発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。
毎朝のルーチンを崩してまで片陵礼子が確かめたかったのは、やはりあの男のことだった。
* * *
翌朝礼子はルーチンを崩した。毎朝決まって乗り込む六時二十九分の丸ノ内線を一時間ずらしたのだ。昨日見た蛭間隆也は、霞ケ関駅A1出口の階段を午前八時二分に上ってきた。長野判事が「毎朝八時くらいに立っている」と言っていることもあり、蛭間は規則的に動く人間である可能性が高いと礼子は踏んだ。が、家を出る時間はいつも通りにした。
「いってきます」
いつものように、ソファーに座り朝のニュースを観る夫に声をかけ、家を出る。気をつけてな、と背中越しに夫の声が聞こえた。いつもと変わらぬ、六時零分。いつもと変わらぬ、起き抜けですこししゃがれた夫の声。夫の朝食もいつもとおなじくラップをかけてテーブルに置いておいた。別にやましいことがあるわけではないが、なぜかいつもとおなじ時刻に礼子は家を出た。
歩き、荻窪駅に着く。ロータリーで立ち止まり腕時計を見ると、いつもと変わらぬ六時二十四分を針が指している。ただ昨日と違うことは、礼子はこのあと一時間ここで時間を潰さねばならぬことだった。一瞬、いつものように裁判所へ行って蛭間が現れる時刻に門前へ行こうかと思いが巡ったが、やめた。三日連続、初老の警備員に会ったらさすがに気まずいし、おかしいと思われる。それに誰が見ているかわからない。
「しかたないな」
礼子は呟き駅前のコーヒーショップに歩を進める。が、開店は朝の七時からだった。まだあと三十分もある。ため息をつき、礼子は美しいまなざしを横にむけた。荻窪駅のバスロータリーにある駅前広場を見たのだ。広場といっても横幅十五メートルほどの半円の広場だが、中央線の線路を背にしたベンチがふたつと隅にもベンチがある。いままで存在を知ってはいたが、足を踏み入れたことはない。必要がなかった。が、結婚してこの駅を使うようになって十年、礼子は初めてちいさな広場のベンチに座った。
バスロータリーを眺める。せわしなく人々が降りてくる。片隅のベンチには制服を着た高校生の男の子がふたり座っていた。目の前にはおなじ制服を着た女子ふたりが立っている。女子は女同士で話し、男子は男同士で話している。時折男子が女子に話しかける。女子はそれを受け笑う。が、男子と女子の会話は長くつづかない。また男と女に分かれ話しはじめる。
二組とも付き合っている者同士なのだろうか? 礼子はしばし様子を見る。付き合っているわけではなさそうだった。好きという気持ちはありながらも、それはほんとうに好きという気持ちなのか自問自答している、そんな思春期の一コマにも映った。
「ごめんなさいねえ」
声が聞こえ横をむくと、六十代の女性がベンチに座ってきた。礼子はすこし慌てて、横に置いてあった鞄を取り、膝の上に載せた。
「すいません」
礼子が言うと、女は目を見開いて礼子の鞄を見つめた。
「あんたすごい荷物ね。おおきな鞄」
「──ああ」
礼子はそれ以上答えなかった。たしかにおおきな鞄だ。なかには礼子が担当する公判の様々な証拠資料が詰まっている。裁判官は判決文をどこで書こうが自由だ。礼子は朝は裁判官室、夕刻は裁判所では書かずに深夜自宅で書くタイプなので、必然鞄のなかは膨大な公判の資料を持ち帰らねばならず、あふれかえる。とても一般の女性が通勤に使うような洒落た鞄など持てない。
「OLさん? 違うか。そんなに荷物詰めてるんじゃ、なんかの営業か」
「ええ、まあ」
礼子は適当な相槌を打つ。余計な詮索はされたくない。この手の人間に「わたし、判事をやっているんです」などと言ったらたいへんだ。「判事? 判事って裁判官のこと?」「裁判官と判事ってどう違うの!?」「ドラマでさ──」などと会話が延々とつづいていく。そんな面倒はごめんだった。
「営業か、たいへんね」
女の口から、すこしだけ酒の匂いがした。
「わたしはね、この近くで飲み屋やってるのよ。飲み屋っていってもちいさい居酒屋だけどね。今日も帰らない客がいてさ、そのあと片付けしたらこの時間よ。嫌になっちゃう」
「それは……たいへんですね」
女に会話を止める気配はない。
「もうここで三十年になるかな。ご飯食べていかなきゃいけないからね、まだ頑張るわよ。あんたもそんなに荷物入れて歩いてるんじゃ、安月給でしょ」
とても年収は一千万ほどあるとは言えなかった。
「最近じゃ結婚なんていい、って人も増えてるみたいだけどさ、あんた綺麗なんだから、つまんない仕事なんてしてないで結婚しなさい。女は結局、最後は器量ある男に養ってもらう。これがいちばんよ。でないとさ、わたしみたいに早朝のベンチでよっころさってすることになるわよ」
がさごそと鞄のなかに手を入れながら、女は真剣に言った。酒が残っているせいか、端からそこまで興味がないからか、女は礼子がはめている結婚指輪に目がいかなかった。
と、ぷんと、匂いがした。女が燻らす煙草の匂いだった。
「マイルドセブン」
礼子はぽつりと言った。女は「正解。いまなんて言うんだっけ?」と言ったきり黙ると、足早に改札口へとむかう人々を見つめながら煙草を吸った。
あの人の匂いだ──礼子は思った。あの人とは、礼子の母親である。小学校三年の時に、疾風のごとく全速力で礼子の前からいなくなった女。それ以来、母親がどこでなにをしているのかすら知らない。
「禁止されてますよ」
広場に立てられた路上喫煙禁止の看板を見ながら、礼子は言う。女は聞こえないふりをして煙を吐きつづけた。去り際、うるさいね、と女が呟いたように礼子には聞こえた。
七時五十九分、霞ケ関駅に到着。改札を抜け地上へ上がると蛭間はまだ来ていなかった。霞ケ関駅A1出口からは、裁判所関係者、法務省、公安調査庁の役人たち、通りを挟んだむかいのA3出口からは、警察庁、総務省、国土交通省、左斜め後方に首を曲げれば外務省の人間たちがその身を母体へとむかわせていた。
礼子は木陰に立ち、用もない携帯電話を見つめるふりをする。と──すぐに目的の男の姿が映った。足元を見つめるように頭をたれ、階段を上ってくる。最後の三段ほどになると昨日とおなじように、まるで光を感じたように顔を上げた。
蛭間隆也だった。
蛭間は昨日と変わらぬ場所に立ち、裁判所を見つめた。その背中は清々しいまでに凜と伸びている。礼子は見つめながら、被告人席に座る蛭間、証言台に立ち法壇に目をむける蛭間を思い出した。どの時もいまとおなじく、じっと背筋を伸ばし公判を務めていた。
──強い
手控えにじぶんが記した印象を思い出す。
あの男には抗う姿勢が見えなかった。声を荒らげることも蚊の囁くようなちいさな声で発言することも決してなかった。ただ、まっすぐに前をむいて法廷に存在していた。うつむくことも、うなだれることも、天を見上げることもなく、ただ前を見ていた。怒りも哀しみもなく存在していた。そんな被告人は滅多にいない。蛭間隆也は強い、強かったのだ。それがいま、なんと哀しい表情で裁判所を見つめているのだ。
「なんだっていうのよ──執行猶予が欲しかったわけ?」
やはり執行猶予が欲しかったのであろうか? 服役し、刑を務め社会に戻り、現実を叩きつけられたのか。それならば控訴すればよかったのだ。それは憲法で定められた刑事訴訟法三五一条にある国民の権利だ。被告人であっても国民である。判決に不服があるのであれば、二週間以内に控訴すればいい。そして二審の、高等裁判所の判断を仰げばいい。蛭間はしばらく裁判所を見つめると、一度目を伏せ、しずかに去っていった。
(つづく)
二人の嘘
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