はるな檸檬氏、感涙!
「人生はクソだ。それでも生きてさえいれば、いつか必ず美しいものに巡り合う。そういうふうに、できている」
4度の自殺未遂、その後は精神科病院に入院したり、デイケアに通ったり、生活保護を受けたりと、紆余曲折の人生を送ってきた小林エリコさん。
強い希死念慮に苛まれながらも、ここまで生き延びてこられたのはなぜか。出会ってきた人たちとのやりとりを振り返り、「生きること」の意味を考え直したエッセイ『私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに』が11月10日に発売になります。
本書の一部をお届けいたします。
死ぬほどさみしかったし、今もさみしいけど、生きてます
私の一番古い思い出は、幼稚園に行きたくなくて、母にしがみついていたことだ。
ギャーギャーと泣き喚き、行きたくないと必死で訴えたが、母は許さず、私はぐずりながら幼稚園に行った。もちろん、その日に突然行きたくなくなったわけではなく、ずっと幼稚園が嫌いだった。家族以外の他人と過ごす幼稚園は決まり事も多いし、嫌な人が多かった。
家に帰ると私は決まってテレビを見た。NHK教育テレビの「おかあさんといっしょ」が大好きで、じゃじゃまるとぴっころとぽろりが仲良く遊んでいるのを見て、ほっとしていた。私にとって友達のいる楽しい世界はテレビの中のフィクションだった。
小学校に上がっても、放課後は家に帰るとテレビをつけて、その前に座り込む。私が大好きだったのは「できるかな」というやはりNHKの教育番組で、ゴン太くんという着ぐるみとノッポさんという男の人が色んな工作をして披露するという番組だった。私は「できるかな」を毎回欠かさず見ていたが、母は、学校から帰ってきても誰とも遊ばない私のことがとても心配だったようだ。
いつものように「できるかな」を見ようとテレビの前に座った時、団地の下にある公園から、近所の子が大声を出して私を呼んだ。
「エリコちゃん、あーそーぼー」
最後に友達と公園で遊んだのがいつだったか思い出せない。なぜ、突然呼ばれたのかもわからない。私は嬉しかったけれど「できるかな」が始まるので公園に行きたくなかった。断ろうとしたら「何言っているのよ! せっかく呼んでくれているのよ。遊びに行きなさい!」と母は怒鳴った。「でも、『できるかな』が始まっちゃうもん」
私が駄々をこねると、「録画しといてあげるから」と母は言った。私は母に「必ず録画してね!」と念を押し、公園に向かった。公園には近所に住んでいる同い年の女の子が二人いて、一緒にかくれんぼや色鬼などをやった。久しぶりに公園を走り回り、くたくたになって帰宅した。私は真っ先に「『できるかな』録っておいてくれた?」
と母に尋ねたが「録れなかった」と言う。私はそれを聞いて猛烈に怒った。
「なんで! どうして? 絶対録っといてねって約束したじゃん!」
すると母は、
「だって、ずっと歌が流れているんですもの。オープニングテーマだと思って録画ボタンを押さないでいたら、終わっちゃったのよ」
私はすかさず、
「『できるかな』はバックに歌がずっと流れている番組なの!」
と怒鳴った。
私はそれから、母を信用できなくなり、友達から呼ばれることがあっても、もう遊びに行くもんかと心に決めた。
私は友達と遊ぶよりも、テレビや漫画やアニメの方が大事だった。そして、そんな私は、運動が苦手でどんくさかった。バスケの時間にゴールへボールを投げれば、バウンドして自分の頭にあたり、バレーをする時は、ただ突っ立ってウロウロしているだけだった。そんな私をクラスメイトはバカにして笑った。
中学生になったが、小学校からの顔ぶれがほとんど同じ中学に進学するので、憂鬱だった。
私は一人でいる時間がますます増え、黙々と絵を描いたり、本を読んだりすることを好むようになった。それでも、一応美術部に在籍していたので話せる人が数人できたが、それ以上の関係にはならなかった。部活にはたまに顔を出していたが、学校が終わるとすぐに家に帰り、ずっとゲームをしていた。
ある日、クラスに女の転校生がやってきて、カースト最下位の私に声をかけてくれた。しばらく仲良くしていたが、いつの間にかカースト上位の子と仲良くなって去っていった。私のところには、そういうふうに他のグループに入れてもらえない子や、何か失態をさらして仲間外れにされている子がやってくるようになった。私はやってくるその子たちを全て受け入れたが、彼女たちは私が必要じゃなくなると去っていくのだった。
そんな状態の日々が寂しくて、私は海外文通を始めた。覚えたばかりの英語で見知らぬ海外の人に手紙を書いた。「趣味は何ですか?」「どんな暮らしをしていますか?」送った先はスウェーデン、エジプト、中国。返事が来ると嬉しくて、辞書を引きながら手紙を読んだ。しかし、しばらくすると返事が来なくなった。それきり海外文通はやめてしまった。
高校生の時、電話ボックスに「いのちの電話」の張り紙を見つけ、私はそこによく電話していた。この頃、私はほとんど毎日死ぬことを考えていた。受話器の向こうの見知らぬ相手に自分の苦しみを吐露していた。しかし、いくら相談員に話をしても、話を聞いてくれている気がしなかった。
いつものように話をしている時、相談員が突然言った。
「あなたは子供が好きだと思うから、そういう仕事に就いたらどうかしら?」
なぜ、そんなことを言うのかわからなかったし、私がやりたいことは子供と向き合う仕事じゃなかった。私は怒りと悲しみがごちゃ混ぜになった感情のまま受話器を勢いよくガチャリと置いた。
夜の八時の公衆電話のあたりは街灯がポツポツとまばらにあるだけで、人通りも少ない。トボトボと家路を辿りながら、頭上の星々を眺めていると、胸の奥の空洞にヒュウと乾いた風が吹いた。私はこの世界で一人ぼっちだった。
それからというもの、私は本の虫になった。自分の孤独をどうにか解消したかったからだ。ショーペンハウエルの『自殺について』、瀬戸内寂聴の『ひとりでも生きられる』など、「孤独」や「自殺」、そういったテーマの本ばかり読んだ。
一人で生きていくにはどうしたらいいのか、いつもそればかり考えていた。しかし、答えは見つからなかった。
私は高校生の時、不登校のクラスメイトと仲が良かった。たまにその子が登校した時に自分から話しかけた。そういう子となら仲良くなれそうな気がしたのだ。その子は楽しい人であったけれども、私を振り回す人でもあった。自殺未遂をして入院したと電話があった時、急いで入院先に向かったのだが、私のお見舞いの品を彼女は気に入らず、不機嫌そうにしていた。
私は彼女とよく長電話をしていたのだが、彼女は時々、私を責めることを言った。
私はなんだかよくわからないけど謝った。友達がいない私には話し相手がいなかった。
彼女を失ったら、電話をする相手がいなくなるのが怖かったのだ。
私は短大に進学し、彼女は卒業できなくて、留年をした。彼女はその後も何回か精神科に入院して私はその度にお見舞いに行った。それからしばらくして、とうとう私自身も精神科に入院することになった。彼女に入院したと伝えたかどうか覚えていない。ただ、彼女はお見舞いにも来なかったし、手紙もくれなかった。
寂しい時が続くと、どんな人でもいいから、そばにいて欲しいと思ってしまう。私は彼女からひどい扱いを受けても、一人でいるよりはずっとマシだと思っていた。
精神科を退院して、実家に引きこもっている私のところに、彼女から月に一回くらい彼氏とのプリクラが貼られたハガキが送られてくるようになった。母はそれを見て
「嫌味な子ね」とイラついていたが、私は友達が幸せで良かったと素直に思った。
彼氏が遠方の大学に進み、一人暮らしを始めると、いつの間にか彼女は彼氏の家で暮らすようになった。彼氏がいない間にリストカットをしていたところ「君が切るのを止めないと、僕も自分の腕を切る」と言って彼氏は泣きながら腕を剃刀で切った。
そのことを彼女はまるで日常の当たり前の出来事のように話す。私は彼氏が可哀想だと思ったけれど、そのことは口にしなかった。そして、実家を出て彼氏の家で堂々と暮らしている彼女は、実家で引きこもっている私より上の存在だという気がした。けれど、彼女に「甘えている」とか「努力が足りない」と言われ続けて辛くなり、自分の方から彼女の連絡先を削除した。
引きこもりの私には、話し相手が母親くらいしかおらず、途方に暮れていた。時折、人生に絶望して自殺未遂をした。その後、精神科に入院して、そこで話せそうな患者さんがいると、私は嬉しくなって自分のことを話した。
初めて行った精神科の医者がひどい医者だったこと、過去に働いていた編集プロダクションのこと、初めてできた彼氏からひどい扱いを受けたこと。今思えばそれら全ては、私がずっと無視してきた心の奥の方にある「人と話したい、理解されたい」という欲望の表れだった。幼い頃から一人でいることが多かったけれど、私は強烈に他者の存在を欲していた。友人だけでなく、好きな人の関心を引きたかった時期もある。
ただ、早いうちに人間関係で失敗した経験が後まで響き、他人と親密な関係を築くことに消極的になっていた。
しかし、精神科を退院してからは、学校や育った地域から飛び出して、人と積極的に会うようになった。ストリッパーをしていたり、漫画家をしていたり、文章で生計を立てている人。彼ら、彼女らと話していると、自分の中に閉じ込められていた言葉が解放されていく。私はたくさん話し、語ることによって自分の形を取り戻していった。
最初の自殺未遂から三十年近く経ち、その三十年の間に新しい出会いがたくさんあった。そして、自殺未遂をする前の友人とも時間が経ってから再会することができた。
あの時死んでしまっていたら、会うことのできない人がたくさんいたことを考えると、死んでしまうのは少しもったいない気がする。死ぬということは自分の命を失う以外にも、新しい人との出会いや、未来の可能性を捨てる行為だとようやくわかった。
生きることは誰だって不安だ。お金がないと良い未来が描けないし、家族と仲が悪いとそれが自分の足枷になったりする。子供の頃は、自分の力で食べていくことができないので、嫌いな家族でも、我慢して暮らさなければならない。また、人間関係においても自分の利益のために付き合っていると、息が詰まりそうになる。それに比べて、ただ信頼だけで繋がれる友人という関係はとても貴重だ。そんな彼ら、彼女らの存在はいるだけでとても心強い。
長い人生という船旅を進む中で、私と並走している友人の船が見えると安心する。
船から旗を上げ合図を送る。君は元気か。私は元気だ。エールを送り合うだけで、ただ、そこにいるだけで、私たちはお互いの生きる糧になっているのだ。
* * *
次回は「初恋は人を狂わせる」を公開いたします。
【お詫び】
カバー写真のクレジットの記載が漏れておりました。大変申し訳ございません。
こちらは山本あゆみさんの作品です。
下記では、山本さんの素敵なお写真をご覧いただけます。
私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに
「孤独だったんですね」
その言葉を耳にして、私は喉の奥に何かが詰まり、次の言葉をつなげなくなった。自分が孤独だということは薄々感じていたけれど、それを認めたくなかったのだ――
いじめに遭っていた子供の頃、ペットのインコが友達だった。初めてできた恋人には、酷い扱いを受けた。たくさんの傷を負い、何度も死のうとしたけれど、死ねなかった。そんな私をここまで生かし続けたものは何だったのか。この世界には、まだ光り輝く何かが眠っているのかもしれない。そう思えた時、一歩ずつ歩き出すことができた。
どん底を味わった著者が、人生で出会った人たちとの交流を見つめなおし、再生していく過程を描いた渾身のエッセイ。
「人生はクソだ。それでも生きてさえいれば、いつか必ず美しいものに巡り合う。そういうふうに、できている」――はるな檸檬氏 絶賛!