12月1日に二十歳になられた愛子さま。今後、皇位継承問題はどう議論され、進められていくのでしょうか。「皇室典範の見直し」と「女帝・女系の公認」の立場から書かれた新書『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか ~女性皇太子の誕生』(田中卓著、2013年刊、幻冬舎新書)より、一部を抜粋してお届けします。
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かつては皇族を永続するため計九人もの側室をもつ制度があった
もっとも、昔から多くの国々では、家系の基盤と永続を重んずる立場から、一夫多妻の風習があり、わが国の皇室をはじめ、豪族においても例外ではない。
特に皇室の場合は、『古事記』や『日本書紀』を見れば明らかであり、それを法制化した養老の 継嗣令 では、皇后以外に、妃(二員)・夫人(三員)・嬪(四員)の計九名の 側室 が公認されていた。
これは古来の風習の一面と、シナの令制に倣うものだが、これだけの用意があっても、その結果は、歴史上の実例として、皇統の男子の約半数が皇后の嫡出(婚姻関係にある男女から生まれること)以外の「皇庶子孫」である(このことは、従来も歴史家の常識であったが、近年、特に「庶系継承」の事例の数字を示して、世人の注意を喚起したのは高森明勅氏である)。
この事実を無視したり、あるいは隠して議論する「男系男子」論者があるが、それは偏向といわねばならない。歴史や伝統を理解する上で大切なことは、公明正大な史実を基礎にすることである。近い例では、明治天皇の御生母は中山慶子 典侍 であり、大正天皇の御生母も柳原 愛子権典侍 であったが、ともに後に「儲君(皇太子)」に 治定(決定)され、“皇后の実子”として「立太子(正式に皇太子として認めること)」されている。
側室制度の廃止を決断されたのは昭和天皇
この歴史の実例を十分に承知されながら、かような旧来の側室制を進んで廃止して、一挙に近代的な一夫一婦の美風を実現されたのが、他ならぬ英主昭和天皇であられた。
しかし、これは、明治の『皇室典範』にいう皇統の「男系男子」継承の立場からは、大きな危険をはらんでいた。
それ故、実はこの時に、旧典範の「女帝」も含めた改正をしておかなければならなかったのに、そのままに残され、その上に、新・旧典範では皇族以外の「養子」も認められない規定のため、今や現実に、男子の皇胤が絶えようとしているのである。
この明白な現実を無視して、どこまでも「必ず男系男子」をと主張するのは、決して歴史の“伝統”でも“正統”でもなく、約五割の役割を果たした側室制に目をつぶった、守旧で観念的な、無理を承知の横車に近いであろう。
*中略*
女帝は歴史上存在し、大宝令でも認めている
過去の日本で、実際に皇統が「男系男子」を基本としていることは間違いない。
しかしその一方で、例外もあり、「女帝」が実際に存在されたこと(推古天皇をはじめ後桜町天皇まで、十代御八方)も、明白な歴史上の事実である。また大宝令でも「女帝」の存在を認めていて(ただし、その女帝は四位以上の諸王を夫とされる)次のように明記されている(継嗣令)。
およそ皇の兄弟皇子を皆親王と為よ。女帝の子も亦同じ。以外は並びに諸王と為よ。親王より五世は、王の名を得たりと雖も、皇親の限りに在らず。(原、漢文)
これによると「女帝」の存在も、その「子」を「親王」と称することも認められている。実は、それもそのはずで、大宝令選定(大宝元年)当時の文武天皇は、天武天皇と後の持統天皇(女帝)との間に生まれた孫(母は後の女帝の元明天皇)に当たられ、先の女帝であった祖母の持統天皇が、大宝元年の当時、上皇として現存されていたのであるから、「女帝」を認めて当然といえよう。
このように見てくると、日本歴史の上で「女帝」が存在したことが明らかである以上、仮に将来、愛子内親王が女帝となられても何の支障もない。有識者会議は、おそらくこの点を重視して、次元を異にして新たな立法化を必要とする旧皇族の復帰問題にまでは言及しなかったのであろう。
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