日本にもっとも広がる“八幡信仰”の「八幡神」の歴史をみると、「応神天皇(第15代天皇)と習合し」「それによって天照大御神に次ぐ皇祖神として位置づけられるようになった」ことが大きいようですが、「八幡神」は、その誕生にも興味深い点が多々あります。新年を迎え、何かと希望をもって乗り越えたい2022年、私たちのそばにいる祭神を、こうしてより深く理解することは大事なことかもしれません。『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』(島田裕巳著、幻冬舎新書)からの試し読み、最終回です。
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八幡信仰は、神道に見られるさまざまな信仰の一部を構成しているわけだが、そうした点では、かなり独立性をもった信仰であるとも言える。実際、八幡信仰を追っていくと、興味深い事柄がつぎつぎに出てくるのである。
何よりも興味深い点は、八幡神が『古事記』や『日本書紀』といった日本神話のなかにまったく登場しないことである。
これは、八幡信仰の広がりからすると、意外に思われるかもしれない。ところが、八幡神は日本神話と無縁な存在であり、神話では語られないまま、歴史の舞台に忽然と登場するのである。
八幡のことが最初に文献に登場するのは、天平9(737)年である。この年の1月に新羅に使節が派遣されるが、受け入れを拒まれ、日本と新羅との関係が悪化した。『続日本紀』によれば、そこで朝廷は、伊勢神宮、大神神社、筑紫国(現在の福岡県)の住吉と香椎宮、そして八幡に幣帛(神に祈りをささげる際に奉献されるものの総称)を奉り、この出来事を報告したという。『続日本紀』は、勅撰の歴史書で、いわば公式の歴史記録ということになるが、これが完成したのは延暦16(797)年のことである。
このうち、伊勢神宮は天皇家の祖神である天照大御神を祀る神社であり、奈良の大神神社は日本でもっとも古いとも言われる由緒のある神社である。筑紫の住吉は新羅をのぞむ博多湾に面しており、香椎宮はいわゆる三韓征伐(日本の神話に記された朝鮮半島への出兵をさし、これによって、高句麗・百済が日本の支配下に入ったとされる)を行ったとされる神功皇后を祀っている。その意味ではどれも、新羅の問題を報告するにはふさわしい神社と言えるが、宇佐神宮のことをさす八幡が、なぜここに含まれたのかは注目される。
八幡信仰が広がっていくにあたっては、八幡神が応神天皇(第15代天皇)と習合したことが大きくものをいった。それによって八幡神は、天照大御神に次ぐ皇祖神として位置づけられるようになったからである。
その応神天皇の母が神功皇后で、皇后は妊娠中に三韓征伐を行ったことから、応神天皇は「胎中天皇」とも呼ばれている。八幡神と応神天皇の習合がいったいいつの時点からはじまったのかが問題になるが、すでにこの時点で、それが起こっていたという説もある。