かつて、「教養=知識量」だった時代がありました。しかし、ネットで検索すればあらゆる情報が手に入る今、その公式は崩れ去っています。では、現在における真の教養とはなんなのか? それを身につけるにはどうすればよいのか? 二人の東大教授が贈る『東大教授が考えるあたらしい教養』には、その要諦が詰まっています。仕事や人間関係にも必ず役立つ「あたらしい教養」を、ぜひ本書で身につけてください!
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あなたは本当に「考えている」か
「考える」というのは誰もが自然に行っているように思えますが、それが習慣化している人もいれば、考えることを避けがちな人もいます。
教養を身につけるには、ベースとして自分の頭で考えることが欠かせません。「思考習慣があまりないかもしれない」という人は、さまざまな事柄について「なぜだろう」と疑問を持つことを心がけることから始める必要があります。
自分に思考習慣があるかどうかを知るには、自分と異なる考えにぶつかったときのことを想像してみてください。
たとえば上司や同僚と意見が食い違ったとき、どんなふうに思うでしょうか?
「自分のほうが絶対に正しいのに!」と怒りやいらだちを感じ、「気分が悪いからジムで汗を流して帰ろう」などと対処するのは、考えることを放棄する態度だといえるでしょう。
このような場面では、感情でものごとを片づけず、「なぜ上司は自分と意見が違っているのか?」ということを深く掘り下げ、考えてみる必要があります。
こうした習慣は、日常のさまざまな場面で「意識的に考える」ことで身につけることができます。
たとえば「今日会った人はとても感じがよかったけれど、なぜ自分は感じがよいと思ったのか」「今日のランチでは、なぜこの定食を選んだのか」といったように、自分の行動や心の動きなどについて「なぜだろう」と考えてみるだけでもいいのです。その積み重ねが、新たな情報に接したときに、どう頭を使うかの訓練になります。
土台となる「専門分野」を持とう
一般にいわれる「教養」のイメージは、絵画のことも音楽のこともわかるといったような「幅広い知識」でしょう。
しかし教養のベースとなるのは、何らかの専門領域についてある程度深く学んで得た知識をもとに、その領域で物事を深く考える経験にあると思われます。
たとえば大学で経済学を学べば、基本的な経済に関する知識が得られるだけでなく、経済学で使われるさまざまなモデルを使って思考する方法を身につけることができます。
このように何か一つの領域を学ぶことが、その知識や思考法をベースとして他の領域が「経済学的な考え方とどう違うか」を考えることにつながります。
その意味では「教養人はまず専門人でなくてはならない」といえるでしょう。
とはいえ、教養を身につけるという観点では、大学院で研究者を目指すような高度な学びが求められるわけではありません。
大切なのは、自分の中に議論や思考の「軸」を持つことです。これは大学で学んだことでも、社会人として身につけた職務上の専門性でも構いません。自分はこんなふうに考える、こんなふうに議論を整理してきたという、自分なりの思考の「軸」を確認することこそが、みなさんの教養の土台なのです。
「そんなことをいわれても、自分にはそんな『軸』と呼べるほどのしっかりとした考え方はない」と思う人も少なくないかもしれません。
しかし、実はそう感じる人のほとんどが、学校での学びや社会人としての経験等を通じ、かなりしっかりとした教養の土台を身につけています。ただ、それを「軸」として自覚的に整理できていないだけです。
ですから、みなさんにとって最も重要なことは、この持っているはずの「軸」をしっかり整理できるようにすることです。それは言い替えると、教養の土台を耕すことです。
そして土台を耕すうえで有効なのは、先に触れたように「異なる考えや意見を持つ人と建設的に議論し、思考を発展させていくという行動原理を持つこと」なのです。
異なる考えを持つ人と議論をすることによって、自分の考えや軸が再確認できると同時に、思考を発展させていくことができるからです。
東大教授が考えるあたらしい教養
かつて、「教養=知識量」だった時代がありました。しかし、ネットで検索すればあらゆる情報が手に入る今、その公式は崩れ去っています。では、現在における真の教養とはなんなのか? それを身につけるにはどうすればよいのか? 二人の東大教授が贈る『東大教授が考えるあたらしい教養』には、その要諦が詰まっています。仕事や人間関係にも必ず役立つ「あたらしい教養」を、ぜひ本書で身につけてください!