日常の鬱憤を吹き飛ばす怪物的エンタメ! 新野剛志さん文庫最新刊『ヘブン』の試し読みを5回に分けてお送りします。
ヤク中の元刑事、売春するアイドル、半グレの復讐、ヤクザの報復ーー「世の中クソみたいなやつが多すぎる」
プロローグ
神が見えたぞ!
ぬかるみにタイヤがはまり、急減速した。倒木にでもぶつかったような衝撃があった。真嶋は前方に投げだされ、運転席のバックレストに体を打ちつけた。
旧型のランドクルーザーはそのままぬかるみを抜けだし、すぐさまスピードを上げる。密林が迫る細い山道を、車体を揺らして駆け下りる。そのときタイ人の運転手が叫んだのだ。
真嶋はタイの言葉などわかりはしなかった。しかし不思議なことに、このときだけは、「神が見えたぞ」とはっきり理解できた。
仏教の国にも神がいるのか。真嶋は自分が理解したことにも、運転手が神を見たことにも疑いをもたず、かすかな驚きをもってそう考えた。
隣に座るタイ人が運転手に向かって怒鳴ったが、それはもう理解できなかった。たぶん、気をつけろとでも言ったのだろう。細い山道を、ときには七、八十キロにも迫るスピードで夜通し飛ばしてきた。カーブでもさほどスピードを緩めず、対向車がきたら確実に死が待っている。本当にそう言ったなら、いまさらな言葉だった。
もともとこの国の人間は運転が荒い。命の安さが無謀な運転を誘発しているように思えた。神など見えるのも、命の価値が低いから──死が近くにあるからなのだと真嶋は直感した。この国にきて四ヶ月、自分の命も軽くなってきているのだろう。どんなに山道を飛ばそうと恐怖はわかなかった。ここでくたばるなら、それまでの命だと達観していた。
夜が明けたころ、平地に下りた。集落をふたつ通りすぎ、再び山を登り始めてすぐ木製の柵に囲まれた敷地が見えてきた。樹木が生い茂り、敷地内にどんな施設があるのかはわからないが、広大であることはわかる。柵が現れてから一分ほど進み、ようやく門が見えた。
石積みの門柱、鉄格子の門扉。ランクルが停まると、門扉が開き、男がふたりでてきた。ベルトに抜き身の銃を無造作に差し込んだ男たちは人相が悪い。しかし凶悪な印象より貧しそうな印象が強いのは、これまで会ったこの国の多くの犯罪者連中と一緒だった。
先に降りたタイ人が守衛と言葉を交わしてから、戻ってきた。「カモン」と言うので真嶋は車を降りた。守衛のひとり、薄い口髭を生やしたひょろっとした男が、ついてこいという風に首を振った。真嶋はあとについて門に向かった。
門には「ヘブンリーランチ」と英語で表記されていた。天国の農場とでも訳すのだろうか。
門を潜り、ぬかるんだ赤土を進む。車のドアが閉まる音が響いて、背後に目をやった。泥に汚れたランクルが門のなかに入ってきた。ぐるりと転回し、そのまま門をでていく。重いエンジン音を響かせ、もときた道を戻っていった。これで帰りの足はなくなった。
敷地は山というより緩やかな丘陵状の地形で、朝露がしたたる森を抜けると、一定間隔で樹木が植わった果樹園のようなものが丘の上に延びていた。低いところには、人家と思われる小屋がいくつも建っており、農場はひとつの村のようなものだと理解した。
果樹園から離れるように、道は再び森のなかに入っていく。守衛のあとについて、ひたすら歩いた。日はすでに高いところにあり、影を落としながら道を照らした。しかし、ぬかるみが乾ききる前に、またスコールがやってくるのがいまの季節だ。
やや開けた場所にでた。無数の鶏が地面を駆け回っていた。大きな小屋が森にへばりつくように建っていた。高床でガラスのはまった窓があり、鶏小屋という感じではなかった。
守衛が立ち止まり、小屋のほうを指さし、言葉を発した。何を言っているかは理解できないが、笑みを浮かべた顔は楽しげだった。真嶋は首を横に振った。守衛はルック、ルックと鼻にかかった声で叫ぶ。要は小屋を見にいってみろというのだろう。早く先に進みたい真嶋は、再び首を振った。しかし、守衛はがっかりしたような表情をして、なおもルック、ルックと言う。真嶋は見てしまったほうが早いと思い直し、道を外れて小屋に向かった。
鶏が逃げまどうように真嶋の進路を開けた。小屋に近づくと、その向こうにも一回りほど小さな小屋が建っていることに気づいた。窓もない簡素な造りで、たぶん鶏小屋なのだろう。そちらのほうから、こつんこつんと、木を打つような音が聞こえた。
真嶋は階段に進み、小屋のデッキに上がった。窓は開いていて、なかからポップな音楽が漏れてくる。ひとの声は聞こえない。小屋に近づき、窓からなかを覗いた。
見た瞬間、おかしな光景だと思ったものの、その本当の意味に気づくまで少し時間がかかった。二十人ほどが、床に手と膝をついて動き回っていた。ポップミュージックにのって朝の体操でもしているのか。しかし、子供がはいはいをするのとはまた違った妙な軽さがある、と気づいたとき、真嶋の目はそれを捉えた。慌てて視線を振った。闇雲に視線を散らし、やがてひとりひとりに視線を配ることで何がどうなっているのか、はっきり摑むことができた。
本来、ずるずると引きずっているはずの、膝から先がなかった。そればかりでなく、腕も肘から先がないのだ。だからちょこまかとした動きになり、妙な軽さを感じた。みんなそうだ。ここにいる二十人ほどの人間すべて、両の膝から下、肘から先がなかった。
男が多いが女もいる。若いのも年取ったのも、みんな赤児のように床をはい回っている。真嶋は寒気を覚えた。グロテスクを超えた光景に恐ろしさを感じた。神を見たような、その存在を肌で感じたような、気持ちの悪さにおののいた。
足音が聞こえた。真嶋は振り返った。
男がデッキに上がってきた。やせ細った貧相なチンピラではなかった。高級とは言いがたいが、幅の広い顔に浮かんだ笑みに余裕が窺えた。ただ、服装はひどい。血の飛び散ったよれよれのTシャツ姿。手にもった中華包丁にも真新しい血がついている。男は包丁をひらひらさせ、クォクォッと鶏の鳴き真似をした。鶏をさばいていたところだと言いたいようだ。
「ヘイ、ジャパニーズ・ギャングスター」
目を丸くし、ばかにしたような顔で、そう呼びかけた。
この男は、真嶋が何者であるか知っている。やはりただのチンピラではない。
「ドゥーユー・ウォントゥーシー・マイボス?」男はたどたどしい英語で訊いた。
「イエス」と答えた真嶋は、少し気取って、「シュアー」と付け足した。
もちろん会いたい。そのためにここにやってきたのだ。
日本からタイに逃れてきて四ヶ月。真嶋はタイの裏社会の扉をノックし続けた。扉となるのは末端のドラッグ密売人などチンピラばかり。どうにか扉をこじ開け、これまで三人のボスを紹介してもらったが、チンピラに毛が生えた程度の者からそれなりに名を知られた者へと順調にステップアップしていき、ようやく本物のビッグボスに辿り着けた気がする。タイ北部の山岳地帯。かつては麻薬の一大産地として知られたこの地に根を下ろすボスと、いったいどういう話ができるのか、真嶋自身想像ができていなかった。もともと大きな計略などない。運を──運命を試すようなつもりで動き回ったが、ただの逃亡者がここまでこられたのだから、それなりに運はまだ残っているようだ。
包丁をもった男は、笑みを浮かべて頷いた。ふいに視線がそれたので、反射的に真嶋はその視線の先を追った。いつの間に現れたのか、デッキの縁にへばりつくように、男たちが五人、立っていた。たぶん、高床の下を潜ってきたのだろう。いつも腹を空かしていそうな貧相な男たちは、階段など使わなかった。デッキに手をつき、よじ登る。
「ドゥーユー・ウォントゥーシー・マイボス?」再び、包丁の男が訊ねた。
真嶋は答えなかった。デッキに上がってきた男たちを見ていた。いま逃げだしたら、ここまできた意味はないと思った。
開いた窓から小屋のなかを窺った。短い手足を動かし、かさかさと軽やかに動き回る新種の創造物。しかし、それを神々しく感じるのは、小屋の外から眺めているからだろう。真嶋は足を引き、くるりと反転した。デッキの上を駆けだした。
ひとりの男が前を塞いだが、体を低くして肩からぶちかました。倒れた男を飛び越え、木のデッキを蹴る。横から人影が飛び込んできた。手で払いのけようとしたが、腰にタックルを決められた。倒れざま、伸びてきた足に側頭部を蹴られた。
いったん視界はブラックアウトしたが、意識はどうにかたもてた。腹ばいになった体を五人がかりで押さえつけられる。どうやっても身動きがとれなくなった。
足音が聞こえた。泥だらけのスニーカーが目の前に現れた。見上げても顔は見えない。見えるのは体の脇にたらした包丁。錆もなく、いやにつるっとしていた。
男がしゃがみ込んだ。真嶋を押さえる力が強まった。
「ドゥーユー・ウォントゥーシー・マイボス?」男は顔を近づけてきて言った。
真嶋は男の目を睨みすえ、「イエス」と吐きだすように言った。それは神の名だな、と思い至ったとき、男は包丁を振り上げた。
頭をデッキに押しつけられた。左手をふたりがかりで押さえられる。
あっけない痛み。閉じた目に盛大な閃光が散る。
目を開けた。消えたと思った痛みが、雪崩のように押し寄せ、顔を歪めた。
かすむ目で、離れたところにある、自分の体の一部を見た。血に染まった断面。
真嶋はそこに吹きつける風を感じた。
(つづく)
ヘブン
武蔵野連合、真嶋貴士が帰ってきた!目的は復讐ーー。
怪物的エンタメ『キングダム』で話題となった新野剛志さんの文庫最新刊『ヘブン』の刊行記念記事です。試し読みや熱烈解説など。