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二人の嘘

2021.12.10 公開 ポスト

#16 「蛭間隆也って男のこと、あんまり深追いしないほうがいいわよ」。片陵礼子は、友人にそう言われた。一雫ライオン

発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。

 

礼子は、東大法学部時代の友人に、ある頼みごとをした。

*   *   *

「珍しいこともあるもんね。雪が降るとまでは言わないけどさ」

二週間後、礼子は赤坂見附にある懐石料理屋「縁」の個室で、守沢瑠花と膝をつきあわせた。守沢瑠花とは東大法学部、その後の司法修習生時代も同期だった。礼子がいなければ守沢瑠花が東大法学部の歴代成績を塗り替えていたと言われるほどの秀才であったが、瑠花も成績などに執着が薄い人間で、司法修習生を半年務めると突然、「やめます」と告げ、担当教官の雨野を驚かせた。

雨野が理由を尋ねると、一言、「飽きたからです」と答えた変わり種だ。その後は毎朝新聞の記者として働いている。礼子の数少ない、本音に近いところで話せる相手であった。瑠花は煙草に火をつけると、スマートフォンを覗きこみながらちらと礼子に視線を送り、にやと口角を上げた。

「あいかわらず猫みたいな目、してるわね」

「どういう意味。切れ長ってこと」

「それもあるけど。人を信用しているようでまったくしていない目ってことよ。ま、そこが好きだけど」

野良猫みたいで──瑠花は言うと、左手には煙草、口からは紫煙、右手はメールと忙しくしながら礼子を見て笑った。

よし終わった。言うとようやく瑠花はグラスのなかのビールを一息で空けた。

「いいわけ、呑んで。事件が起こったらどうするのよ」

「事件って?」

「あなた警視庁担当でしょ。いつ重大事件が起こるかわからないじゃない」

礼子が言うと、くは、と瑠花は声を出した。

「あんたいつの話してるのよ。それ三年前まで。警視庁担当は終わって、いまはより魑魅魍魎な世界にいるわよ」

「どこ?」

「政治部。しかも与党担当すっ飛ばして幹事長番にされてるわよ」

「そうなんだ」

礼子は瑠花が置いた瓶ビールを掴むと、じぶんのグラスに注ぎ喉元に流した。

「あんたさ、一応これ新聞記者のなかじゃ超出世コースよ。普通ならおめでとう、とかすごいね、とか言うもんでしょ。社会的な通常理念としてはさ。ほら、言いなさいよ」

「そういうの興味ないじゃない」

「一応よ。社会にいる人間として一応。こういうのできないと、東大出身はますます庶民から嫌われるんだから」

「じゃあ、乾杯。おめでとう」

「ありがとう」

礼子は美しい顔に一片の変化も見せずグラスを差し出す。瑠花も面白がるように、グラスを合わせた。

「で、偽りの賛辞はいいとして。どうしたのよ」

「ひとり調べてほしい男がいてね」

「調べる?」

「そう。二〇〇九年にわたしが判決文を起案した被告人なんだけど、門前の人になってるのよ」

「二〇〇九年ってことはあんたが裁判官になった次の年。左陪席のときか」

「うん」

「罪状は?」

「傷害致死」

「判決は」

「懲役四年」

「裁判所の前であんたの名前出して抗議してるわけ?」

「それが黙って立ってるだけなのよ。じっと裁判所を見つめて」

「再審請求なんて考えてるわけじゃないでしょ? まさかその程度の裁判で」

「と思う。なのに立ってる。調べられる?」

「何年警視庁担当やってたと思ってるのよ。役に立たない新米記者がいるから、細かいところはそいつに調べさせるわ。三日四日、いや、一応一週間ちょうだい」

「悪いわね」

「どこまで調べればいい?」

「事件の詳細はいま手控えを整理してるからいいわ。現状でもわたしが判決を間違えていた可能性なんてありえないから。その被告人が出所してからの動向が知りたいの」

「出所後?」

「実刑四年だから二〇一三年には釈放されてると思うわ。そのあと仕事をしているのか、誰に頼ったのか、どこに住んでいるのか、その──」

珍しく礼子は言葉を飲んだ。五秒ほど黙ったであろうか。個室に隣接する小庭にむけた視線を、礼子はようやく瑠花に戻す。

「その男が幸せを感じられる環境がすこしでもあるのか、調べてほしいのよ」

「幸せ?」

「わたしの下した判決に間違いはない。でも門前に立ちながら不服があるのかすら感じ取れない。であればいまの彼の状況を知り推察するところからはじめないと、裁判所の門前に立ちつづける意味がわからないのよ」

「ようは理解できないわけね。片陵礼子ともあろう者が。その男を」

そう。礼子は素直に認め瑠花を見た。その目は普段通りの強いまなざしに戻っていた。

「悔しいわけだ」

「遺憾よ。わたしが間違えるはずないんだから」

「思い通りにいかない、ってわけだ」

守沢瑠花は礼子の言葉を聞き嬉しそうにけたけたと笑うと、手帳に蛭間隆也の名を記した。

 

その後は小鉢で運ばれてくる料理を肴に時を過ごした。瑠花は記者人生で鍛えられたのか、はたまた生まれ持った性質に拍車がかかったのか、麦焼酎のロックをミネラルウォーターのごとく呑みつづけた。

「しかし三年ぶりか、こうして会うの」

「そうね」

「あいかわらず恐ろしく綺麗ね。憎らしいほど」

「それに対する返答は持ち合わせてないわ」

「あんたさ、すこしはじぶんに興味持ちなさいよ。わたしたちみたいに普通の──普通って言わせてもらうわよ、あえて、ここは、絶対。わたしみたいに普通の顔して生まれた人間はさ、化粧して、寝る前に眠い目こすりながら化粧水肌に染みこませて、朝鏡見てなんなのよ、なんの効果もないじゃないなんて思いながらも努力するしかなくてさ、なにかで写真撮ってじぶん確認したら、あ、もう写真撮るのやめよう、なんて絶望しながらなんとかやってるわけよ。

となるとよ、あんたもすこしはじぶんに興味持ってる形跡見せてくれないと、やりきれないわけよ。結局は神が創り賜うた無努力の完璧なる存在っていうのがこの世にいると思うとさ、やりきれないわけ。だからすこしはじぶんに興味持ちなさい」

「そんなに持ってないかしら」

「持ってないわよ。だからそんな変な色のシャツ着るのよ。なに? そのピンクがかったシャツ。全然似合ってないじゃない」

礼子は視線を下ろしじぶんの着ている服を見た。

「ああ、今日著名人が被告人の公判があってね」

礼子は着ている服になんの執着も見せず答える。

「まさか雨野、まだあんたにシャツ、プレゼントしてくるの?」

「そうね」

「気持ちわる」

瑠花は顔を歪ませ、グラスのなかの酒を一気に呑み干した。

「完璧に性的なまなざしね。あんたもそこはたいへんね」

「別に。なにもたいへんだとは思わない」本音だった。興味がないからだ。

──法曹界のマスコット的存在。

瑠花は呟く。

「なに?」

「あんたのことよ。裁判所は片陵礼子を法曹界のマスコット的存在にしようとしている。もちろんその中心は雨野東京地裁所長よ。雨野は所長になる前に事務総局を経験してるから人事権もあるしマスコミへのコネクションも強い。いまだに忘れないわ。わたしたちが司法修習生になって、初めて雨野と会った日のこと。

雨野、あなたを宝石を見るような視線で見てた。見つけた、って顔よ。誰もが振り返るほどの飛びぬけた美貌、誰も嫉妬することもできない卓越した能力、そしてあんたの──ヒストリー」

どうせ読んでないでしょ。瑠花は礼子に雑誌を渡した。取材を受けた「AURA」だった。礼子がちらと表紙をめくると、黒い法服をまとったじぶんがいた。その後もインタビュー記事に並び、裁判官室に佇む片陵礼子の写真がどこまでも存在した。八ページと聞いていたが、どうやらそれより枚数は多いようだった。「女性判事から見た日本。女性が輝いて働ける時代に」という見出しのはずであったが、「美人判事 片陵礼子。十年にひとりの逸材が抱くこれからの日本への危惧。女性の働き方への提案」と変更されていた。

瑠花はため息をつき、煙草に火をつけ礼子を見る。

「雨野はある意味、ついてたのよ。強運。担当する修習生にあんたが来たんだから。雨野は来年になれば確実に東京高裁長官のポストに就く。でも雨野の野望は自分自身じゃない。あんただから。雨野があんたを最終的にどこに行かせたいか、わかる?」

「最高裁判事でしょ? しかも横尾和子最高裁判所判事が就任した年齢より早く就かせること」

最高裁判所判事とは、名の通り最高裁判所の裁判官のことである。が、ただの裁判官ではない。日本の司法の頂点であり、わずか十五名しか裁判官として任命されない。二〇一八年現在でも、長い歴史のなか、女性判事はわずか六人しか存在しない。そのなかでも横尾和子最高裁判事は女性史上最年少の六十歳で任命された。礼子は裁判所から望まれている目指すべき場所はそこなのだろうな、と思っていた。

「だからじぶんに興味のない人間は困るのよ。永田町。雨野が船頭になってあんたを連れていきたい場所は永田町よ」

まさか、と礼子は美しい口元を歪め笑う。

「まさかじゃないわよ。あんたが裁判官に任命された年も関係してる。裁判所は長い歴史を覆す裁判員裁判をはじめることになった。忸怩たる思いだったと思うわよ、当時の裁判所は。民間の意見を取り入れざるを得なくなったんだから。本来であれば国にも阿る必要のない、逆に国を監視する立場が裁判所だったんだから。

そこで裁判所はおおきく変化した。いや、変化しなくてはいけなくなった。市民に開いているスタンスをとり、年功序列の出世コースも崩れた。その時雨野は四十歳を過ぎたばかり。舌なめずりしていたと思うわよ、これはいい機運だって。そこから九年とすこし、現内閣は女性の活躍を推進しつづける。裁判所も積極的に女性を起用し優遇しなくてはまずくなってきた。

そこであなたの登場よ。東大法学部の最高成績を塗り替え、引く手あまたの官僚の誘いを断り裁判官の道を選んだ女──雨野が、いや、裁判所が待ち望んでいた完成形が片陵礼子よ。その後もあんたはミスなく順調に裁判官を務めている。その仕事ぶりは裁判所に持ち上げられているものではない、純粋に片陵礼子の能力と誰もが認めている。そこで雨野は考えたのよ。もちろん当初はあんたを史上最年少の若さで最高裁判事にすることが目標だったはずよ。

でもいまは違う。現内閣が長期政権になってるのも後押ししてるわ。なんてったって“国が女性の活躍を推進してる”からね。男どもが腹のなかでどう思っているかは別として、とにかく女性活躍推進の時代と謳わなきゃいけなくなったのは事実だから。これで雨野の目標は変わった。最高裁判事にするより、片陵礼子を表に出そう。つまり政治家にね。その証拠に雨野、最近自民党の連中と密に会食してるわよ。今日も赤坂にいるかもしれない」

「なんのために。わたしを押し上げたところで、雨野所長に特段メリットはないじゃない」

瑠花は灰皿に煙草をもみ消し、半分笑った。

「それはあんた、あいつが男だからよ」

「男だから?」

「そう、男は誰でも、いちどはフィクサーみたいなもんに憧れるのよ。馬鹿だからね。それにあんたみたいな非の打ち所がない女を手中に収めたくなるのよ。コントロールしてるつもりになりたい、っていうのかな。あたしから見ればあんたの旦那もその類よ。気が弱いくせに女の上には立っていたいっていう、悲しい男の性」

瑠花は笑った。

礼子はなるほどな、と思いながらすこし苛立った。

「困るわ」

「困る?」

「わたし、気に入っているのよ。判事って仕事」

あんたらしいね、と瑠花は言った。その理由は述べなかったが、瑠花が言わんとしていることはなんとなくわかった。その理由を言わず、蛭間隆也への協力の理由もさして問い詰めない瑠花の性格が、礼子には助かった。だから唯一、本音に近いところで話せるのかもしれない。

「で、どうなの。貴志くんは」

瑠花が揶揄うように言う。

「うまくいってんの」

「と思うけど」

「子供は」

「できてないわね」

「調べりゃいいじゃない。やることやってんでしょ、いくらあんたでもたまには。だったらあいつに原因があるのかあんたに原因があるのか調べればいいじゃん。もうそういう時代でしょ。不妊治療も進化してるわけだし」

「証拠が出るじゃない」

「証拠?」

瑠花は口を半開きにして礼子の顔を見た。

「わたしの卵子を調べ、貴志の精子を調べる。どちらかに問題があったとする。その結果改善努力を積み重ね、やはり子供を望んだけど授からなかったとする。そうなったあとの生活のほうが、たいへんだと思うわ。心のどこかで、相手へのしこりみたいなものが生まれる可能性があるから。貴志は子供を欲しがっていたから、いちど提案されたわ、調べてみないかって。でもやめたほうがいいんじゃないか、って答えた。いま言った理由を説明してね。ようは証拠が出てしまえば、判決しなければいけなくなるから」

礼子が温度も変えず答えると、瑠花は「あんたが裁判官を気に入っている理由がわかるわ」と呆れていた。

 

会計は礼子がすませた。瑠花といえども一市民である。瑠花に全額を払わせる、または折半すると裁判官と市民の癒着ともなりうるからだ。

「真面目だね、あんたはとことん」

瑠花の言葉を聞きながら、礼子は赤坂見附の駅へと歩いた。夜の街になかなか出ることのない礼子には、赤、黄、青といった街を彩るネオンがすこし眩しかった。午後十一時。赤坂の夜はまだ酔客で賑わう。

「いろんな人がいるわね」

「なに江戸時代からタイムトラベルしてきた人間みたいなこと言ってるのよ。すこしは判事の原則緩くして、人と会いなさいよ。わたしもふくめてさ」

「そのほうが楽なのよ」

「ふうん。あ、今日は旦那平気なの」

「月に一回の出張の日だから」

「出張? 親の弁護士事務所引き継いだぼんぼんが、なんの出張よ」

「さあ」

「女?」

「かもしれないけど」

「平気なわけ?」

「平気というより、結婚したときに彼の母親に言われたから。夫に細かいことはあまり言わないように、でないと男はいい仕事ができないからって。それが女の度量ってもんよって」

「まじで? 今時信じられないわ。あんたもたいへんね。法曹界のマスコットにはされるわ、雨野にマスはかかれるわ、義母に女のありかた指図されるわ」

「かえって楽よ」

礼子は言った。ふたりは外堀通り沿いの赤坂見附駅の地上出口に辿り着く。瑠花はすこし酔ったからタクシーで帰るわ、と礼子の背を叩いた。

「今日は楽しかったわよ。久しぶりにあんたと会えて」

「悪いわね、変な頼み事しちゃって」

「大丈夫よ。連絡するわ」

「助かる」

でも──と言って、瑠花はすこし眉を上げた。

「蛭間隆也って男のこと、あんまり深追いしないほうがいいわよ。なんとなくね」

「どうして?」

「だってあんたが人間に興味持つなんて珍しいじゃない」

瑠花は悪戯っぽく笑うと別れを告げ、タクシーに乗り去っていった。

 

(つづく)

関連書籍

一雫ライオン『二人の嘘』

女性判事・片陵礼子の経歴には微塵の汚点もなかった。最高裁判事への道が拓けてもいた。そんな彼女はある男が気になって仕方ない。かつて彼女が懲役刑に処した元服役囚。近頃、裁判所の前に佇んでいるのだという。違和感を覚えた礼子は調べ始める。それによって二人の人生が宿命のように交錯することになるとも知らずに......。感涙のミステリー。

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一雫ライオン

1973年生まれ。東京都出身。明治大学政治経済学部二部中退。俳優としての活動を経て、演劇ユニット「東京深夜舞台」を結成後、脚本家に。映画「ハヌル―SKY―」でSHORT SHORTS FILM FESTIVAL & ASIA 2013 ミュージックShort部門UULAアワード受賞。映画「TAP 完全なる飼育」「パラレルワールド・ラブストーリー」など多くの作品の脚本を担当。2017年に『ダー・天使』で小説家デビュー。その他の著書に、連続殺人鬼と事件に纏わる人々を描いた『スノーマン』がある。

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