日常の鬱憤を吹き飛ばす怪物的エンタメ! 新野剛志さん文庫最新刊『ヘブン』の試し読みを5回に分けてお送りします。
ヤク中の元刑事、売春するアイドル、半グレの復讐、ヤクザの報復ーー「世の中クソみたいなやつが多すぎる」
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「まったくもって、とんだとばっちりだぜ。俺はその施設が、上のほうの組織と関係しているなんてまるで知らなかったんだ。それなのによ」
城戸崎はソファーにもたれて言葉を吐きだした。
「上のほうの組織というのは?」
「それはな──」と言って言葉を止めた。「そんなのはナムさんが知らなくていいんだよ」
城戸崎はふーっと息をついて、ローテーブルのグラスをとった。正面に座るナムがシャンパンのボトルを取り上げ、城戸崎のグラスに注いだ。
「とにかく、甲統会系の力のある組織でな、丸山にシャブを売ったのはどこのどいつだと怒ってるらしい。それが尾越さんの耳に入って、慌てて連絡してきたんだ。俺を名指しして怒ってるわけでもないからまだいいけどよ、でっかいとこに睨まれるのはいい気しないぜ」
城戸崎はシャンパンに口をつけた。温くなっていて甘ったるく感じた。
六本木にある城戸崎の個人オフィスでナムと飲んでいた。二日前のパーティーで城戸崎が中座したまま戻ってこなかったので、ナムは様子を窺いに、シャンパンをもって訪ねてきた。
あの日、俳優の丸山啓輔が覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。二流のグラビアアイドルとキメセク──シャブで感度を高めてセックスしている真っ最中に踏み込まれたらしい。
城戸崎は、トレンディー俳優の生き残りである丸山啓輔となんら繫がりはない。知人に頼まれ、覚醒剤の売人を紹介しただけだった。ただ、案外大きな取引になりそうだったので、末端の売人を紹介するわけにもいかず、城戸崎は尾越の部下の中迫を頼った。
中迫は市錬会の下にぶらさがる三次団体、中迫組の組長だった。尾越は組持ちの市錬会幹部で、中迫はもともとその尾越の組にいたが、独立して自分の組をもった。しかし、それはいってみればダミーだ。市錬会の収入源は覚醒剤の仲卸しだった。日本の覚醒剤流通は海外の製造元あるいは供給元から直接仕入れる大卸しが頂点にいる。その下に仲卸しがいて、仲卸しはさらに別の仲卸しに卸すか、密売組織に卸している。
段階を経て末端に流通させるのは、流通の利便のためだけでなく、警察に摘発された際、上まで捜査の手が及ばないよう各段階で防御壁を作るためでもある。覚醒剤ルートの全容解明などとマスコミが騒いでも、摘発されるのはせいぜい密売組織までで、大卸しが摘発されたなどという話は聞いたことがない。ただ、単純にピラミッド型の流通システムでは警察の手から完全に逃れるのは難しい。そこでもし捜査が迫ったときは、各段階で、とかげの尻尾切りを行う態勢ができている。
市錬会で仲卸しを仕切っているのは尾越だ。中迫は現在も実質的に尾越の部下であり、尾越の命を受け、市錬会のために動いているだけだった。しかし、もし警察の手が迫ったときは、中迫組が仲卸しとして摘発されるよう形が整えられているらしい。
市錬会は合成麻薬も扱っていて、それは供給元から直接仕入れていた。城戸崎はその販路を拡大させるため、組織に組み入れられている。もちろん、組の杯を受けていない城戸崎はとかげの尻尾だ。
とにかく、中迫に話をもっていき、密売組織と知人との橋渡しをした。その知人というのはある大手企業の接待所で支配人のようなことをやっており、どうも丸山はそこに出入りしていたようだ。支配人から丸山にシャブが流れていたことは城戸崎のあずかり知らないことだが、密売組織のほうでは把握していたようで、丸山が逮捕されたと知り、大騒ぎになった。それが中迫、尾越の耳に入り、さらに剣応会が怒っているという噂も聞きつけた。
剣応会の怒りの理由を尾越もわかっていなかった。尾越は剣応会に連絡を取り、何か不備があれば関わった者を詫びに上がらせる旨つたえた。しかし剣応会からその必要はないと回答があり、城戸崎に災厄が降りかかることはなかった。ただこの二日、寝覚めは悪かった。
「ほんと大変でしたね。でも、何もなくてよかったです。ドラッグのもめ事というのは、血を見やすいですからね。それはどこの国でも一緒でしょ?」
「よしてくれ」城戸崎は不吉な思いに駆られ、ぶるぶるっと首を振った。しかし、ナムの顔に冗談ですよとでも言いたげな笑みが浮かぶと、とたんに心が解れだす。
なんなんだろうね。このタイ人と話すとやけにリラックスする。日本人にくらべ表情が豊かだから、こちらの話をすべてのみこんでくれているような気になるのかもしれない。それで、つい話しすぎてしまう。気をつけようとは思うのだが、ここのところ愚痴りたくなるようなトラブルが続くものだから、なかなか抑えられない。とはいえ、そもそも一連のトラブルの始まりはナムの組織に絡んだものだった。それで愚痴って味をしめた感はある。
市錬会が、ナムが幹部を務める組織から合成麻薬を仕入れ始めたのは、つい十ヶ月ほど前のことだ。中国や台湾の供給側組織との橋渡しをする華僑のブローカーに、ぜひ使ってやってくれと紹介されたようだ。ナムのボスも中国系のタイ人だそうだ。
トラブルはナムたちと取引を始めてすぐに起こった。合成麻薬を使った客が変調をきたし、交通事故を起こしたり、ナイフを振り回したりして警察沙汰になった。事故後、泡を吹いて失神している姿がニュース映像として茶の間にも流れている。そのうち何件かが、うちの顧客だと確認がとれた。市場調査で来日したナムに文句を言うと、ナムは商品に質の悪いものが混ざるのは避けられないとこともなげに言った。しかし長い目で見ればうちは質のいいものを供給できるとも断言した。まだ長い目を検証できるほどの時間はたっていないが、それ以来、似たようなトラブルは起こっていない。しかし、そのトラブルが引き金になって、うちの売人がふたり警察に引っぱられ、痛手は被っていた。
その他のトラブルはナムたちとは関係がない。市錬会と取引のある密売組織がふたつ、立て続けに摘発された。大がかりな摘発などめったにないのに、立て続けに、しかも両組織とも自分たちの卸し先だったことで、市錬会はかりかりしている。自分たちが狙い撃ちされているのではないかと疑心暗鬼に陥っているようだ。
「まったくよ、こんなことがいつまで続くのかね」城戸崎は、自分の腿をぴしゃりと叩いた。
「確実にいえるのは、いつかは終わる、ということ。永遠に続くことはありえないよ。だから、それまで踏ん張ればいいんです」
「なんかそれじゃあ、ずいぶん長く続くように聞こえんだよな」
「それはきっと、耳のなかに何かがいるからですね。ほじくりだしてみたら、心配性と書かれているはずですよ」
そう言ってナムは立ち上がる。体を前に傾け、城戸崎の顔に向けて息を吹きかけた。
「よせよ気持ち悪い」
「吹き飛ばしてやろうと思ったんですよ」ナムは両手を広げ、ソファーに腰を落とした。
ほんとに気持ちわりい。城戸崎は手で顔を払った。ソファーにぐったりもたれかかり、ははっと笑ったら、どうでもよくなってきた。ナムのおまじないがきいたのかもしれない。
ドアがノックされ、大竹が顔を覗かせた。「お話しちゅう、すみません」
「どうした」
せっかく、気持ちが解れたのに、また何か起きたのではないかと心がざわついた。
「ナムさんのお連れさんがお見えになりました」
「なんだよ。通してやれ」
大竹がドアを大きく開くと、小柄な男が肩をゆすりながら悠然と入ってくる。
ナムの部下のカオだ。入ってくるなり甲高い声で喋りだす。怒ったような顔をしている。
城戸崎はこのカオに何度か会っているが、部下のくせに、いつも態度が偉そうだった。
見た目からして変なやつではある。つるつるのスキンヘッドで眉もないのは、城戸崎の知り合いにも何人かいるが、鼻梁の真ん中あたりに、BOXという文字のタトゥーを入れているのはかなり変だ。いちばん目をひくのは、その肌だ。タイ人にしては色白で、妙にてらてらと艶があり、見た目、ゴムのような質感だった。小柄でずんぐりしているから、ゴムまりといった印象で、蹴飛ばしてやればどこまでも跳ねていきそうだった。
カオの声がどんどん大きくなる。遮るようにナムが「カオ」とひときわ大きな声で言った。
「この男の不作法をお許しください。森で野生の豚に育てられたものですから」
ナムがにやりとしなければ城戸崎は本気にしたかもしれない。
「トラブルが起きたのでこれで失礼します。カオがどこかで入れ歯を落としたそうで」
今度はナムは笑わない。本当にそんなことで、と思っていたら、カオが大きく口を開けた。見える限り、下の歯が一本もなかった。驚く城戸崎に、カオは右手を差しだした。なんだと目を凝らして、ぎょっとした。五本の指すべて、第一関節から先がないのだ。
「カオ!」とナムがたしなめるように言った。カオは手を引っ込めた。
「それじゃあ、いきます」ナムは立ち上がった。
「いっちまうのか」
「またきますから。それまでに何も起こらなければいいですね」
なんだよ、ちきしょう。せっかくリラックスできたのに、最後にきて不安にさせやがって。
ナムの言葉を聞き、城戸崎は何かが起きると確信めいたものを感じた。
ヘブン
武蔵野連合、真嶋貴士が帰ってきた!目的は復讐ーー。
怪物的エンタメ『キングダム』で話題となった新野剛志さんの文庫最新刊『ヘブン』の刊行記念記事です。試し読みや熱烈解説など。