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二人の嘘

2021.12.03 公開 ポスト

#14 夫と泊まった秩父のホテルで、片陵礼子は蛭間隆也に思いを馳せていた。一雫ライオン

発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。

 

伯母と会っているときも、夫の運転する車の助手席に座っているときも、礼子の頭の片隅には蛭間隆也が存在した。

*   *   *

夕方、貴志の提案で鮨屋にむかった。ネットで「秩父でいちばん旨い鮨屋」と検索して出てきた店だという。夫の車で店に辿り着くと、田舎特有の敷地の広い店構えであった。「なかなか期待できそうだ」と貴志は喜び、季子と礼子に暖簾をくぐらせた。

「おかあさん、遠慮しないで、がんがん食べて呑んでください」

カウンターで白ワインをグラスに注ぎながら貴志は言う。貴志はその勢いで、季子のグラスにもワインを注いだ。

「伯母ちゃん、呑めないから」

礼子が注がれるワインボトルに手を伸ばし、止めた。

「え? そうだっけ? でもたまには。ね、おかあさん。これ、なかなかいいワインだから」

ええ、と頭を下げ季子はグラスを持った。伯母は呑めない酒を、ちびり、ちびりと口中に運んだ。

「美味しいのから、つまみで出してください」

貴志は店主に微笑みを浮かべ言う。赤貝と鯛の刺身を貴志は食べると、一瞬間をおき、唇をすぼめた。それ以降は握りをすこしだけ注文し、黙々とワインを呑んでいた。しばらくして貴志がトイレへ行くため席を立った。と、季子が横に座る礼子に囁いた。

「なにかあるのかい?」

「え?」

「──爪」

季子は礼子の親指の爪を見つめていた。

「……あぁ」礼子も視線をじぶんの爪に落とす。親指の爪だけが、ぎざぎざと噛まれ歪に短くなっていた。

「家のこと? 貴志さんとなにかあるのかい?」

「大丈夫よ。うまくいってる」

「貴志さんのご両親かい? なにか言われてるのかい?」

「だから平気よ。安心して」

「じゃあ、なんでまた爪──」

ちょうどよく貴志が席に戻ってきて季子は会話を止めた。伯母には申し訳ないと思いながら、礼子はほっと息をついた。

一時間ほど鮨をつまみ、三人は店を出た。季子はなんども頭を下げ、「ごちそうになってしまって」と貴志に礼を言った。

「いいんですよ、おかあさん。明日はどうしましょう? 群馬あたりまで羽を伸ばして、観光でもしてみますか?」

貴志は微笑む。

「いえ、せっかくの休みでしょうから、礼子とふたりでのんびりされてください」

「なに言ってるんですか、言ってくれれば掃除でもなんでもやりますから」

「ほんとうに、お気持ちだけで──」

季子はちいさな躰を折り曲げ、なんどもなんども頭を下げる。

「困ったな」

そう言いながら貴志はすぐに納得した。タクシーが到着する。礼子はお札を何枚か伯母に渡し乗り込ませた。

「ごめんね」礼子はちいさな声で季子に話しかけた。と、伯母は礼子の顔も見ずに、もういちど車外に出てきた。そのまま、貴志の前に立ち背を正す。

「どうしました?」

季子は貴志を見つめ、なんども瞬きを繰り返した。そして息を吸いこみ懇願するように言った。

「この子のこと、よろしくお願いいたします」

深々と季子は首を垂れる。

「なに言ってるんですか、おかあさん。やめてくださいよ」

貴志は折り曲げた季子の背をさすり、元に戻そうとする。そのたびに貴志の手首に巻かれたパテックフィリップの腕時計が、残陽の光を浴びて煌めいた。

が、決して季子は頭を上げなかった。

「この子は、甘えられない子なんです。甘えられない子ですから」

どうか、どうかよろしくお願いいたします──この言葉をなんども繰り返し、ようやく伯母はタクシーに乗り込み、去っていった。

桜の木がつける緑葉のなかから、蝉の声がした。それは微かで、夏の終わりが近づいているからか、か弱き一匹の叫びのように礼子には聞こえた。

「どうしたんだろうな、おかあさん急に」

「伯母も、歳だから」

貴志はふうと息をつき、秩父駅前にあるホテルへむかうために呼んだ、運転代行サービスを待った。

「ありがとう」

礼子は呟く。

「こちらこそ」

貴志は答えた。貴志の顔は満足そうに微笑んでいた。きっと伯母に言われた言葉が嬉しかったのであろうと、礼子は思った。

 

秩父駅のすぐそばにある、ホテルの一室に着く。

「やっぱり東京の鮨がうまいな」

「築地から、ってわけにも簡単にいかないだろうからな」

「ここはホテルっていうより、ビジネスホテルだな」

と言って眠った夫のことなど、申し訳ないが礼子の眼中にはなかった。

礼子は蛭間隆也のことを思い出す。

伯母と会っているときも、夫の運転する車の助手席に座っているときも、礼子の頭の片隅には蛭間隆也が存在した。

憎々しかった。

なにを間違っているというのだ。

窓際にある対に置かれた一脚のソファーに礼子は腰を下ろす。ちいさなテーブルランプだけを灯し、持参した蛭間隆也の手控えを広げる。弱々しい光のなか、九年前の礼子の文字が囁きかけるように浮かぶ。

──被害者・吉住秋生の妻→「夫ともども、長年わたしも親のいない被告人に手料理を食べさせたり、クリスマスや誕生日を祝ったりしてきた。夫とも近年、不妊治療を行い、頑張っている最中だった。絶対に被告人を許せない。しかも自ら警察に電話しているが、その前には凶器を捨て隠ぺいして、自分の罪を逃れようとしていた。死刑にしてほしい」

──被害者・吉住秋生の父→「親のいない児童養護施設出身の蛭間隆也くんを、息子は被告人が十八歳のときから面倒を見ていた。クロック・バックを息子が立ち上げたときも、数いる時計技師のなかから、蛭間くんにだけ声をかけ、従業員として雇った。なのに売上金を盗み、あげく口論になったとはいえ息子を殺したことは断じて許せない。親としては、極刑を求めたいくらいだ。妻も事件以来心労から体調を崩しいまも入院している。裁判所の判決も、量刑相場に囚われず、重い判決を望む」

──蛭間、被告人席で黙って聞く

──まっすぐ。眼球動くことなし

 

礼子は美しい目を細め、手控えに顔を近づける。ページをめくってもめくっても、速記した礼子の文字が延々とつづく。判別しがたい文字もある。そのなかに、気になる文言があった。他人が見たらまったく解読できぬ文字であろう。だが、礼子はこの単語に慣れ親しんでいる。

──控訴するか しないか

「控訴?」

礼子は呟く。礼子が起案した判決に対して、検察側、弁護側のどちらかが控訴してくると踏んでいたのか? この場合、検察側が控訴してくることはありえない。検察側は蛭間隆也に対して望んだ通り、いや、もしくはそれ以上の結果が得られたはずだ。裁判所は蛭間隆也の正当防衛も過剰防衛も認めず、執行猶予もつけなかったからだ。

となると、被告人側である。蛭間隆也、もしくは弁護人が判決に不服があり、二審を行う東京高等裁判所に控訴してくる気配を、じぶんは感じ取り手控えに記したのか──。礼子はがりがりと爪を噛む。

公判の記憶も、さすがの礼子でも完全ではない。裁判官となりこの十年の間に、いったいどれほどの裁判をしてきたと思っているのだ? 一度時間のあるとき、蛭間の公判の手控えを清書しようと礼子はひとり誓った。事件を組み立てなおし、じぶんが下した判決が正しいことを証明しなければ、脳内に居座るあの男を追い出すことはできない──。

夫がベッドから起き上がった。呑みすぎたのか重そうな足取りで小型冷蔵庫へむかう。開けるとコンビニエンスストアで購入してきたミネラルウォーターをぐいと飲んだ。礼子は手控えを睨みつづけた。

「仕事か」

「うん」

「たいへんだな」

ごく、ごくと夫の喉仏を通過する水の音が聞こえた。

「おかあさん、明日ほんとどこにも連れてかなくていいのかな」

「大丈夫よ」

「うーん、利根川あたり散歩でもどうかと思ったんだけど」

夫はしばし黙り、またベッドへと戻った。

手控えを見つめながら、「いまのは偽証だ」と礼子は思う。伯母を大切に思うのであれば伯母の家に泊まるであろうし、前もって翌日のスケジュールも立てる。が、夫は顔を出すことで充分彼の務めを終えている。顔を出し、おかあさん、と呼び、必要のない衣替えを申し出て、すこしばかり空気を入れ替え、秩父のなかでいちばん高価な鮨を食わせれば充分なのだ。そして「ごちそうさまでした」となんども頭を下げさせ、「この子をよろしくお願いいたします」という言葉が引き出せれば、近郊とはいえ、妻の伯母の家まで来た目的は充分に果たせたであろう。

 

礼子はいったん、蛭間隆也の手控えを閉じた。今後控える終わることのない判決文を思案しなければならないし、法改正にむけて読むべき論文も、書くべき論文も控えていた。

息をついた。

夫の寝息が、「この部屋は狭いな」と言っているように聞こえた。

 

窓は開けたくても開けられない。飛び降り自殺を防止して、固く施錠されている。礼子は立ち上がりちいさな窓辺に立つ。

窓のむこうは駅前のロータリーが映る。数軒ある居酒屋の灯りは消えていた。人影もない景色を見ながら、礼子の頭に蛭間隆也の姿が浮かぶ。

あの男はいま、なにをしているのだろう──。

 

(つづく)

関連書籍

一雫ライオン『二人の嘘』

女性判事・片陵礼子の経歴には微塵の汚点もなかった。最高裁判事への道が拓けてもいた。そんな彼女はある男が気になって仕方ない。かつて彼女が懲役刑に処した元服役囚。近頃、裁判所の前に佇んでいるのだという。違和感を覚えた礼子は調べ始める。それによって二人の人生が宿命のように交錯することになるとも知らずに......。感涙のミステリー。

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一雫ライオン

1973年生まれ。東京都出身。明治大学政治経済学部二部中退。俳優としての活動を経て、演劇ユニット「東京深夜舞台」を結成後、脚本家に。映画「ハヌル―SKY―」でSHORT SHORTS FILM FESTIVAL & ASIA 2013 ミュージックShort部門UULAアワード受賞。映画「TAP 完全なる飼育」「パラレルワールド・ラブストーリー」など多くの作品の脚本を担当。2017年に『ダー・天使』で小説家デビュー。その他の著書に、連続殺人鬼と事件に纏わる人々を描いた『スノーマン』がある。

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