発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。
夫の貴志が寝付いてから、礼子は書斎へむかう。そして、蛭間を裁いた九年前の公判の際の手控えを読み直していく。
* * *
晩ご飯は夫には申し訳ないが、簡単にミートローフにした。作り終えると自宅から徒歩五分の場所に住む、夫の両親にも届けた。礼子は週に四回、食事を届けに行くようにしている。
これは礼子の決め事でもあった。七十五歳になる義母はまだまだ元気だが、礼子が食事を差し入れるととても喜ぶ。「この間のアクアパッツァも美味しかったわ」などと言って皿を返してくる。と、夫も喜ぶ。夫が喜ぶということは大切だ。礼子は結婚以来そう思っている。貴志の尊厳が傷つかなければいいのだ。これはとても、礼子にとって重要なことである。
貴志が寝付いてから、いつものようにまた書斎へむかう。礼子は床に並べてあった紙の束から、蛭間隆也の判決文を探した。九年前の当時二十四歳の礼子が起案した判決文が見つかる。若かりし礼子が作成した判決文のコピーは、歳月を重ね変色していた。
【被告人 蛭間隆也 傷害致死罪 懲役四年に処する】
「懲役四年か」
礼子は幼いころから使う、パイン色の机の前に座り呟く。
「妥当よね」
礼子は手控えのページをめくっていく。およそ十年たったいまも、妥当と感じる。
じぶんが記した手控えの文字から紐解いていっても、それは間違いがないように感じた。
蛭間隆也への判決を組み立てると、こうだ。
被告人は、店の金、五万円を盗んでいる。
そのことで経営者である被害者と口論。
被害者が被告人の胸ぐらをつかむ。
被告人が振り払った手が偶然、被害者の顔に当たり激高。
酒に酔った被害者がディバイダーを取り、振り回す。
そのディバイダーが被告人の腹部に刺さる。
被告人は腹部から凶器を抜き、被害者に渡さないようにする。
なおも激高する被害者と揉みあいになる。
被告人が持っていたディバイダーが、被害者の左鼠径部に刺さる。
被害者、死亡。
凶器を隠ぺいするも、事件発生から約三時間後、被告人自ら警察に通報。自首する。
なおも組み立てていくと。
被告人蛭間隆也は、「生活苦のため、売上金五万円を盗んだ」ことを認めている。
「殺すつもりはなかったが、被害者を刺してしまったことは事実」とも自白し、
「罪を償いたい」
と犯行自体を全面的に認め、供述している。
以上により母親を殺した柳沢一成の公判と同様、罪の有り無しを争うことはない「自白事件」となる。
検察側は。
検察側は当然、「密室である」ということを前面に押し出す。蛭間隆也は警察に「被害者の吉住秋生が最初にディバイダーを持ち振り回した」と話したが、「被害者が死亡しているいま、被告人の供述に信用性はない」と主張する。これは当然だ。が、防犯カメラもなく深夜の密室で起こった事件である以上、ここは検察側も深くは追えない。
本件の凶器がディバイダーであったこともおおきい。拳銃やナイフと違い、ディバイダーを使う行為が人を殺す意思によるものだと推認するのはやや不合理であると一般的には思考される。よって、検察側は本件において、蛭間隆也に殺意があったことは主張しにくくなり、「殺人罪」に問うことは難しくなる。
となると、「これは正当防衛であるのか、過剰防衛であるのか」という争点になってくる。検察側は、蛭間隆也の行為は「防衛行為とは認められない」と主張し、正当防衛を否定し、仮に過剰防衛であるとしても、刑の減軽、免除をすべきではないと攻めてくる。
法医学の証拠はどうか。
被害者である吉住秋生を司法解剖した結果、死亡原因となった左鼠径部の刺し傷は深さ五センチ、大腿動脈を切断したが、「傷の損傷具合」「刺したディバイダーの角度」を見ても、蛭間隆也に強い殺意は見られなかった。「被告人が被害者を刺し、止血のために抜き取るまで、そのディバイダーを動かしていない」ことも見て取れた。蛭間隆也の供述通り、凶器を渡さないようにしていたところに、被害者吉住秋生が自分からむかってきて左鼠径部に刺さってしまった──このような形が見て取れた。
さらに、吉住秋生が刺された場所もおおきい。被害者である吉住秋生は胸や腹を刺されておらず、被告人蛭間隆也が刺した場所は吉住秋生の下肢である。
これもまた、蛭間隆也に強い殺意があったことを否定する。
こうなると弁護側は強気だ。
凶器を用い複数回にわたって相手を刺している場合、執行猶予はつかない。が、蛭間隆也が吉住秋生を刺した回数は「一回」である。
一方蛭間隆也が吉住秋生から受けた腹部の刺し傷は、深さ十・五センチにまで達していた。なおも吉住秋生は凶器をへそ側へ四センチほど引いたのち、さらに深くディバイダーを押し込んだ形跡が見られた。ディバイダーは蛭間隆也のS状結腸内までめり込み、あとすこしずれていれば太い血管を傷つけ死に至っていた可能性があるほどの重傷であった。
事実、蛭間から通報を受け警察官が到着した際、蛭間は倒れている吉住秋生の躰に覆い被さるようにして半分意識を失っていた。逮捕後は緊急手術が行われ、その後も合併症を併発し蛭間隆也が命の危険にさらされていたことは充分理解できる。
以上から、
「被告人蛭間隆也の行動は、被害者である吉住秋生から受けた暴行への正当防衛」
であるとし、まずは無罪を主張してくる。が、正当防衛の主張は無理だと判断した場合は過剰防衛を主張し、執行猶予付きの判決を求める。
ここで問題となったのは、蛭間隆也が吉住秋生を刺してしまう直前の行為だ。蛭間隆也は揉みあっている最中に、被害者の顔面を右拳で複数回殴打している。かなりの力で殴った形跡があり、死亡した吉住秋生の鼻骨は粉砕し、また、切歯が二本折れていた。
そして裁判所としての判決は。
被告人蛭間隆也が受けた腹部の刺し傷は、被告人が命の危険を感じるのに充分なものと相当することは認める。
近隣の店の従業員やBAR「ファクトリー」の店員からも、「被害者である吉住秋生氏は、酒を呑むと乱暴になる時がある」との証言も得ている。
が、事の発端は被告人が店の金を盗んだことにある。
そのことを被告人も認めている。
また気が動転したとはいえ、被告人は現場からいちど立ち去り、凶器を隠ぺいし、警察に通報するまでに三時間を要している。その後、凶器が見つからなかったことへの心証も悪い。
が、被告人は被害者を刺してしまったあと、倒れた被害者のスウェットの上から両手で止血を試み、それでも出血が止まらぬと判断すると被害者のスウェットを破きなおも止血した形跡が見られ、救助は試みている。
被害者は、身寄りのない被告人を長年可愛がっていた。
蛭間隆也に前科はない。
「罪を償いたい」と反省もしている。
が、被害者の妻、両親ともに厳刑を望んでいる。示談に応じるつもりもなし。
そして裁判所としては、被告人が被害者を刺す直前の行為──力強く被害者の顔面を殴打していることを見逃すわけにはいかない。客観的事実として被告人は被害者に重度の傷害を負わされたとはいえ、被害者の鼻骨を粉砕する、また切歯を二本折る余力を残していた。
凶器となったディバイダーを奪われたくない意思は考慮するが、殴打による抵抗を見せる余力があるのであれば、身長百八十二センチの被告人と身長百六十七センチの被害者の体格差を考えても、被告人はその場から逃げられたのではないか? という判断から防衛の意思を否定せざるを得ない。
よって過剰防衛は認定せず、懲役五年でも妥当なところだが自首減刑を適用し、執行猶予はつけない「懲役四年」に処する──。
「なにがおかしいのよ。間違ってないじゃない」
礼子は深夜の書斎でひとり、呟いた。気がつくと右手の親指の爪が、ぎざぎざと噛まれていた。
(つづく)
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