日常の鬱憤を吹き飛ばす怪物的エンタメ! 新野剛志さん文庫最新刊『ヘブン』の試し読みを5回に分けてお送りします。
ヤク中の元刑事、売春するアイドル、半グレの復讐、ヤクザの報復ーー「世の中クソみたいなやつが多すぎる」
1
フロアーから漏れ入る重いベース音が、VIPルームの空気を揺さぶった。城戸崎正吾は腰を浮かしながら、あたりを窺った。
三つ離れたテーブルに、大口を開けて笑う女がいる。モデルの関恵だった。
なんだよ恵ちゃん、きてくれたのかよ。城戸崎は腰を浮かしたままグラスを手に取った。
お礼に俺のモノをかわいいその口にぶちこんでやろうかい。城戸崎はふふっと鼻で笑った。まあ、無理か。恵ちゃんの事務所は怖いお兄さんがついてるからあとあと面倒なことになる。──って、俺、本気でやろうとしてたのかよ。城戸崎はグラスの縁をなめた。
「いやいや城戸崎さん、オープンおめでとうございます。また今度もいい店ですね」
そう言って城戸崎のいるテーブルに男がやってきた。
「おお、よくきてくれたな。ありがとよ」
誰だ。まったく見たことねえ顔だ。真っ黒に日焼けした四十代。シャツのボタンを三つも外している。もう十一月だというのに、なんだそのかっこうは。絶対いつか皮膚癌になるぜ。
「まあ、楽しんでいってくれよ。またな」城戸崎はそう言って手を振り、男を追い払う。日焼けした男は嬉しそうな顔をして離れていった。
「城戸崎さん、どうも」
入れ替わるように、スーツ姿の男がテーブルの前に現れた。
「あれ、森本君かい。なんだよ、きてるなら、早く声かけてよ」城戸崎は目を丸くした。
「いまきたばかりなんですよ。いや、すっかりご無沙汰しちゃって。城戸崎さんがまたお店をやると聞いて、これは挨拶にいかなきゃと仕事を抜けだしてきました」
「ほんとご無沙汰だな」と言ってやると、森本は気まずげな顔をして頭を下げた。
森本は広告代理店の社員でスポーツ事業部に所属している。父親は大物政治家で、遊び人のドラッグラバーだった。四年前のあの事件以来、城戸崎と距離を置いていたが、そんなやつは珍しくもない。ことに、世間に名の知られた連中は、火遊びはもう終わりだとばかりに続々と離れていった。とはいっても、それから一年もたたずに経営していたクラブ・フィッシュを閉めたから、顔を見せにくることもできなかったわけだが。
「さすが城戸崎さんの店ですね、音響も抜群です。やっぱ、店のクオリティーはオーナーで全然違ってきますね」
「ありがとよ。だけど、俺はオーナーじゃないぜ。今日は俺もただの招待客さ。──そう、俺は、オブザーバーって感じ? まあ、色々と関係はあるけどな」
そう言って城戸崎は片目をつぶる。自分は表にでない陰のオーナーであることを臭わせた。
森本は察しよくにやりとし、訳知り顔で頷く。
席を立って、森本に表のオーナー、木村を紹介した。事件以来そっぽを向いて不義理をしたやつだが、この森本は人脈があり、いい客を連れてくる。大目に見てやってもいいだろう。
城戸崎は広いVIPルームを練り歩いた。森本にしたのと同じような挨拶を交わし、関恵がいる席に落ち着いた。恵の隣に割り込み、初めましての挨拶。オーナーさんですかと訊かれりゃ、はいそうですと答えるしかねえだろう。まったく、いい匂いがするぜ、この女。
実際のところ、城戸崎はオーナーでも陰のオーナーでもなかった。このクラブ・ポワソンを運営するのは木村の会社だし、金を出している陰のオーナーは別にいた。前のクラブ・フィッシュでも同じだった。実質的オーナーは別にいて、城戸崎はクラブの顔として表にでているだけ。もちろん、VIPルームにふんぞり返っているだけではない。ドラッグの臭いに近づいてくるジャンキーどもに、望むものを用意してやるのが仕事だった。実際は売ることよりコネクションを作ることが大きな役割になるが、端折っていえば職業はドラッグの売人ということになる。城戸崎はそう呼ばれても、不満はなかった。オーナーでも売人でもなんでもいい。いまいる自分の立場が好きだった。この店では、あまり表にでることができないのは残念だが、しかたない。あの事件以来、世間の目も警察の目も俺に対して厳しかった。
城戸崎は武蔵野連合の元リーダーだった。いつの間にか半グレ集団などという呼称がすっかり定着した、暴走族OBの集まり──通称ムサシ。やくざにも向かっていく無軌道ぶりながら、組織としての実体がないから警察も手をだせないと言われていた。それが四年前、多摩川の河川敷で現役暴走族と乱闘事件を起こした。
城戸崎に次ぐ地位にあった真嶋貴士を中心に、ムサシの主立ったメンバーが乱闘に参加したが、乱闘中に相手のひとりが死に大きな事件となった。参加したメンバーは全員、凶器準備集合罪などで逮捕された。乱闘中の死で、誰が実際に手を下したか特定するのは難しいのではと当初見られていたが、相手側とムサシ側から得られた目撃証言がぴたりと一致し、容疑者は特定された。すでに逮捕されていたうちの五人が再逮捕され、起訴された。現在では刑が確定し五人は服役している。ただし、特定された容疑者のうちのひとり真嶋貴士は、事件当日に国外に逃亡し、現在も逮捕を免れている。
真嶋は指名手配を受け、街中でその顔をさらしものにされているが、手配容疑は河川敷の傷害致死だけではなく、ムサシメンバーで甲統会系の暴力団縄出組組員、高垣清吾を殺害した容疑も含まれていた。どういう経緯かわからないが、乱闘のあと真嶋は自宅マンションに戻り、そこで高垣を殺害したと見られている。そしておかしなことに、その部屋からは女の絞殺死体も見つかっている。女の殺害は別の容疑者が特定されているが、さらにおかしなことに、追跡していた刑事がその容疑者を殺害してしまった。まったくわけがわからない。
そもそも、乱闘事件の犯人が特定できたことがおかしなことだ。乱闘中に誰が手を下したか、やった側、やられた側、双方の証言が一致することなど、ありそうもない。そのへんに関して、城戸崎は疑問に思わなかった。あの乱闘事件がしくまれたものだと知っていたからだ。武蔵野連合を潰そうと考えた暴力団の命により、乱闘の前から死体は用意されていたし、犯人を特定する証言者も決まっていた。ムサシ側の証言者を用意したのが城戸崎だった。
裏切り者と呼ぶやつがいたら鼻で笑ってやる。自分は誰も裏切ってなどいない。
もう十年以上前、すでに活動をやめていた武蔵野連合のOBを再結集させ、犯罪者集団に仕立て上げたのは他ならぬ城戸崎だった。そしてそれは城戸崎のケツ持ち、指定暴力団烈修会の直参、市錬会の幹部、尾越から依頼されたものだった。烈修会や甲統会など、友好関係にある関東の指定暴力団は、やくざになりたがる若者が減っていることを危惧し、暴力団には属さない、若者が憧れるような犯罪者集団を造り、自分たちのシノギの手伝いをさせようと企図した。真嶋にも、城戸崎が紹介した甲統会系のケツ持ちがつき、シノギが与えられていた。結局、半グレ集団はやくざの意思によって生まれた。悪目立ちし、制御の利かなくなってきたムサシを潰そうと考えたのもやくざの意思だ。城戸崎はその意思に従っただけで、最初から最後まで行動は一貫していた。だから裏切ってなどいないのだ。
主要メンバーの服役や海外逃亡で、ムサシはほぼ消滅した。乱闘に関わらず、無傷ですんだメンバーのうち使えそうなやつは、個別に組織が後ろ盾になったり、あるいは正式に杯を交わしてシノギを手伝わせている。城戸崎もひとり、元メンバーを預かっていた。
乱闘にはまるで関わっていなくても、河川敷の事件のあと、城戸崎もムサシのメンバーとして警察から睨まれることになった。これまで通りの、派手な密売などできるわけはない。ムサシの溜まり場として有名になっていたクラブ・フィッシュは閉めるよりほかなかった。細々と顧客を繋ぎ、どうにか売人と呼べるだけの仕事はしてきた。あれから四年、武蔵野連合の名はいまだに世間の記憶から消え去ってはいないようだ。それでも、表舞台から消えた自分の名をネットで見かける機会は、格段に減った。そろそろ表にでてもいいころだ。
ここのところ、城戸崎や市錬会のドラッグビジネス周辺で、立て続けにトラブルが起きてやや気持ちがくさっていた。しかし、今夜を境に状況は好転するだろう。
また、ドラッグの臭いを嗅ぎつけ、いい女やあほな男がここに集まってくる。いや違う、ドラッグをポケットいっぱいに詰め込んだ、俺の臭いを嗅ぎにくるのだ。オーナーでもなんでもない城戸崎がこの店に立つのは、その臭いづけのためといっていい。人生はパーティーさ。ひとが集まってなんぼだ。
「ハイ、ハーイ、城戸崎さん。開店おめでとう。いい店だね」
艶のある高めの声が近づいてきた。目を向けた城戸崎は驚き、腰を浮かした。
なんでお前がこんなところきてんだ。──えっ、もしかして俺が呼んだのか。でなけりゃ、パーティーがあるなんて知るわけないよな。それにしても──。
「ご招待、ありがとう。ほんと素敵なクラブね。フロアーでちょっと踊っちゃいましたよ」
グレイフランネルのスリーピースを着たナムは、品よくスマートな体をくねらせた。
「おお、ナムさんよくきたな。だけど、ここは俺の店ではないよ。立ち上げに関わっただけでね」城戸崎は立ち上がって言った。
関恵がこちらを見上げた。なんだオーナーじゃないのかという顔。まあ、しかたがない。
「でも、ここで城戸崎さんは踊るんでしょ。最高のダンスで東京中のダンスラバーを魅了するって言ってたものね」
「そんなことを言ったか?」
「ええ。私もダンスを盛り上げるお手伝いをさせてもらいます。がんばりますよ」
やはりここのことを話したのは自分のようだ。俺はこいつになんでも話してしまうな。
ナムは合成麻薬の供給元であるタイの組織の幹部だった。日本のやくざと商売を始めたのは最近のことで、市場調査のため、ここしばらく東京に滞在している。城戸崎はケツ持ちの尾越から面倒をみてやってくれと言われ、時々、飲みにいったり食事にいったりしていた。ナムは合法的な会社も経営しているらしく、日本の官憲に身元を疑われることはないと言っていたが、一緒にいるところを大勢に見られるのはどうかと思う。
「じゃあ、ナムさんに振り付けも頼もうか。最高のダンスが手に入れば、東京は俺のもんだ」
やっぱ今日は昂ぶる。恵の顔が自分の腰の横にあると気づいて、さらにやばいくらいに昂ぶった。ふと喧騒のなか、携帯の着信音が耳に入った。上着の前を開くと、音が大きくなった。内ポケットに手をつっこみ、携帯を取りだした。
「大竹です。いま話せますか」城戸崎がでると、そう言った。
大竹は城戸崎が預かる、元ムサシのメンバーだった。
「話せるからでてるんだろ。なんだよ」
大竹の声に張りつめたものを感じて、不機嫌になった。
「またトラブルが起きたみたいです。なんでも剣応会が怒ってるって、尾越さんから──。城戸崎さんの携帯が通じなかったらしくて」
「怒ってるって、俺にか」
「細かい話はしませんでしたけど、尾越さんの苛立った様子から、そんな感じもしました」
剣応会は甲統会系の有力二次団体。関東圏の覚醒剤の大元締めとしてその世界では知られている。末端の売人から見て、天上界そのものともいえる組織がなぜ自分に怒りを向けるのだ。そもそも城戸崎が扱うのは合成麻薬が主で、覚醒剤などたかが知れていた。
「わかった。尾越さんにすぐかけてみる」
城戸崎は通話を切った。
「すまん、ナムさん。ちょっと席を外すよ。すぐ戻るから、またそのとき話をしようぜ」
社交辞令ではなかった。城戸崎は本当にナムと話をしたいと思っていた。悪いことが起きたのなら、なおさらだ。ナムは中国系らしい切れ長の目を細め、「待ってます」と言った。
しかしその日、VIPルームに戻ることはできなかった。大きなトラブルに見舞われた城戸崎は、しばらくクラブ・ポワソンに近づくこともできなかった。
(つづく)
ヘブン
武蔵野連合、真嶋貴士が帰ってきた!目的は復讐ーー。
怪物的エンタメ『キングダム』で話題となった新野剛志さんの文庫最新刊『ヘブン』の刊行記念記事です。試し読みや熱烈解説など。