるほど、彼女の体温は温かかった。
「間違いのない人生って、きっと、楽しくないんじゃない?」
「それは、間違ったことがない人のセリフだなあ」
「そんなことないよ。俺だって、間違ってばっかりだよ?」
「ううん、間違い自慢を聞きたいわけじゃないの」
彼女は再び水滴をなぞると、トンと静かな音を立てて、テーブルに突っ伏した。
「あー、ちょっと、眠さが限界。一旦、店出よう?」
「まだ十時前だよ? 大丈夫?」
「うん、昨日、あんまり寝てないの」
かれこれ五時間近く、飲み続けていたことになる。
会計を大雑把に済ませると、僕らは湿ったアスファルトが光る夜の下北沢へ、ふらついた足で繰り出した。
明け方の若者たち
6月11日発売、人気ウェブライター・カツセマサヒコさんのデビュー小説、『明け方の若者たち』をご紹介します。
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- ストーリーのある会社に“彼女”には勤めて...
- #8 下北沢は湿ったアスファルトの上で静...
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