日常の鬱憤を吹き飛ばす怪物的エンタメ! 新野剛志さん文庫最新刊『ヘブン』の試し読みを5回に分けてお送りします。
ヤク中の元刑事、売春するアイドル、半グレの復讐、ヤクザの報復ーー「世の中クソみたいなやつが多すぎる」
4
コップの周りを蟻が一匹、はい回っていた。
いったりきたり。目的があるわけでもなく、ただ右往左往しているように見えた。
田伏は寝ぼけ眼を指で押さえ、ぎゅっと瞼を閉じた。ソファーの上に起き上がり、毛布を剝いで背もたれにかけた。口のなかが粘つき、喉が渇いていた。
手を伸ばし、コップを摑んだ。そのなかの液体は、飲んでも渇きをひどくするだけだとわかっていたが、口元へ運ぶ。唇をつける寸前で危うく止めた。液面に蟻が一匹浮かんでいる。ぴくりとも動かない。田伏はコップをテーブルに戻す。狙いすまして動き回っていた蟻の上に──。楽にしてやった。
トイレにいって顔を洗った。びしょびしょになった床に顔をふいたタオルを落とした。
ソファーに戻ると肌寒さを感じて、床に捨ててあったシャツを肌着の上に羽織った。
田伏孝治は煙草に火をつけ、オフィスを眺め回した。いつもと変わらない朝だが、何か違いを探している。ビルの四階にあるこの部屋に、蟻が二匹も紛れ込んでいたことが、何かの予兆のような気がしたのだ。何を探せばいいかわからず、耳を澄まして、息を詰めた。嫌な臭いがどこかから漂った。自分の胃から湧き上がるのだと気づき、いっきに息を吐きだした。
冷蔵庫にあったプロセスチーズを三切れ食べ、水をがぶがぶ飲んだ。やることはたくさんあったから、とりあえずデスクに向かった。ノートパソコンを立ち上げ、書きかけの報告書を開いただけで、あとは椅子の背もたれに体をあずける。時間が過ぎるのを待った。
煙草を二本灰にしたところで、インターフォンが鳴った。田伏は体を起こし、ドアに向かった。鍵をかけていなかったのだなと確認しながら、内側に向かって開いた。
「なんだ、あんたかい」
自分のがっかりした声を聞き、田伏は苦笑いをした。
「誰かを待ってたのか」中迫は踏みだした足を止め、言った。
「いや誰も。こんなとこに足を向ける人間なんていやしないだろ」
「だったら、看板なんてかけておくな。いじましいぜ」
それがそんなに悪いことだとは思えないが、中迫はひどく顔を歪めて入ってきた。
「ひでえ臭いだ。貧乏学生の下宿だぜ。ほんと看板おろせ。ここで寝泊まりしてんのか?」
中迫はソファーの毛布に目を向けていた。田伏は毛布を丸めて物置部屋に投げ込んだ。
看板をおろせ。中迫は適当に嫌味を言ったつもりだろうが、案外鋭い。オフィスをかまえ、看板を掲げている意味があるのかと、自分でも思っていた。
西新宿総合探偵事務所。それが田伏の掲げる看板だった。依頼は刑事専門の弁護士の下請けがほとんどで、無罪を証明するための証人や証拠を捜したり、検察側の証拠を突き崩すためのアドバイスや調査を行ったりする。田伏は四年前まで本庁の捜査一課で刑事をしていた。依頼は途切れることがなかったが、下請けだから、さほど稼げるわけでもない。家族もなく贅沢をする気もないので、それで充分ではあった。
飛び込みの依頼を受け容れる必要はなく、依頼人に会うとしても弁護士の事務所でなので、自分のオフィスをもつ必要性はあまりなかった。そんなことだから、自宅とオフィスの家賃を払うのはもったいないと思い、最近、自宅アパートを引き払い、この事務所で暮らすようになった。風呂もキッチンもない事務所なので、こっちを引き払って自宅に看板を掲げたほうが生活するには楽だったが、住所が新宿のほうがオフィスとしては聞こえがいい。ただの見栄だし、唯一の贅沢ともいえた。
「お前に仕事をもってきてやった」中迫は黒いコートを脱ぎながら言った。
「俺は間に合ってる。誰か恵まれない探偵に仕事を回してやってくれ」
「ふざけんな。俺は、仕事をやれと命令してんだ」
「なるほど」そういうつもりであることは最初からわかっていた。
「すぐに取りかかってもらうぞ」
中迫はソファーにコートをかけ、腰を下ろした。テーブルに足をのせた。
「その足をどけてくれないか。あんたの汚い靴底を見ながらじゃ、話に集中できない」
田伏は中迫の正面に腰を下ろした。中迫は片足を上げ、ごつっと踵を打ちつけた。
「なんだ、お前。元刑事のプライドかなんかか。そんなもの、どこに残ってんだよ。臭い息まきちらして、しょぼくれた顔した四十男が、いっちょ前にやくざにむかついてんのか」
「中迫さん、あまりひとの心を踏みにじらないほうがいい。どっかに残ってる、ちっぽけなプライドがぽんと弾けるかもしれない。それがお互い、悲劇に繫がったりすることもある」
田伏はテーブルのコップを取り、焼酎に口をつけた。口に入った蟻を吐きだした。
「もちろん、俺にはそんなプライドなどどこにもない。さあ、どうぞお好きなかっこうで仕事の話を──。なんなりとお話しください。ぽんと弾けて昔の仲間に漏らしたりするようなことはありませんから。どうしました、子分が覚醒剤でももち逃げしましたか」
嫌味たらしく言うと、中迫は口を歪めた。どう反応したものか、迷っているような表情だ。とはいえ、話そうかどうか迷っているわけではないだろう。この男はひとを見る目はもっている。目の前の元刑事が警察にたれこんだりすることはないと見極めている。そんな能力がこの男たちの生命線だ。
中迫は烈修会系の三次団体、中迫組の組長だった。年齢は田伏より四つ若い。覚醒剤がらみのシノギをもっていることはわかっているが、具体的にどんなポジションにいるのかまでは、田伏にもわからなかった。
田伏が中迫と知り合ったのは、刑事を辞めたあとだった。関係は探偵と依頼人。中迫はシノギがらみの表にはだせない調査を依頼してくる。田伏はそれを断らなかった。
「最近、危険ドラッグやシャブの摘発が目立つと思わないか。お前も、ニュースぐらい見んだろ」遊びは終わりだというのか、中迫はテーブルから足を下ろして言った。
「そのうち、いくつかが俺のシノギに関係している。売人やらなんやら、ごっそり引っぱられていった。狙い撃ちされている感じはするが、警察にその意図はなかったろう。誰か、俺の近くにいた人間がリークしてるんだ。そいつを突き止めてほしい。たぶん、そいつの後ろには誰かいるはずだ。俺を潰そうと考えているやつだ。それも突き止めてくれ」
「あんたの周りにいる人間をひとりひとり洗うのか?」
「摘発された売人らの情報をもっていたやつを何人かピックアップした。そいつらの身辺を洗えば何か見えてくるはずだ。慎重にやってくれ。そいつの首根っこを摑むより、その後ろにいる人間を炙りだすほうが重要だ」
中迫はコートのポケットから、折りたたんだ紙を取りだし、田伏のほうに差しだす。
二枚のコピー用紙。名前とプロフィールがワープロできれいに打たれている。
俺の近くにいた人間と言ったが、中迫と実際に交流がある人間とは限らないだろう。中迫はうちの組とか、うちの組織という言葉は使わない。あくまでも個人でやっているかのように、俺とか俺の、とつける。組織を守るための用心を、しょぼくれた探偵の前でも怠らなかった。
一枚目の用紙には三人の男のプロフィールが列記されていた。ざっと目を通すと、三人のうちふたりは組織から離れた元暴力団員だった。二枚目はひとりだけ。名前を見て、田伏は顔を上げた。
「花井もリストに入っている。当然だろ」中迫がばかにしたように言った。
ばかにされてもしかたがない。頭が回っていなかったと痛感する。
花井誠は、中迫から初めて調査を依頼されたときの調査対象者。花井が組織から足抜けするにあたっての身辺調査を依頼された。その後も一度身辺を洗っている。花井はいわば知りすぎた男で、それこそ警察にリークでもされたら組織はかなりの打撃を受ける。リストに入っているのは当然だった。
「誰がいちばん怪しいかではなく、確かな証拠がほしい。いいな」
「この四人以外、という可能性もありえるんだろ」
中迫は考える間をおいて口を開いた。「絶対にないとは言わない。だが、俺はこの四人のなかにいると思っている」
やくざものにしては、誠実な答えなのだろう。調査の結果、このなかにはいなかったと報告しても、たぶん、はいそうですかと素直に受け容れることはないだろうと田伏は覚悟した。
「報酬はどうなる」
「なんだ、報酬なんているのか」
「日当は値上げしていない。前回と同じだ。着手金として、一週間分を前払いでもらう」中迫の言葉を無視して言った。「必要経費はどこまで認める? たぶん、ひとりかふたり同業者に助っ人を頼むことになる。最悪、俺の日当の倍額の必要経費が毎日発生する。それプラス、実際かかった経費だが、そっちは交通費くらいなものだろう」
「そんなもんなら好きに請求しろ。単純な張り込みくらいなら、どっかから若いやつを連れてきて、手伝わせることもできるが」
「単純な張り込みなんてものはない」田伏は静かに言った。
「──まあ、いい。しっかり結果をだしてくれよな。すぐに取りかかれ」
中迫は立ち上がり、コートを取った。「おい、どうした。すぐに取りかかれと言ったろ」
田伏は素直に立ち上がる。デスクに向かいながら口を開いた。「先日、俳優の丸山啓輔が覚醒剤所持で逮捕されたな。あれもあんたのとこと関係してるんだろ」
「関係ねえよ」中迫は苛立ったように言った。
「いいか、お前はリストの男たちを調べればいいんだ。俺の仕事のことは詮索するな」
中迫はチンピラのような目で睨むと、大股でドアへ向かった。
この男は思った以上に追いつめられているのかもしれない。
(つづきは、幻冬舎文庫『ヘブン』でお楽しみください)
ヘブン
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