「日本語は難しい」とよく言われるが、実際はどうなのだろうか?
ことばの専門家集団が英知を結集して、国民の素朴な疑問に答えた『日本語の大疑問 眠れなくなるほど面白い ことばの世界』(国立国語研究所編)は、7万部を超えるベストセラーになりました。
本書から一部を抜粋してご紹介。2022年11月8日(火)19時からは、執筆者のお一人である柏野和佳子さん(国立国語研究所准教授)のトークイベントがあります。
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疑問:日本語は難しい言語ですか
回答=バックハウス ペート
日本語の「音声」「文法」は簡単
‟日本語は難しい”とよく言われますが、はたして本当にそうでしょうか。質問そのものも難しいのですが、問題を整理するためにはまず、井上(*1)が提唱するように、相対的な難しさと絶対的な難しさに区別しましょう。
相対的な難しさは、学習者の母語に左右されるものであり、例えば日本語に似ている韓国語やトルコ語が母語である人にとっては、日本語もわりと学びやすい言語になっているはずです。一方、母語が日本語と根本的に違う構造を持つ言語(例えばアラビア語や英語)の場合、日本語を身に付けるにはかなり苦労するでしょう。
後者の、絶対的な難しさは、学習者の母語とは関係なく、より客観的に評価するものです。しかし、一つの基準で測定するのではなく、「音声」「文法」「語彙」「表記」と、少なくとも4つのレベルを個別に見なければ把握できません。
まず「音声」について言うと、日本語はむしろ簡単な言語です。他の言語と比べて、子音と母音の数、また特にその組み合わせは、かなり限られています。逆の観点から言えば、日本人が外国語を学ぶ時、特に発音に苦労することが少なくないようですが、それは母語の‟簡単すぎる”音韻体系が原因の一つです。
「文法」についても、日本語はさほど難しい言語とは言えません。それは単純に、文と語の組み立てにどれだけ必要最低限のルールがあるかを数えることで確認できます。
例えば、「象は鼻が長い」という文をドイツ語の「Elefanten haben einen langen Rüssel」と比べると、ドイツ語では名詞と形容詞の数・性・格、定・否定冠詞の有無、動詞の活用など数多くのルールを常に意識しなければ、(正しい)文は作れません。
日本語ももちろん、助詞の選択、動詞・形容詞の活用などのルールはありますが、全体の数はドイツ語よりも確実に少なく、さらに複雑な文法を持つロシア語やフィンランド語などの言語とは、比べ物にならないくらいです。
「語彙」「表記」は複雑で難しい
「語彙」となると、少し話が変わります。日本語には「速さ」「速度」「スピード」のように、和語・漢語・外来語という3つの語彙層が共存し、その扱う範囲もかなり広くなっています。
西洋の諸言語も、例えば英語のように「freedom」(ゲルマン系)、「liberty」(ラテン系)、「autonomy」(ギリシャ系)という3つの語彙層はあるのですが、日本語の語彙をめぐる複雑さはそれに決して負けないものです。それに加えて、日本語特有のオノマトペ表現が数多くあり、語彙を非常に豊かなものにしています。
しかし、日本語において最も難しいのは、間違いなく「表記」です。世界でも珍しいことに、日本語にはひらがな、カタカナ、漢字、それに現在はローマ字も加えて、4つの表記が使われています。母語話者と非母語話者とを問わず、日本語の表記を身に付けるのは誰にとっても長い時間を要することです。書く・読むためには、漢字を入れて何千字も知らなければなりません。
その上、4種類の表記を常に適切に選択する必要があります。「マチガエタラtottemoへんナぶん二成りmasu」し、また「コーヒー」「Coffee」「珈琲」「こーひー」のように、表記によって微妙に違うニュアンスが伝わってきます。その全体を見て、日本語の表記は世界でも有数の難しい表記の一つと言っても過言ではないでしょう。
難しい言語と易しい言語、どちらが‟頭の良い”言語なのか
さて冒頭の問いに戻りますが、日本語は難しい言語かというと、上記を踏まえてそう簡単に yes/no で答えられる質問ではないことがわかると思います。相対的な難しさは、母語によるものであり、客観的に確定するのは不可能です。一方、絶対的な難しさには、「音声」「文法」「語彙」「表記」のレベル別に大きなギャップがあり、それを合算して他の言語と比べる方法は現時点では存在していません(*2)。
ちなみに、もし言語の難しさを客観的に測る方法があったとしたら、自分の母語の評価は、難しいと易しい、どちらに偏ってほしいと感じるでしょうか。確かに、「難しさのプレスティージュ」(*3)があり、大変難しいと評価される言語を母語として使いこなせる人は、それだけ‟頭が良い”ようにも思えます。しかしながら、逆に大した苦労もせず言いたいことをきちんと言える言語の方が、優れているとも言えそうです。
個人的な意見ですが、例えば文法の面で言うと、ドイツ語を母語としている筆者は、そもそもなぜドイツ語には名詞と形容詞の性や格、動詞の人称などが必要なのかと、日本語を学んで初めて疑問に思うようになりました。日本語は「象は鼻が長い」のように、シンプル、エレガント、無駄のないパターンで文が作れるからこそ、‟頭の良い”言語と言えるのではないでしょうか。
*1─井上史雄(2000)『日本語の値段』p.110、大修館書店
*2─Deutscher, Guy(2010) Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages. Ch.5, Metropolitan Books.
*3─Maher, John C. (2021) Metroethnicity, Naming and Mocknolect: New Horizons in Japanese Sociolinguistics. p.166, John Benjamins.
バックハウス ペート(Peter BACKHAUS)……早稲田大学 教育・総合科学学術院 英語英文学科 教授。ドイツ・アーヘン市生まれ。専門は社会言語学。現在はおもに文学作品における固有名詞について研究している。Japan Timesのコラム"Bilingual"にも定期的に執筆。
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*2022年11月8日(火)19時から、本書執筆陣のお一人・柏野和佳子さん(国立国語研究所准教授)のトークイベント「日本語はこんなに面白い!」が開催されます。詳細・お申し込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。
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