発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。
伯母と会っているときも、夫の運転する車の助手席に座っているときも、礼子の頭の片隅には蛭間隆也が存在した。
* * *
夕方、貴志の提案で鮨屋にむかった。ネットで「秩父でいちばん旨い鮨屋」と検索して出てきた店だという。夫の車で店に辿り着くと、田舎特有の敷地の広い店構えであった。「なかなか期待できそうだ」と貴志は喜び、季子と礼子に暖簾をくぐらせた。
「おかあさん、遠慮しないで、がんがん食べて呑んでください」
カウンターで白ワインをグラスに注ぎながら貴志は言う。貴志はその勢いで、季子のグラスにもワインを注いだ。
「伯母ちゃん、呑めないから」
礼子が注がれるワインボトルに手を伸ばし、止めた。
「え? そうだっけ? でもたまには。ね、おかあさん。これ、なかなかいいワインだから」
ええ、と頭を下げ季子はグラスを持った。伯母は呑めない酒を、ちびり、ちびりと口中に運んだ。
「美味しいのから、つまみで出してください」
貴志は店主に微笑みを浮かべ言う。赤貝と鯛の刺身を貴志は食べると、一瞬間をおき、唇をすぼめた。それ以降は握りをすこしだけ注文し、黙々とワインを呑んでいた。しばらくして貴志がトイレへ行くため席を立った。と、季子が横に座る礼子に囁いた。
「なにかあるのかい?」
「え?」
「──爪」
季子は礼子の親指の爪を見つめていた。
「……あぁ」礼子も視線をじぶんの爪に落とす。親指の爪だけが、ぎざぎざと噛まれ歪に短くなっていた。
「家のこと? 貴志さんとなにかあるのかい?」
「大丈夫よ。うまくいってる」
「貴志さんのご両親かい? なにか言われてるのかい?」
「だから平気よ。安心して」
「じゃあ、なんでまた爪──」
ちょうどよく貴志が席に戻ってきて季子は会話を止めた。伯母には申し訳ないと思いながら、礼子はほっと息をついた。
一時間ほど鮨をつまみ、三人は店を出た。季子はなんども頭を下げ、「ごちそうになってしまって」と貴志に礼を言った。
「いいんですよ、おかあさん。明日はどうしましょう? 群馬あたりまで羽を伸ばして、観光でもしてみますか?」
貴志は微笑む。
「いえ、せっかくの休みでしょうから、礼子とふたりでのんびりされてください」
「なに言ってるんですか、言ってくれれば掃除でもなんでもやりますから」
「ほんとうに、お気持ちだけで──」
季子はちいさな躰を折り曲げ、なんどもなんども頭を下げる。
「困ったな」
そう言いながら貴志はすぐに納得した。タクシーが到着する。礼子はお札を何枚か伯母に渡し乗り込ませた。
「ごめんね」礼子はちいさな声で季子に話しかけた。と、伯母は礼子の顔も見ずに、もういちど車外に出てきた。そのまま、貴志の前に立ち背を正す。
「どうしました?」
季子は貴志を見つめ、なんども瞬きを繰り返した。そして息を吸いこみ懇願するように言った。
「この子のこと、よろしくお願いいたします」
深々と季子は首を垂れる。
「なに言ってるんですか、おかあさん。やめてくださいよ」
貴志は折り曲げた季子の背をさすり、元に戻そうとする。そのたびに貴志の手首に巻かれたパテックフィリップの腕時計が、残陽の光を浴びて煌めいた。
が、決して季子は頭を上げなかった。
「この子は、甘えられない子なんです。甘えられない子ですから」
どうか、どうかよろしくお願いいたします──この言葉をなんども繰り返し、ようやく伯母はタクシーに乗り込み、去っていった。
桜の木がつける緑葉のなかから、蝉の声がした。それは微かで、夏の終わりが近づいているからか、か弱き一匹の叫びのように礼子には聞こえた。
「どうしたんだろうな、おかあさん急に」
「伯母も、歳だから」
貴志はふうと息をつき、秩父駅前にあるホテルへむかうために呼んだ、運転代行サービスを待った。
「ありがとう」
礼子は呟く。
「こちらこそ」
貴志は答えた。貴志の顔は満足そうに微笑んでいた。きっと伯母に言われた言葉が嬉しかったのであろうと、礼子は思った。
秩父駅のすぐそばにある、ホテルの一室に着く。
「やっぱり東京の鮨がうまいな」
「築地から、ってわけにも簡単にいかないだろうからな」
「ここはホテルっていうより、ビジネスホテルだな」
と言って眠った夫のことなど、申し訳ないが礼子の眼中にはなかった。
礼子は蛭間隆也のことを思い出す。
伯母と会っているときも、夫の運転する車の助手席に座っているときも、礼子の頭の片隅には蛭間隆也が存在した。
憎々しかった。
なにを間違っているというのだ。
窓際にある対に置かれた一脚のソファーに礼子は腰を下ろす。ちいさなテーブルランプだけを灯し、持参した蛭間隆也の手控えを広げる。弱々しい光のなか、九年前の礼子の文字が囁きかけるように浮かぶ。
──被害者・吉住秋生の妻→「夫ともども、長年わたしも親のいない被告人に手料理を食べさせたり、クリスマスや誕生日を祝ったりしてきた。夫とも近年、不妊治療を行い、頑張っている最中だった。絶対に被告人を許せない。しかも自ら警察に電話しているが、その前には凶器を捨て隠ぺいして、自分の罪を逃れようとしていた。死刑にしてほしい」
──被害者・吉住秋生の父→「親のいない児童養護施設出身の蛭間隆也くんを、息子は被告人が十八歳のときから面倒を見ていた。クロック・バックを息子が立ち上げたときも、数いる時計技師のなかから、蛭間くんにだけ声をかけ、従業員として雇った。なのに売上金を盗み、あげく口論になったとはいえ息子を殺したことは断じて許せない。親としては、極刑を求めたいくらいだ。妻も事件以来心労から体調を崩しいまも入院している。裁判所の判決も、量刑相場に囚われず、重い判決を望む」
──蛭間、被告人席で黙って聞く
──まっすぐ。眼球動くことなし
礼子は美しい目を細め、手控えに顔を近づける。ページをめくってもめくっても、速記した礼子の文字が延々とつづく。判別しがたい文字もある。そのなかに、気になる文言があった。他人が見たらまったく解読できぬ文字であろう。だが、礼子はこの単語に慣れ親しんでいる。
──控訴するか しないか
「控訴?」
礼子は呟く。礼子が起案した判決に対して、検察側、弁護側のどちらかが控訴してくると踏んでいたのか? この場合、検察側が控訴してくることはありえない。検察側は蛭間隆也に対して望んだ通り、いや、もしくはそれ以上の結果が得られたはずだ。裁判所は蛭間隆也の正当防衛も過剰防衛も認めず、執行猶予もつけなかったからだ。
となると、被告人側である。蛭間隆也、もしくは弁護人が判決に不服があり、二審を行う東京高等裁判所に控訴してくる気配を、じぶんは感じ取り手控えに記したのか──。礼子はがりがりと爪を噛む。
公判の記憶も、さすがの礼子でも完全ではない。裁判官となりこの十年の間に、いったいどれほどの裁判をしてきたと思っているのだ? 一度時間のあるとき、蛭間の公判の手控えを清書しようと礼子はひとり誓った。事件を組み立てなおし、じぶんが下した判決が正しいことを証明しなければ、脳内に居座るあの男を追い出すことはできない──。
夫がベッドから起き上がった。呑みすぎたのか重そうな足取りで小型冷蔵庫へむかう。開けるとコンビニエンスストアで購入してきたミネラルウォーターをぐいと飲んだ。礼子は手控えを睨みつづけた。
「仕事か」
「うん」
「たいへんだな」
ごく、ごくと夫の喉仏を通過する水の音が聞こえた。
「おかあさん、明日ほんとどこにも連れてかなくていいのかな」
「大丈夫よ」
「うーん、利根川あたり散歩でもどうかと思ったんだけど」
夫はしばし黙り、またベッドへと戻った。
手控えを見つめながら、「いまのは偽証だ」と礼子は思う。伯母を大切に思うのであれば伯母の家に泊まるであろうし、前もって翌日のスケジュールも立てる。が、夫は顔を出すことで充分彼の務めを終えている。顔を出し、おかあさん、と呼び、必要のない衣替えを申し出て、すこしばかり空気を入れ替え、秩父のなかでいちばん高価な鮨を食わせれば充分なのだ。そして「ごちそうさまでした」となんども頭を下げさせ、「この子をよろしくお願いいたします」という言葉が引き出せれば、近郊とはいえ、妻の伯母の家まで来た目的は充分に果たせたであろう。
礼子はいったん、蛭間隆也の手控えを閉じた。今後控える終わることのない判決文を思案しなければならないし、法改正にむけて読むべき論文も、書くべき論文も控えていた。
息をついた。
夫の寝息が、「この部屋は狭いな」と言っているように聞こえた。
窓は開けたくても開けられない。飛び降り自殺を防止して、固く施錠されている。礼子は立ち上がりちいさな窓辺に立つ。
窓のむこうは駅前のロータリーが映る。数軒ある居酒屋の灯りは消えていた。人影もない景色を見ながら、礼子の頭に蛭間隆也の姿が浮かぶ。
あの男はいま、なにをしているのだろう──。
(つづく)
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