発売以来、話題が話題を呼んでベストセラーとなっている『二人の嘘』(一雫ライオン著)。
女性判事と元服役囚の許されざる恋は、どこにたどり着くのか。
大ヒットを記念して「第二章」と「第三章」も公開する。
※「第一章」までの試し読みはこちらからどうぞ。
その夜、礼子は、鳩が堕ちていく夢を見た──。
* * *
礼子は自宅に帰るや否や浴室へむかった。着ていた服を脱ぎ捨てると、頭からシャワーを浴びた。じぶんのしてしまった行動を、穢れを、一刻でも早く洗い流したかった。湯になり切る前の、冷たい水が礼子の躰を伝う。その冷たさが礼子の躰のなかにある熱気めいたものを必死に鎮火させようとしているように感じた。が、苛立ちも、不安も、蛭間の低い声もすこし浅黒くなった顔も、礼子は忘れることができなかった。
──会わなければよかった。声などかけなければよかった。
礼子は首をたれ目を閉じる。シャワーの水が命を芽吹き、生温く、やがて熱さが宿っていく。礼子を打ちつづける湯が、首を、背中を、胸を、足を、指を、つま先を濡らしていく。瑠花に頼んだのだ。どこに住んでいるのか、出所後にどこに勤めたのか、現在はどこでなにをしているのか調べるよう頼んだのだ。その結果だけを待てばよかった。なのにわたしは答えてしまった。「わたしの裁判を──担当してくださった裁判官の方ではないですか」という問いに、答えてしまった。
「なにをやっているんだ」
礼子は強く両目を閉じた。判決文を書きたい、判決文を書きたい、礼子は生まれたままの裸体をシャワーに打たせながら呪文のように唱えた。
──ありがとうございました──。
あの声が脳内を駆けずり回る。なにがありがとうなのか。自らの罪に判決を下してくれたことに、ありがとうなのか。裁判所、国への感謝なのか。いま、反省し、更生し、明日へとむかっていますという謝意をふくめた言葉なのか。礼子は目を閉じたまま髪をかき上げる。濡れた髪の毛が後方へ撫でつく。どんなに清めても、胸のなかにあるなにかは消えていかなかった。
その夜、礼子は夢を見た。幼いころに通った小学校の夢だった。夢の案内人の幼いじぶんが、六年三組の教室に入っていく。「昨日体育の時間さ──」「まじで。信じられない」「だからあいつむかつくんだよね」女子三人が机を囲み話している。昼休みだ。礼子は教室の後ろに目をやる。誰かが立っている。その背中はじっと立ったまま、微動だにしない。肩の上で切った髪。なんていったか。「あ、夏目さんだ」礼子は夢のなか呟く。クラスでもおとなしく、あまり友人のいない子供だった。礼子は夏目三津子の横に立つ。彼女はランドセルを置く棚の上にある、鳥かごを見つめていた。
夏目はちらと礼子を見た。あまり喋ったことのない子だったので、目を合わせただけで礼子はどきりとした。悪いことをしている気分になった。彼女は友達がいないので、非日常に触れたようで、余計に思った。夏目さんは鳥かごのなかの鳩に、また視線を移した。
──もう、逃がしてあげようよ。
夏目さんは言う。
「え?」礼子は戸惑う。二か月前に翼を負傷し倒れていた鳩をクラスの男子が発見した。担任の先生に頼み込み六年三組で面倒を見ることになった。が、手負いの鳩のことなどみな忘れていった。辛うじて当番制で餌を与えるだけで、生徒の興味はボールや、テレビや、友人の噂話、親の悪口や自慢話に戻っていった。鳩は歪ながら、鳥かごのなかで折れた右の翼をぱたぱたと、広げたり閉じたりするまでに回復していた。
夏目さんは鳩を見つめつづけている。
「まだ、治ってないんじゃない?」
礼子は答えた。が、夏目三津子は言った。
──だいじょうぶ。治ってるよ。
──それに可哀そうじゃない。こんな狭いかごのなかにいて。
夏目さんは鳥かごを開け、両手でそっと鳩を掴んだ。「駄目だよ。先生に確認しなきゃ」礼子は夏目三津子をとがめる。夏目三津子は鳩を持ちながら礼子を見た。とても強い目だった。きっ、としていて、わずか十二歳であるのに大人びていて礼子はどきりとした。
もう、飛べるよ。
夏目三津子は言った。礼子の胸が心拍を高める。躰中に冷たい汗が噴きでる。礼子はちらと、クラスを見回す。クラスに残った生徒たちはみなじぶんたちの話に夢中で、誰もこちらのことなど気にもかけていない。特別な世界に感じた。夏目とじぶんがいる空間だけが、教室という、村のような社会のなかで、特別大人な世界に感じた。礼子の背中が、ぶると震えた。
夏目三津子はベランダへと出る。
礼子が見下ろすと、校庭で遊んでいる生徒たちが見えた。
「……駄目だって」
力なく礼子は説得する。ぱっ、と、夏目三津子は両手を開いた。
「あ!」
鳩はばたばたと、宙を掴むように翼を広げた。一瞬その躰が数センチ上昇した。が、とたん鳩の躰は右斜め上に傾く。なにが起こっているのかわからぬといった風情の鳩の右目が、青い空を見つめていた。鳩は健常な左の翼を必死に動かす。が、あっという間にその身を地面に近づける。どんどんとその姿はちいさくなった。落下した。落下した。鳩は無情にも落下しつづけた。
「だから言ったのに──」
礼子は慌てて夏目三津子の横顔を見る。
夏目三津子はじっと、落ちゆく鳩だけを見つめていた──。
礼子は目覚める。ソファーで眠ってしまっていた。冷蔵庫から冷たい水を出し、一気に飲みこむ。夢の残骸が、広すぎるリビングを鳴らす時計の針音に染みこみ同化する。一向に夢は礼子の躰から離れない。その夢はなにかお告げめいたものに礼子は感じた。
落ちゆく鳩。
落下する鳩。
「もう、やめよう」
礼子は呟いてみる。が、それはとても頼りのない声だった。
翌朝、礼子はまた一時間遅い丸ノ内線に乗りこんだ。
(つづきは書籍『二人の嘘』で楽しみください。)
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