発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。
確か、名前は「蛭間」。職業は、時計技師。礼子はその男を法廷で裁いたことがあった。なぜ、あの男は「門前の人」になっているのか? 判決に不服があるのか?
* * *
第二章 門前の人
礼子が我に返ると、男は皇居方面へと歩き出していた。腕時計を見ると、八時十分を指している。裁判官室に戻らなければいけない。
礼子は慌てて、歩を裁判所のなかへと戻した。
思い出せ。思い出せ──。
今日は単独審だ。午前十時からの公判がはじまるまで、いつものように自席で判決文を書きつづける。機械のように動く右手をよそに、頭のなかは十年ほど前の記憶を手繰り寄せた。長野判事の言う通り、どこかで見覚えがある。会ったことがある。対面した記憶がある。背は百八十センチ。あの顔だ、あの顔を思い出せ──。
ひるま。
ひるまという単語が礼子の脳髄に響いた。
礼子は思わず、机上の紙面から視線を上げ、美しい唇を開いた。
「蛭間」
礼子は脳内に浮かんだ言葉を呟く。
蛭間。蛭間だ。間違いない。珍しい苗字だなと当時思ったことを、礼子は思い出す。なんの公判だったか。長野判事は傷害致死の被告人だと言っていた。正しいのか? 正しいように思う。礼子の頭のなかが猛スピードで記憶のページをめくっていく。
──時計技師。
そうだ。時計技師であったはずだ。職業も珍しかった。時計を作製したり修理するちいさな工房で働いていたはずだ。そしてその経営者である上司を殺害し、罪に問われたはず──。
「わかった」
思わず呟く。礼子が裁判官に任命されて間もないころ、まだ左陪席裁判官の時に、この東京地裁で間違いなくあの男性を裁いている。礼子がまだ判事補の時に、彼への判決文を起案したことを、礼子は確信した。
公判を終え帰宅するや否や、礼子は着替えることもせず書斎へむかった。足を踏み入れた夕方六時半の書斎は、窓がない影響か、妙に夏を感じさせる。熱を溜めこんだ一室で、礼子は黙々と過去のじぶんを探した。
書斎を囲む四つの壁には、すべて本棚が備え付けられてある。この家を建ててくれた夫の両親のこだわりの一品だ。床から天井までそびえ立つ本棚ができたとき、
「ぜんぶマホガニーで作ったのよ。艶が違うでしょ? マホガニーはワシントン条約で取引が規制されているほど、希少性が高い木材なんだから」
と義母が嬉しそうに話した品。
が、立派な本棚のせいか、安っぽい机だけがこの部屋で浮いている。礼子が幼いころから使っているパイン色をした勉強机だ。義母は「本棚に合わせて机も作ってあげるから」と言ったが、「使い慣れているので」と礼子は丁重に断った。義母が面白くない顔をしたことを、礼子はいまでも覚えている。
脚立に上り、礼子は本棚のいちばん上に手を伸ばしつづける。長野判事と公判を行っていたのは二〇〇八年四月から二〇一一年三月までだ。この間に礼子が担当した判決文のコピーと手控えのノートを、すべて棚から下ろす。床はあっという間に、被告人たちの怨念で埋まった。
「──蛭間」
あまり交流のなかった学生時代の友の名を呼んでみるように、礼子は呟く。約三年分の資料を円状に並べ、その輪の中心に礼子は腰を下ろした。
「蛭間……蛭間」
名を呼んでいるうちに、記憶が整理されてきた。なぜ膨大な数の被告人のなかから、彼の名を覚えていたのか。
裁判員裁判だ。
礼子が裁判官に任命された翌年の二〇〇九年五月から、裁判員裁判がはじまった。明治時代、日本は取りまく国際状況に即応するために、律令制を捨て、西洋の法律を取り入れ劇的に変化した。当時は先を急ぐあまり翻訳もままならず、裁判官と検察官の区別すらわからなかったという。
あげく、「検察官は裁判を直立不動で見ている者」と誤訳されスタートしたほどだ。そこから数多くの識者と法曹に携わる面々の苦労のうえで、裁判所は成り立ってきた。その歴史を変える裁判員制度の導入に、当時の裁判所がかなり浮足立ち、初めての制度をなんとかうまく軌道にのせなくてはいけない──という重圧にも似た雰囲気があったことを礼子はいまでも覚えている。
「市民の意見を入れるくらいだったら、律令制時代の遠山の金さんのほうがよほどましだ」と怒りを隠さない判事も中には存在した。
その裁判員裁判がはじまった年に、礼子は蛭間を裁いている。
2009。と表紙に書かれた手控えを片っ端からめくっていく。左陪席裁判官時代の礼子の右手が無数のメモを取っている。速記に近いため蚯蚓のようにくねくねと曲がる字は、晴れて判事となったいまの礼子の文字となんら変わっていなかった。すこしは綺麗に書かねば、礼子はため息をつきながら手控えをめくっていく。
「見つけた」
蛭間隆也──この男だ。
曲がりくねった手控えの文字に目を近づける。
──ひるまたかや S54生
──東京。児童養護施設出身。白シャツ黒パンツ。クロック・バック
──売上金 五万
法壇で裁判長の左に座りながら見つめた、蛭間隆也を思い出す。
──じっと立つ
そうだ。この当時から蛭間隆也はじっと前をむいて立ち、裁判を受けていた。
──ディバイダー。革細工用、コンパス型工具、先端鋭利、鉄鋼
──左腹部消化器官重傷。正当? 過剰?
礼子の脳内が蛭間の公判を再現しはじめた。礼子は手控えから美しい顔を上げ、一点を見つめ、当時の法廷を思い出す。
蛭間隆也。当時二十九歳。
自身が勤める時計工房店「クロック・バック」の経営者である吉住秋生氏、当時四十歳の左鼠径部をディバイダーで刺し死亡させる。クロック・バックは経営者の吉住秋生と従業員の蛭間隆也がふたりで営む、中目黒の川沿いにあるちいさな時計工房店だった。オリジナルの時計を作製、販売したり、困難な時計の修理も請け負っていた。被害者を死亡させた経緯は、平成二十一年一月四日午前一時ごろ、工房となっていたクロック・バックにて、経営者吉住秋生と蛭間隆也は新年の酒を酌み交わしていた。
と、その最中、「先月分の売上金から、いくらか抜いていないか」と吉住秋生は蛭間隆也をふいに問い詰める。被告人は否定した。が、押し問答の末、「五万円を抜いてしまった」と蛭間は告白し認める。蛭間隆也は謝罪し五万円の返済を申し出るが、被害者が酒に酔っていたこともあり激しい口論となり、吉住秋生は蛭間隆也の胸ぐらをつかんだ。
その時振り払おうとした蛭間隆也の手が偶然に吉住秋生の顔に当たり、被害者はさらに激高。吉住秋生は酒の影響もあったのか、机上にあった腕時計の革ベルトを作製する際に寸法を取る工具・ディバイダーを手に取り、蛭間にむかって振り回した。そのうち被害者がむけたディバイダーが蛭間隆也の左腹部に刺さり、吉住秋生はなおもへそ側に無理やり四センチ引き、ディバイダーを体内にめり込ませた。
命の危険と恐怖を感じた蛭間隆也は、自らの躰からディバイダーを抜き、なおも凶器を奪おうとする吉住秋生に渡さぬよう努める。揉みあいとなり、蛭間は被害者の顔面をなんどか強く殴打する。そのうちに蛭間が持っていたディバイダーが、むかってきた吉住秋生の左鼠径部に刺さり、傷は蛭間よりも浅いものであったが凶器は被害者の大腿動脈を切断し、被告人は止血を試みるも出血多量のショックにより吉住秋生は死亡した。
怖くなった蛭間隆也は店を出て凶器となったディバイダーを排水溝に捨て隠ぺいを図る。そして雨のなか目黒川沿いを徘徊し、桜の木の下にしゃがみ込んだ。三時間ほど経過し、「このままではいけない」と我に返り店へと戻る。吉住秋生の死亡を確認すると、現場から自ら一一〇番に通報。「人を殺してしまった」と告白。現場に到着した目黒署の警察官により逮捕される──。
要約するとこのような事件だった。
ありふれた事件だと礼子は手控えを見つめながら思う。
が、蛭間という珍しい名前、裁判員裁判がはじまってすぐの公判というだけで、門前に立つあの男を覚えているものか? 礼子は疑問を感じた。──まだなにかあるはず。礼子は書き殴ったじぶんの文字を睨む。
──蛭間隆也、強い
強い、と書いてある。被告人の蛭間隆也を見て、強いという印象を持ったのか? ページをめくると、さらに書いてある。
──傍聴人来ない
──勘違いか
礼子が眉根に皺を寄せると、玄関から「ただいま」と夫の声がした。礼子は思考を中断し、夫を出迎えに行った。
(つづく)
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