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往復書簡 限界から始まる

2022.02.22 公開 ポスト

上野千鶴子×宮台真司×鈴木涼美 「時代の証言者たち」が集った大反響のトークイベントを電子書籍化上野千鶴子/鈴木涼美

社会学者の宮台真司さんをゲストにお迎えし、昨年8月に開催された上野千鶴子さん、鈴木涼美さんによる『往復書簡 限界から始まる』の刊行記念イベントが、電子書籍『「制服少女たちのその後」を語る』として発売されました。

テキストは、『小説幻冬12月号』に掲載されたものです。冒頭を抜粋してお届けします。

「宮台さんは、責任を感じてらっしゃるんですか?」(上野)

――『往復書簡 限界から始まる』の中では、涼美さんが女子高生時代のブルセラ体験で、目の前で自慰行為をする男性の、滑稽で情けない姿を浴びるほど見たことによって、男性への絶望に繋がり、今なお逃れられていないといったことを書かれています。上野さんはそれに対して、性が対価を伴うものであること、そして欲望の市場が男性の一方的な性欲によって成り立っているということを10代のうちに知ったのは不幸なことだったのかもしれませんと返信されました。

そこで当時、『制服少女たちの選択』(1994年)を発表し、女子中高生が援助交際をしたり、ブルセラショップで制服や下着を売ったりする現象を社会システムの問題として分析した宮台真司さんをお迎えして、あの時代とはなんだったのか、そして2021年の現在にどういうふうに接続してるのかをお話しいただきたいと思います。宮台さん、今日のご登壇をお受けいただけるのかどうか、お願いする時、不安だったんですけれども……。

宮台 受けるに決まってるじゃないですか。制服少女問題は僕にも責任があるので。責任を果たし続けなければいけないとずっと思っているので。引き受ける以外の選択はないんです。

上野 宮台さんとは20年ぶりぐらいですけれども、責任を感じていらっしゃるんですか。今日初めて聞きました。私は、宮台さんの本が出た時に、「制服少女たち」と呼ばれる人の中から、将来必ず表現者が現れるに違いないと確信していました。そしたらなんと目の前に現れたんです、涼美さんという人がね。驚嘆しました。

鈴木 私は最初の援交世代の下にあたる世代で、朝日新聞などで繰り広げられたブルセラ論争を読んでから、ブルセラ市場に入っていった世代。援交第2世代とか第3世代と呼ばれてるののちょうど間くらいなんです。私としては複雑で、宮台本で「あ、なるほど終わりなき日常を生き抜くには、パンツを売ればいいんだ」みたいな感じで売りに行って、高校卒業して大学入ったら、『制服少女たちの選択――After10 Years』という本を宮台先生が出されて、正解と見えたブルセラ少女たちがメンヘラになっているぞみたいな話をされたのを読んで梯子を外された気分になった世代で(笑)、なかなかおもしろい経験だったなと思っていますね。

射精産業から勃起産業へ、男がフェチ化した理由

――90年代のブルセラ援助交際ブームは、92年に女子中高生の制服や体操着、水着、ルーズソックスを中古衣料として買い取って販売したのが始まりで、だんだん男性客のニーズに応じて商品を揃えているうちに過激化して、使用済みの下着や唾液など排泄物まで商品になっていきました。そこから女子高生がテレクラやダイヤルQ2、iモードなどを使って個人で取引することを覚えて、援助交際が生まれていった。ただ、ブームが過熱していくにつれて、99年に児童福祉法が改正されて児童ポルノ法が施行されます。それで摘発が非常に厳しくなり、ブルセラショップは消滅。援助交際はカジュアルな売春として、今のパパ活みたいなものにも繋がっています。

宮台 涼美さんが紹介してくれた第1世代は92年から96年夏までブルセラ援助交際をしていた子たちです。この世代は、学校で人気がある子たちが圧倒的にやってたんですね。だからこそ急速に広がった。そんな子たちだから大半はカネ目的じゃなかった。ところが、第2世代は96年秋から2000年頃までやってた子たちで、全くゾーンが変わったんですね。分かりやすく言うと自傷系に変わった。そして2001年ぐらいからが第3世代で、当時の携帯電話の料金システムが定額制じゃなく従量制で、女子高生でアクティブな子たちは月に4、5万円の請求が来るので、それを払うためにパートタイムでやる子たちが出てきた。それでカネ目的がメインになると同時に、裾野が広がった。その状態の延長上で、同じカネ目的でも「貧困だから」っていうふうに変わってくるのがテン年代以降の展開です。そこに業者が入ってパパ活の原初形態が生み出されました。

鈴木 私の少し上の世代までは業者がパンツを買い取ってくれたんだけど、私の世代になると、もう生脱ぎブルセラしかなくなって。生脱ぎだからお客さんが来るまでマジックミラーのこっち側で女子高生たちが待ってるから、そこで学校とはまた違う楽しい部活みたいな、横の繋がりができやすくて、パラパラの練習したりして、ギャルとして楽しい放課後を過ごしていたんですけど。マジックミラーに守られて、援交と違って指一本触れられずに性を売れるっていう、もう最強の、なんの傷つきもない状態で終えられたんです。

で、2002年に大学入って、その年に私が行ってたブルセラ業者が摘発されてしまい、タイミング的に私はすごい逃げ切った感、ラッキーな世代だという実感がありました。パンツかぶってオナニーしてたおじさんを見て、当時はマジでおもしろいとしか思ってなかったけど、でもこの年になって振り返ると、やっぱりそれが自分の男性観みたいなものにはそれなりに影響してるんじゃないかなっていうのは、上野さんとの『往復書簡』の中で思ったところではあるんですね。男へのプチ絶望を重ねたのは、あの経験が原体験としてあるかなっていう感じはしてます。ただでもやっぱりあそこの空間、めちゃくちゃおもしろかったから、やらないほうがよかったとは言えないんですよね(笑)。

宮台 援交第1世代は、主に団塊の世代を相手にしました。この人たちにはフェチ的な変態が少なかった。ところが第2世代が相手にした男たちには僕らの世代が含まれるようになって、この世代からフェチ的な変態が増えます。フィルムケースに唾液入れてくれとか、顔の上に跨ってションベンしてくれとか。フェチ化した男は、フェチの定義からして女を物格化しますが、女子高生に対して下手(したて)でした。涼美さんが目撃したパンツかぶってるような、僕から見てもよく分からない男たちです(笑)。

鈴木 なんで宮台真司世代の男の人たちは、女から見るとマジでよく分かんないところで勃起する人が増えたんですか。女子高生の価値をバカ高くしたのも、その世代。

宮台 風俗産業の性質がユーザーの世代交代で変わったところにヒントがあります。90年代半ばまでは「射精産業」って言ってたのが、僕らの世代がユーザーになってから「勃起産業」になりました。すでに勃起していて射精したいやつが来る時には、フェチも何もない。ところが、僕たち世代の多くは、店に入って来る時はしなだれていて、こいつらを刺激するためにフェチ記号を利用するようになったのが、イメクラです。じゃあ男がなぜ変化したのか。それが重要です。

上野 私が不思議でしょうがないのは、ブルセラ少女の客には、ブルセラ男がいるのよね。なんで男が誰もブルセラ男の研究をやってくれないのか。女の子がワリのいいバイトに惹かれるのは当たり前、その女の子のパンツを高額のお金を出して買う男たちの方が不気味。そちらのほうが研究に値すると思うけど。

宮台 僕はやってきています。僕は東日本大震災後から性愛に関する本を5冊出して、僕の言葉だと、なぜ男たちがダイブ系からフェチ系に変わったのか、なぜフュージョン系からコントロール系にシフトしたのかの、70年代からの歴史を説き起こしています。この変化を一言で言うと、身体性がなくなったことです。身体性から記号性に変わった。フェチ記号には反応しても、女の子の表情とか体温とかバイブレーションとか構えとかには反応しなくなった。

――身体性がなくなった背景はどういうことなんですか。

宮台 僕は京都市の小学校時代、70年前後ですが、日が暮れても男の子女の子が群れになって遊ぶことが普通でした。でも僕の世代には僕のような体験をしている人がいる一方、郊外のゾーニングされたニュータウンで育って、僕のような体験がないという人も出てきた。外遊びをしない。ヨソんちでごはんを食べたり風呂に入ったことがない。花火を横打ちしない。ブランコの柵越えジャンプをしない。僕らの世代の半分ぐらいはそういうやつです。

さらに、センシティブな問題で統計調査ができないけど、フェチ男を取材してきて分かるのは、母親にコントロールされてきた怨念を持つケースが多いこと。昔は母親がコントロールしようとしたって子どもは家の中に閉ざされていなかったので不可能でしたが、僕の世代から、母親のコントロールを直に受けてきて怨念を持つやつが、女を物格化してコントロールし返すことで復讐するようになりました。団塊の世代には見たことがありません。

鈴木 結局、そういう男たちが多いから、日本で出会う場のサービスをやると、全部売春の温床になっちゃうっていう悲しみはあるじゃないですか。テレクラも、インターネットの出会い系とかも売春のマッチングの機能だけになっていって。

宮台 初期出会い系のテレクラや伝言ダイヤルでカネが絡むようになったのは90年からです。それまではカネ目的じゃなく、いろんな理由でアバンチュールしたい男女がやっていた。その頃フェチ男はいませんでした。ところがユーザー男の言い方だと「女が劣化して」カネを要求するようになった。でも取材から言えるのは、女の劣化は男の劣化の結果でもあって、女と待ち合わせて車で移動して仲間に付いてこさせて集団レイプみたいなことも続発していました。

鈴木 今、Tinder(出会い系アプリ)とかやってる若い子を見ると、意外と本当にゼロ円。セックスのためだけに会ってるみたいな人たちがいて。お、なんか売春大国から少し脱却しつつあるのかなとかって思う日々なんですが。

宮台 Twitterでも裏垢や病み垢の界隈ではそうなっています。でも僕の言葉だと「二人オナニー」に過ぎず、80年代後半の初期出会い系のような微熱感がない。相互の物格化や入れ替え可能化がめちゃめちゃ著しいです。

援交少女たちは性と愛が乖離し、メンヘラになった

宮台 上野さんがおっしゃったことに従って、僕の言うことがなぜ変わったのか話します。河合隼雄さんが昔言った「援交は魂に悪い」というのを、僕は当初、鼻で笑ってましたけど、でも、ある時期から鼻で笑えなくなった。どうしてなのかということを語ってみたい。

鈴木 はい。

宮台 性の自己決定という僕の考え方は今も正しい。国連人権理事会の基本テーゼが性の自己決定だし、子どもの権利委員会も性の自己決定です。多くの先進国で売買春が合法的である理由も性の自己決定。ただ立場の優劣に基づく附従契約を避けるために、性交可能年齢の3~5歳上に売春可能年齢を設定します。問題は、自己決定の内容が妥当なのかどうか。これは法の問題ではない。人格システムに即した妥当性と社会システムに即した妥当性があるけど、ここでは前者を問題にします。

僕が考え方を変えた転機は、90年代半ばに僕のゼミにいたイタリア人の留学生ローザです。母国では売買春合法ですが、彼女が言うには「宮台が頑張ってる売春の合法化は当然過ぎてどうでもいいが、援交女子の性の使い方が間違ってることを指摘すべきだ。彼女らが性愛を分かってないのは、恋愛の経験が不足してるからだ」。僕は、その意味が当時はあまり分かってなかった。その後『After10 Years』で書いたように、援交第1世代のリーダー的なトンガリキッズが次々メンヘラになっていく理由を探っているうちに、ローザの言ってた意味が分かってきた。

彼女たちは性愛に対する願望水準がもともと高かった。性と愛に分けるとすると、愛に飢えてた。でも、それゆえに性の使い方を間違った。間違ったから愛がどんどん遠ざかる。それで現実にどこまで期待できるかという期待水準が下がり、高い願望水準から乖離して、処理できなくなった。それが「その後の分析」です。今そういうタイプがいないのは、期待水準の低下を適応的に学習して、願望水準を下げてギャップがなくなったからです。所詮そんなもんでしょうと。でも、これだと、相互の物格化を人格化の方向に巻き返せない。

そこで僕は東日本大震災後から2年ほど性愛ワークショップをしました。性と愛でいうと性が主軸。そのほうが合理的だからです。なぜなら、上野さんも『往復書簡』に書いてらっしゃったけど、性愛遍歴を続けていくと、結局、本当の享楽は、〈祭りのセックス〉だけではマンネリ化でダメで、〈愛のセックス〉が重なったときに初めて爆発することが経験的に分かってくるから。〈ただのセックス〉はむろんのこと、〈祭りのセックス〉だけでも享楽を継続できない。愛を無視していると性の享楽にも至れない。ところがワークショップの入口を愛に置くと、性の必然性を納得させられない。だからワークショップの入口は性なんですね。

上野 あなたも成熟なさったのか、年を取られたのか、どちらかわかりませんが、性と愛は別のものだということは、単なる事実だから仕方のないことで、そのふたつの関係が性から始まるというのは、私は100%賛成です。なぜならば、言葉や感情は自分を裏切っても、身体は裏切らないからです。快楽って動物としての人間に対して性交渉に与えられた一種の報奨ですよね。その中で、セックスの経験を積み重ねてきた男たちが、性愛一致というものすごくシンプルな結論に行きついたというのは、いろんな人の経験談を見ても、その通りの真理。あなたの性愛哲学に私は100%賛同します。

それでも性の市場の実態は、対価を伴う非対称なセックスサービスが主流で、自由な性愛じゃない。射精産業から勃起産業、あるいはフェチに変わったっていうのは、顧客のマーケットの変貌であって、性のマーケットが非対称に存在しているということ自体の説明はあなたは少しもしてないのよ。彼らの萌えポイントやどこでムラムラするかっていうところは時代や社会によって確実に変わる、男の身体性のあり方も確実に変わると思うが、その根底にものすごくジェンダー非対称なマーケットがあるんですよ。

宮台さんは、オリンピックの小山田(圭吾)問題に触れておられましたね。人権無視のような差別的行為を逆マウンティングして競い合うような鬼畜系の文化があったと。それは80年代からの流れで90年代のサブカルを見ていると腑に落ちることがいっぱいある。コミックで鬼畜系が出てきて、AVで緊縛ものが出てきてっていう時代だったから。それはマーケットの顧客の変貌を意味するが、マーケットがそこに存続しているってことの説明にはならない。

それだけでなく、鬼畜系の男たちのサブカルに呼応した同世代の女たちはどうだったか。あの世代にちょうど対応するのが雨宮処凛さんの世代でしょうか。雨宮さんが「私も鬼畜系だった」って言ってました。あの当時、人と違うっていうアイデンティティを持った子たちは、規範からの逸脱に行ったわけですよね。その逸脱は女性の場合はわかりやすい性的逸脱で、男性の場合は鬼畜系に行ったフェチの男たち。その彼らに対応して、いわば共犯する女たちは、「この程度のことで私は傷つかない」って言ったんだと思うの。そういうふうに言った女の子たちがサブカルの中では一定の層を占めた。

その後、その彼女たちも40歳、50歳になるわけですよ。その人たちが今、「あの時、実は私たちは傷ついてた」って言い出したんです。若い子たちはもう最初から「私たちは傷ついてる」って言い出した。その辺の変化を、涼美さんはどう見てるのかしら。

鈴木 私は雨宮さんより年がちょっと下だと思いますけど、鬼畜系……、まあ、その人たちを相手にしてた世代だし、傷つかないと言ってた世代だというのは、私も『往復書簡』に書いた通りで、自分らにとっては、こんなことで傷つかない私、そしてあの男たちがものすごく欲しがる物を粗末に扱える私、みたいなところに重要な自尊心を置いてたし、プラス傷つかないっていうことは、男たちを見下すっていうか、あなたたちのがんばってやっている鬼畜系のことでも、私たちを傷つけることはできないっていうことがとても重要でした。

傷ついていることひとつが、男の勃起材料になっちゃうことをフェチ系の男の人たちを見ているとわかるわけですよ。AVだって、もっと泣け泣け、みんな涙でヌクんだからとかって言われるわけですよ、監督に。AVだったら100万とか貰えるからいいですけど、そのへんで痴漢されて涙流して勃起されたらすごい腹立つじゃないですか。だから、なんか笑い返すみたいなことを対応策としてやっていたと思う。

上野涼美さん、結果として共犯者になったんじゃない。なぜかというと、笑い返すことで男たちは免責されたから

鈴木 本当にそう思います。私のしてたことは自分たちが傷などなかったことにして楽しく過ごすにはすごくいい処世術だったけど、男の人に反省を促す機能はゼロだから。

「金で女を自由にしたい」、鬼畜系男の背景にある感情の劣化

宮台 上野さんの考えは理解できるし、上野さんの世代的使命として今のことをおっしゃり続けることは重要です。でも、制度の変革や権力関係の変革に希望を見出す上野さんの世代と、もはやそんな問題ではなく、むしろ人の感情的劣化の問題だろうと理解する涼美さんの世代という対立が明白にあります

思想も同じです。制度変革や権力変更への期待は民主政への信頼に基づくけど、民主政を支える人々の感情が劣化すれば、制度改革が逆方向の大きなバックラッシュを伴い、制度の改悪すら進む。2016年のブレグジットやトランプ大統領誕生以降、人々が思い知りました。学史的には20世紀前半までのドイツ主流の社会学は民主政の可能性を疑ってたけど、アメリカに主流が移った戦後、ピケティ的な稀有な条件(製造業の隆盛)で中間層が膨らみソーシャルキャピタルが揃ったおかげで、民主政の盤石さを前提とした公正と正義の社会学へのシフトが進む。ところが、極右政党進出で民主政を支える感情的前提への疑いが広がる90年代前半から、人文知の話題は社会学から政治学と人類学にシフトします。

民主政の感情的前提への疑いは18世紀半ば過ぎのルソーが出発点ですが、問題は感情の手当て。ウヨ豚や鬼畜系について言えば怨念をどうするか。80年代も90年代も越境の時代だけど、80年代が性愛系越境で、90年代が鬼畜系越境。そうなった理由が怨念です。高校生の性体験率に見るように性愛系越境の80年代は女の時代=フュージョンの時代=微熱の時代。そこに生じた男の怨念がカネで女を自由にすることへの関心を生み、鬼畜系越境というコントロール──マウンティング──の時代を準備した。母親への復讐としてのフェチに似ます。

連中を制度変革で厳罰化しても問題は解決しない。まず、大半の売買春がネトゲとSNSを背景とした相対取引で、取り締まれない。次に、問題が感情の劣化なので、女たちは売買春で傷つく以前に男相手の性愛で傷ついている。ちなみにネット化で女相手の風俗が広がる背景もそれです。それも象徴的だけど、男の感情的劣化がなければ、売買春に権力的非対称性があっても、女は最近のパパ活みたいに傷ついたりしない。その意味で涼美さんが共犯者でも一向に構いません。

鈴木 私の時代はかなり女の子も虚勢張ってたというか、勃起もされたくないし、プライド持ってたいしで、「傷つかない」ということは非常に重要だったけれども、今、私よりさらに若い世代、SNSネイティブの世代がTwitter上で繰り広げているフェミニズムの運動とか見ると、「傷ついています」と大声で言える人たちが増えている。私の世代とは明らかに男に対峙する態度が変わっているというのは、なんでなんですか。

宮台90年代的な鬼畜系マウンティングの時代には、「傷ついてる」って言ったら負けでした。だからこの時代の女の子は「傷ついてる」なんて絶対言わない。マウンティングされちゃうから。そういう競争はゼロ年代には終わりました

もう一つ、2010年代の初期パパ活は、業者が介在する愛人クラブ形式。本業で食えないミュージシャンや芸能人の卵や大学院生がやってたけど、単発ではなく中長期で、男の身分や収入のチェックが厳格で、女たちがセキュリティ的に守られていた。やがて、4割トップオフ(天引き)されるとか、市場価値が高くない女が入れないとか、収入が低い男が入れないなどで、2010年代半ばから相対取引が進むと、女たちの被害を耳にするようになる。女からすればカネ払いがあるから恋人ごっこをするのに、「お前は俺を好きなんだ」という前提で無体な要求をし、応じないと激昂する勘違い男が量産されてきた。それがこの6~7年です。

初期の業者系パパ活は、テレクラを含めた80年代的微熱の記憶を持つ現在60歳前後がユーザーだったけど、この数年パパ活ユーザーは、90年代の援交時代にカネで女を自由にしたフェチ男がメインユーザーになったせいで、女にとってのパパ活体験が初期とはだいぶ違ったものになった。多くの女たちは自分で売ってるのに「売らされた」という被害体験を語るのはそれが理由です。

上野 30代ぐらいにフェチ系やってた男がパパ活のユーザーやってるというと、今だいたい50代ぐらいの年齢層ってこと? 90年代に男性の買春調査っていうのがあったけど、当時「金銭を払ってセックスをしたことがあるか」という質問にいちばんイエスの割合が高かったのが、赤線経験のある年長者よりも30代だった。その彼らが20年経てばいま50代。

宮台 その通りです。

鈴木 ちなみに私の世代の男がすでにパパ活の買う側にいますけどね。

宮台 女たちから聞くと下の世代になるほどやばい。上野さんが言う市場における非対称性、地位優劣を背景とした附従契約は、売春合法化国でも常に問題で、だから売春の国営化が企図されるんだけど、女たちが現場で被る体験のひどさは、その種の非対称性には還元できない。涼美さんが性は得意でも愛が不得意ですっていうのは分かる。男の劣化で愛の享楽を体験しにくかったんじゃないか。

鈴木 そうですか(笑)。

宮台 今40代よりも下の女にはそういう子がすごく多い。性を享楽できるのは、相手が性的熟達者である場合で、結構探しやすいけど、バタイユ的な意味で委ねやあけ渡しを旨とする愛の享楽を体験できる相手は見つけるほうが今は難しい。出会った男をぼんやりと相手にする場合、男に性の能力も愛の能力もなく、女たちの言い方ではセックスは“作業”になる。今の大学生女子は性的に本当にノンアクティブな子が多く、20年前に比べると大学生女子の性体験率って半分になったけど、割合が半分になったアクティブな女たちも、多くがセックスは作業だと言う。そんな男たちを相手に売春したら傷つくに決まってるでしょ。

(構成:安楽由紀子)

*   *   *

話題はまだ序盤。続きは、『「制服少女たちのその後』を語る』をご覧ください。

関連書籍

上野千鶴子/鈴木涼美/伊藤比呂美『限界から始まる、人生の紆余曲折について』

「死ぬ男を看取るって、本当に面白かった。ねえ、上野さん?」(伊藤) 「私も看取ったけど、面白かったとは言えないわね」(上野) 「結婚をめぐる葛藤はほとんどありませんでした」(鈴木) 単行本『往復書簡 限界から始まる』の文庫化を記念した、著者の上野千鶴子さん、鈴木涼美さん、文庫版の解説を担当した伊藤比呂美さんによる鼎談イベント「限界から始まる、人生の紆余曲折について」。因縁の深い3人が鋭く突っ込み、笑い、称えあいながら、それぞれの「想定外の人生」を語り合いました。上野千鶴子の「結婚」に安堵した人たち、鈴木涼美が「産む女」になった理由、伊藤比呂美の「看取り」の快感――。愛と勇気と希望に満ちた2時間のトークを電子書籍化。

上野千鶴子/鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』

「上野さんはなぜ、男に絶望せずにいられるのですか?」「しょせん男なんてと言う気はありません」。女の新しい道を作った稀代のフェミニストと、その道で女の自由を満喫した気鋭の作家。「女の身体は資本か、負債か」「娘を幸せにするのは知的な母か、愚かな母か」――。自らの迷いを赤裸々に明かしながら人生に新たな視点と光をもたらす書簡集。

上野千鶴子/宮台真司/鈴木涼美『「制服少女たちのその後」を語る』

2021年8月26日に宮台真司さんをゲストにお迎えして開催した、『往復書簡 限界から始まる』(上野千鶴子さん×鈴木涼美さん著)刊行記念トークイベントを電子書籍化。宮台さんが援交少女たちへの責任を感じるに至った変容、女子高生という記号に欲情し、いまなお自己愛にとらわれたままの男性への上野さんの厳しい指摘、制服少女だったときの気持ちを否定しない鈴木さん。性を正しく使い、愛へと向かうことはいかに可能か――?  時代の証言者たちが集った緊張感みなぎる2時間をテキスト化してお届けいたします。

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往復書簡 限界から始まる

7月7日発売『往復書簡 限界から始まる』について

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上野千鶴子

社会学者・立命館大学特別招聘教授・東京大学名誉教授・認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。1948年富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了、平安女学院短期大学助教授、シカゴ大学人類学部客員研究員、京都精華大学助教授、国際日本文化研究センター客員助教授、ボン大学客員教授、コロンビア大学客員教授、メキシコ大学院大学客員教授等を経る。1993年東京大学文学部助教授(社会学)、1995年から2011年3月まで、東京大学大学院人文社会系研究科教授。2011年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。専門は女性学、ジェンダー研究。『上野千鶴子が文学を社会学する』、『差異の政治学』、『おひとりさまの老後』、『女ぎらい』、『不惑のフェミニズム』、『ケアの社会学』、『女たちのサバイバル作戦』、『上野千鶴子の選憲論』、『発情装置 新版』、『上野千鶴子のサバイバル語録』など著書多数。

鈴木涼美

1983年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒。東京大学大学院修士課程修了。小説『ギフテッド』が第167回芥川賞候補、『グレイスレス』が第168回芥川賞候補。著書に『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『愛と子宮に花束を 夜のオネエサンの母娘論』『おじさんメモリアル』『ニッポンのおじさん』『往復書簡 限界から始まる』(共著)『娼婦の本棚』『8cmヒールのニュースショー』『「AV女優」の社会学 増補新版』『浮き身』などがある。

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