4度の自殺未遂、その後は精神科病院に入院したり、デイケアに通ったり、生活保護を受けたりと、紆余曲折の人生を送ってきた小林エリコさん。
強い希死念慮に苛まれながらも、ここまで生き延びてこられたのはなぜか。出会ってきた人たちとのやりとりを振り返り、「生きること」の意味を考え直したエッセイ『私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに』が11月10日に発売になります。
本書の一部をお届けいたします。
25歳の終わらない夏休み
自殺未遂の後、退院してから私はとても孤独だった。実家で引きこもりをしていて、仕事もなく、会う人も限られていて、寂しくてどうしようもなく自殺未遂をしたこともある。二週間に一度の診察の時、主治医に言われた。
「今度、うちのクリニックでデイケアを始めることになったんだけど、小林さんも参加したらどう? あなたに必要なのは居場所だと思うよ」
デイケアが何をする場所なのか、居場所と言われてもピンとこなかったが、やることもないので参加することにした。スタッフが中を見学させてくれるというので、後をついていく。デイケアルームはクリニックと同じビルにあり、エレベーターで移動する。ドアを開けると、だだっ広いリビングがあり、台所や和室があった。きっと、住居として作られたものを改造したのだろう。スタッフの説明を聞いて次の週から通うことにした。
クリニックで受付を済ませてから、デイケアに向かう。始まったばかりなので、数人しか来ていなかった。することがないので、とりあえずタバコを吸いに喫煙所に向かう。
私より歳のいった男性が一人で黙々とタバコを吸っていた。
「初めまして。お名前はなんていうんですか?」
私はタバコに火をつけながら尋ねる。
「藤井です」
男性は必要最低限のことだけ言って、上体を揺らしながらタバコを吸い続けていた。
話しかけてはいけなかったかな、などと思いを巡らせながら、フィルターに口をつけ煙を吸い込む。こうやって家族以外の誰かと一緒の場にいるのは久しぶりだなと思った。
時計が十時を指すと、スタッフがやってきて、みんな椅子に座る。デイケアの今日の利用者は三人で、スタッフは一名。
「原中です。私はここから少し離れた精神科の病院で看護師をしていました。今日から皆さんと一緒に過ごしたいと思います。趣味はドライブです、よろしくね!」
原中さんは細い目をますます細めて元気よく自己紹介をした。そのあとはメンバーが一人ずつ自己紹介を始めた。
「藤井です。よろしくお願いします」
藤井さんは上体を揺らしながら挨拶をした。
「竹中です。趣味は手芸です。よろしくお願いします」
大柄な中年の女性が答える。
「小林といいます。主治医に勧められて、ここのデイケアに通うことになりました」
少し頭を下げて、私も自己紹介をした。
自己紹介が終わっても何もすることがない。午後からはおやつ作りをするとスタッフから説明があったが、それまで二時間以上もある。
「みんなでトランプでもしましょうか」
原中さんの提案でババ抜きをやることになった。ババ抜きを何回かやった後は、UNOをやった。中学生の時、修学旅行でやったUNOは落ち着きなくゲラゲラ笑ってやっていたけど、デイケアのUNOは静かだった。みんなで仕事のように淡々とカードをテーブルの上に置いていく。
やることがなくなると、竹中さんと少し話をした。彼女は主婦で、ある日、うつ病になってしまい、毎日辛い状態だと語った。日中やることがないので、デイケアに来ることにしたという。私も自分の話をした。短大を卒業した後、編集プロダクションに勤めたこと、自殺未遂をして精神科に入院したこと。彼女はウンウンと頷きながら聞いてくれた。
最初の頃のデイケアは人が少なかったけれど、次第にメンバーが増えてきた。私と同じ二十代くらいの人が参加するようになると、人に飢えていた私は積極的に話しかけた。自分のことを話したくてたまらなかったし、人の話を聞きたかった。
デイケアのプログラムはおやつを作ったり、みんなでカレーを作って食べたりするほか、室内にある卓球台でピンポンをやった。プログラムがない時は、おしゃべりをしたり、カードゲームを永遠にやっていた。何時間も続くカードゲームはそれなりに楽しくて、家でじっとしているよりは随分マシだった。私はようやく主治医が言った「居場所」の意味がわかった。
「正しくない」運動会
デイケアに一年くらい通い続けると、私は随分元気になった。毎日行く場所があり、話す人がいるのは良いことだ。働いている人はそれが当たり前に与えられているけれど、私はそれが何年間も奪われていた。仕事ができればそれが一番いいけれど、薬を毎日たくさん飲んでいる自分にはまだ早い気がした。薬の副作用で体重が十キロ以上増えてしまったし、頭がぼんやりすることが多いからだ。働くのは病気が治ってからだと自分に言い聞かせて、私はデイケアに通い続けた。
「今度、みんなで運動会に参加します」
原中さんがミーティングの時に、元気よく話し出した。
「私が前に勤めていた病院で運動会があるんだけど、そこにうちのデイケアのメンバーで参加します。みんな、頑張ろうね!」
原中さんは笑顔だったけど、私はなんとなくうんざりしていた。私は運動が苦手で運動会に参加しても全てビリだったし、チーム戦になると必ず足を引っ張るのだ。けれど、やることもないので、参加することにした。二十歳を過ぎてから運動会をやることになるなんて、人生はよくわからない。
よく晴れた秋の日、電車を乗り継いで会場になっている病院へ向かう。入院施設があるだけあって、とても広い。そして大きなグラウンドもあった。運動場には入場門が設しつらえられていた。きっと病院のスタッフが作ったのだろう。
「パン食い競走の人、集まってくださいー!」
普段は看護師をしていると思われるスタッフが招集をかけた。集まったのは老人ばかりで、私が一番若かった。みんな入院患者なので覇気がなく、車椅子の人もいた。
列に並び、自分の順番を待つ。小学生の時も、中学生の時もずっとビリで、みんなからバカにされていたけれど、周囲の老人たちの顔を見て、今日なら勝てると確信した。
私は合図とともにダッシュしたが、長期入院患者たちは筋肉が落ちていて、歩いているような状態の人もいる。私は人生で初めて一番前を走った。ジャンプしてパンを咥えて、そのまま一位をキープし続けた。足を前に出し、できる限りの力で走った。
ゴールの白いテープが目の前にどんどん近づいてくると胸がワクワクする。そのままテープを切ると看護師さんに促され、一等の旗の列に並んだ。人生で初めての一等賞は精神科の運動会であった。私はレースでゲットしたあんパンをかじりながら勝利を噛みしめた。
精神科の運動会は普通の運動会と比べて特殊な競走があった。「ちょっと一服」というレースは、スタートして走り出した後、コースの途中にある台に置かれたタバコに火をつけて吸いながら走るという冗談みたいなものだった。こんな変なレース、この先の人生で参加できることはないだろうという理由で参加を決めた。
タバコを咥えながら老人たちと走るレースは面白かった。正しい運動会ではないことが私をますます愉快にさせ、秋の風を気持ちよく感じさせる。私たちデイケアチームは入院患者に比べて平均年齢も若く、通所できるくらいの体力があるため優勢だった。
「赤勝てー!」
大きな声を上げて応援している人がいるので、そちらの方に目をやると、その人は白いハチマキをしていた。いや、応援するのは白組だろう、と一人で勝手に突っ込んでしまう。
でも、なんだかそんな光景が愛おしかった。ちょっとおかしくてもこの場所では誰も責めたりしない。間違っていても格好悪くても大丈夫なのだ。
運動会も終盤になり、玉入れが始まった。足元にある赤い玉を拾い、カゴに向かって投げる。上を見上げるとたくさんの赤い玉と白い玉が青空の下で跳ねている。思い起こせば、こんな風にゆっくりと玉入れをしたことなど一度もない。学校の運動会に参加した時は、徒競走ではビリだったし、その他の種目でも足を引っ張っていたので、玉入れくらいはクラスに貢献しなければと必死で、空が青いということに気がつけないでいた。
私のそばでは車椅子の人の手に看護師が玉を握らせていた。そしてその人が握った玉を看護師が代わりに投げていた。どちらが玉入れに参加しているのか怪しいけれど、きっと、車椅子の人がこの玉入れの場所にいることが大事なのだ。
学校で行われた運動会はただ強さだけを競い合っていたけれど、そちらの方がおかしいのではないか。強さだけを求めて生きる生き方は、どこかで絶対に転げ落ちる。
それよりも、みんなでこの運動会という場を楽しむ方が大事なのではないだろうか。
玉入れが終わると、仮装レースが始まった。いつもは白衣を着ているお医者さんたちが股間に白鳥のついた衣装を着たり、大阪のくいだおれ人形になったりして、病院の運動場を必死に走る。すでに、どちらが医者でどちらが患者なのかわからない。私はそのレースを眺めながら大笑いした。レースが終わった後、仮装したお医者さんと写真を撮った。写真の私は笑顔だった。
運動会が終わって、帰りの電車に乗り込む。久しぶりにたくさん動いて、たくさん笑ったので疲れてしまった。家に帰ってお風呂に入り、ご飯を食べて眠った。いつもは追加の睡眠薬を飲まないと眠れないのに、この日ばかりは飲まないでも寝られた。
社会からの避難生活
デイケアは楽しかったけれど、不安になることも多かった。今こうしている間にも同級生たちは仕事に行ったり、結婚したりして「普通」の生活を送っている。それなのに私は精神疾患を持つ人たちと一緒に何を生み出すでもない毎日を送っているのだ。
朝起きて、ご飯を食べてデイケアへ行き、デイケアが終わったら家に帰って、風呂に入り、ご飯を食べて寝る。ずっとその繰り返しだ。早く働きたいと思いながら、無職の期間が長くなりすぎて、どこから手をつけていいのかわからない。病気は良くなったり悪くなったりを繰り返していて、不安定なままだった。それでも、行くあてのない私はデイケアに通い続けた。
ある晴れた日、恒例のキックベース大会が行われた。遊びだけど、みんな真剣だった。ピッチャーが転がしたボールをみんな真剣に蹴り飛ばす。外野の私は次に蹴られるボールがどこに来るのかを必死に見極めていた。しかし、次の選手は足の悪い立花さんだった。
立花さんは歩く時、いつも足を引きずっていたが、運動のプログラムを休むことはなく、毎回参加していた。ピッチャーは足の悪い立花さんのために、弱いボールをコロコロと転がして、立花さんがそれに向かって数歩踏み出す。足がボールに当たると、てろてろとボールが1メートルくらい転がった。
すると、立花さんが一塁に向かって走り出す、いや歩き出す。ひょこひょことした歩みを続ける立花さんをみんな黙って眺めている。ゆっくりとした動作でピッチャーが捕球すると、一塁にボールが投げられた。アウトになった立花さんは少し恥ずかしそうにして、ベンチに戻る。
そんなプレイが行われても、誰も立花さんを責めたりしなかった。
私たちデイケアのメンバーはそもそも、社会から疎外されていて、その一時的な避難場所としてここに来ているのだ。デイケアのメンバーにも色んな人がいて、差別的な発言をする人もいるし、性格がきつい人もいる。けれど、誰かが誰かを仲間はずれにしたりすることは一度たりともなかった。青い空の下で行われたキックベース大会は本当の意味での平等な場所だった。弱いものを責めることなく、かといってひいきするわけでもない。
はにかみながら退場する立花さんの姿を思うと、あれでよかったのだと思う。
私はデイケアに6年通った。一番健康で、たくさん働ける時期を同じ病気の仲間と過ごした。外の世界で働けない悔しさや、閉じられた空間でしか交流できない寂しさはあったけれど、一人で家の中にいるよりも充実した時間を過ごせたのは確かだ。
働き始めてから、デイケアからは足が遠のき、もう何年も行っていない。デイケアで過ごした期間は、まるで終わりのない夏休みのようだったと懐かしく思う。永遠に続くカードゲーム、卓球大会、運動会。終わりがないことが怖いと思いつつ、みんなと一緒に遊びに興じていた。そして、同じ病気の仲間たちは、私がただ存在することを許してくれていた。何も生産せず、ただ遊んでいたあの時代を無駄だったとは思えない私がいる。
私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに
「孤独だったんですね」
その言葉を耳にして、私は喉の奥に何かが詰まり、次の言葉をつなげなくなった。自分が孤独だということは薄々感じていたけれど、それを認めたくなかったのだ――
いじめに遭っていた子供の頃、ペットのインコが友達だった。初めてできた恋人には、酷い扱いを受けた。たくさんの傷を負い、何度も死のうとしたけれど、死ねなかった。そんな私をここまで生かし続けたものは何だったのか。この世界には、まだ光り輝く何かが眠っているのかもしれない。そう思えた時、一歩ずつ歩き出すことができた。
どん底を味わった著者が、人生で出会った人たちとの交流を見つめなおし、再生していく過程を描いた渾身のエッセイ。
「人生はクソだ。それでも生きてさえいれば、いつか必ず美しいものに巡り合う。そういうふうに、できている」――はるな檸檬氏 絶賛!