発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。
週末、秩父にある伯母の家へ向かった礼子。いつも通りの自分でいようと努めるが……。
* * *
「週末は秩父に行くらしいね」
昼、礼子は東京地方裁判所長の雨野智巳に呼び出された。東京地裁で唯一与えらえた個室のなかで雨野は穏やかなまなざしで礼子を見つめた。
「すみません。急にむかうことになりまして」
「いいんだ。君の伯母さんのところだろ?」
「はい」
「たしか、盆にも帰っていなかったから、寂しがっているんじゃないか?」
「伯母も歳ですから、時々は連絡入れているんですが、こっちはいいからと。盆も来なくていいと逆に念を押されるくらいで」
雨野が穏やかに微笑む。
「ではあれだ、さては片陵君が言い出したか」
雨野は礼子と夫が司法修習生時代の担当教官である。その名残もあり、いまでも礼子の夫を片陵と呼び、礼子自身のことは君、か旧姓の江田と呼ぶ。もちろん、公の場では片陵と呼ぶが。
「気をつけて行ってきなさい」
「ありがとうございます」
礼子は雨野の前に立ち、頭を下げる。
裁判官は暗黙のうちに、見えぬ手綱を躰に巻かれ、自由を制限されていると言ってもいい。かつては海外旅行など簡単に行けぬ裁判官が多かったという。裁判官は公判のない土日は休日となる。これは一般の労働者とほぼ変わりはない。が、実際は検察や警察から要請される勾留請求や逮捕状の請求があるため自宅に待機していることが多い。いや、そうせざるを得ない。
当然だが罪を犯す者は、「裁判官を休ませるため、土曜日と日曜日は悪いことをするのをやめよう」などと思ってはくれない。盆暮れ正月、二十四時間人は罪を犯す。
どちらにせよ大都市東京で裁判官をしていれば、裁判官の人数と公判の件数があわないのだ。必然ひとりが抱える公判の数は膨大なものとなり、休日もひたすらに判決文を書く時間と、事件を組み立てる時間に追われる。
今でこそ旅行にも寛容になったが、古参の裁判官には、慣行として任地している都道府県から出ない堅物もいる。礼子は誰に言われたわけでもないが、基本いつ案件が入ってもいいように、プライベートで東京を離れることを自ら禁じている。
今回は夫の貴志が思い出したかのように「礼子の伯母さんのところへ行こう」と数日前に言いだした。礼子を抱いたあと、天井を見上げながら言った。気乗りしなかったが、それについて貴志とやり取りをするのも無駄な時間だと思い、念のため部の長である小森谷に報告をした。きっと雨野の耳にも届くであろうことを礼子は知っていた。だからなおさら、嫌であった。
眼鏡の奥の雨野の瞳が笑みを消し、東京地裁所長のまなざしに戻る。
「どうだ、東京は」
「有意義にやらせていただいております」
「来てもらったのはいくつか用件があってね。実は来週、最高裁判事のOBと民法学者で会食をすることになった。再来年に新民法が施行されるだろ。その注釈書の改訂作業を彼らがしているらしいのだが、どうにも腑に落ちない点があるようでね。君の意見がどうしても聞きたいらしい。来週の水曜日の夜、大丈夫かな?」
「わかりました」
「少々行き詰まっているのかもしれないから手伝ってあげてくれ。将来的にも君のデメリットになる人間たちではないから」
「かしこまりました」
満足したように雨野は微笑んだ。肩幅も袖口もぴたりと合ったスーツ。雨野は年に数回スーツを仕立てる。夫の貴志もよくスーツを仕立てるが、それよりももっと高価な物であろうと、上質な生地を見ながら礼子は思った。
「あとはこの間の取材、ありがとう」
「いえ」
「滞りはなかったかな?」
「はい」
「記事のゲラという物が来たから、すこし修正をしておいた。勝手にすまないね」
「かえってお手を煩わせてしまって」
「いいんだ。あとは、これ」
雨野が包装紙で包まれた箱を机上に置く。見ると高価なブランドのロゴが入っていた。
「近々、例の公判を担当するだろ。なんといったか──芸能人の」
「ああ、ひとりいますね。覚醒剤の不法所持と使用についてです」
「カメラも入るだろうから」
「お気遣い、いつもすみません」
礼子は頭を下げ、受け取り、廊下へと出た。雨野は礼子が、世間から注目を集める裁判を担当する際、必ず箱を渡す。箱のなかは見なくてもわかる。法服の下に着るシャツだ。礼子が単独審をできるようになってから、毎回、報道陣の取材カメラが入る公判の際はシャツをプレゼントしてくる。きっと、今回も雨野好みの淡い色のブラウスであろう。
礼子は基本、紺か黒色のシャツを着用する。黒の法服の下でも目立たぬし、汚した場合でも目を引くことはない。が、雨野からもらえば着る。それは彼がそう欲しているからだ。礼子がまだ東大を出てすぐ、司法修習生時代のときに雨野は言った。
「父親のように思ってくれればいいから」
その言葉に対して、礼子はなんの感情も持たない。着てほしいというのであれば、着る。議論する時間も、雨野の感情を考える時間も、無駄なことだと思う。
週末。
伯母の家へと礼子はむかった。夫の運転するBMWⅰ8の助手席に座り車窓を眺める。昼過ぎに自宅のある荻窪を出て、環状八号線を走り、関越自動車道に乗る。礼子は窓の外を見つめながら、門前に立つ蛭間隆也を思い出した。悲しいけれど蛭間隆也がこういう車に乗ることは一生ないだろう。いくつかのサービスエリアに寄り、午後三時に到着した。
「すみません。忙しいのに」
七十二歳になる香山季子は、礼子の家の書斎ほどしかない広さの居間で、貴志に深々と頭を下げた。
「いえいえ、二年ぶりになってしまって」と貴志が笑みを浮かべ畳に腰を下ろす。
「元気?」
と礼子は訊かれ、「うん」と頷いた。
礼子は居間と隣接した台所を見回す。伯父の残したちいさな家は、築年数を重ね傷みが目立つ。が、清潔感を保っているのは伯母の性格ゆえであろう。物を大切にする伯母は、夫に先立たれたいまも、日々の掃除を繰り返していることが礼子にはわかった。
「さあ、おかあさん。秋物の衣替えでもしますか」
貴志は普段よりおおきな声を出し、箪笥へとむかった。
「その必要ないよ。ね、伯母ちゃん」
伯母は困ったように微笑むと、「ほんとうに大丈夫ですから」とまた頭を下げる。
伯母は生活するうえで最小限の物しか持たない。それは洋服も同様だ。貴志ははりきってシャツの袖をまくっているが、このやり取りは二年前のこの時期にも見た。きっと貴志は覚えていないだろうと礼子は思った。
「え? そうなんですか? 困ったな、せっかく来たのに……なにかやることないですかね? 男がいる間に」
「じゃあ、申し訳ないけど二階を掃除機かけてきてくれる? 窓も開けて換気して。わたしは一階やっちゃうから」
礼子が言うと、「ああ」と言い貴志は二階へむかった。
「ごめんね、礼子」
「わたしこそ、ごめん。あの人何年かに一回気まぐれで言うから。伯母さんのところに行こうって」
「あなたも忙しいだろうに。いつも言うけど、こっちは大丈夫だから」
「──うん」
礼子は一年に一度は、伯母の家に顔を出すようにしている。今年は正月明けの土曜日、ひとりで来た。が、その日から干支も変わっていないというのに、伯母はまた老いた気がする。お茶をする友人もいないからか、それとも日々、裕福な貴志の母親をまぢかで見ているからそう思うのか、礼子にはわからなかった。
「東京に来てくれたら、いいんだけど」
「わたしはわたしで生きたいの。礼子はしっかり、じぶんの人生を生きなさい。でも、ありがとう」
礼子は裁判官を十年務め判事となった時、「東京に住まないか?」と伯母に提案した。給与も上がったし、ちいさなアパートくらいであれば、じぶんが払えると礼子は思った。
それは罪をあがなう──贖罪の気持ちに近かったが。
礼子が八歳の時に、実の母親は失踪した。ほんとうに、嘘でなく、疾風のように母親は礼子の前からいなくなった。江戸川区の木造アパートで母とふたり生きていた礼子は途方に暮れた。が、母が失踪しても一か月間、礼子は誰にも言わず学校に通い生活した。
母親がいなくなったことに気がついたのは小学校の担任だった。その月の給食費が支払われなかったのだ。八歳の礼子は必死に狭い家のなか現金を探したがどこにもなかった。ほどなく異変に気がついた担任がアパートまで来て、母がいないことを見破られた。礼子の体重は四キロ減っていた。母の姉、季子が飛んできたことを礼子はいまでも覚えている。
それから伯母の季子はすぐさま決断した。夫と離れ礼子とともに、東京で暮らすことを。決定打となったのは、礼子の小学校の校長の一言だった。校長室に、季子、担任、教頭、礼子が集められた。今後の生活を問われた季子は、「じぶんには子供がいないため、埼玉県秩父にある自宅に礼子を引き取ろうと思っている」と校長に話した。校長は一言、「もったいないです」と言った。「この子の頭の良さは、ちょっと見たことがない」と。
伯母が姿勢を正し、校長先生と視線を合わせたことを礼子は覚えている。
「本来であれば、もっとレベルの高い小学校に入れたほうがいいほど」
「地方がいけないということではなく、東京の学力に触れていたほうがいい」
「この子の将来がもったいない」
教師たちは真剣に伯母に話した。伯母は秩父市にあるセメント工場で働く夫に相談し、礼子が大学へ行くまでの九年間、礼子と東京で暮らすことを決めた。資金も潤沢ではなかったため、季子はほぼ身ひとつで、母親のいなくなった礼子のちいさなアパートへ越してきた。すぐに働き口を見つけ、伯母は礼子を育てた。伯父もたいへんに理解ある優しい人間で、月に一度しか帰れなくなった妻にも愛情深く接し、礼子のことも可愛がってくれた。
礼子が東京大学法学部に合格すると、伯母はしずかに泣き、ちいさな荷物を片手に東京を去っていった。それから時をおかずして伯父は亡くなった。伯父が購入したちいさな家は、ふたりの思い出も残らず、伯母だけが住むことになった。
礼子は伯母の人生を奪ったのではと、いまも後悔している。
ごしごしと、礼子は束子で風呂場の床をみがく。
所々剥がれ落ちてしまっているタイルが、やけに悲しかった。
──なにかじぶんの感情を嗅ぎ取ってしまっている。
よくない。
礼子は思った。感情を持つことはすべてを狂わせる。
間違ってはいけないのだ。
ごしごし、ごしごしと、礼子はタイルを擦りつづけた。
(つづく)
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