2月1日に亡くなられた石原慎太郎氏。哀悼の意を表するとともに、氏が弟で俳優の石原裕次郎氏の生と死を描いた小説『弟』より「時代の恩寵」を抜粋し、3回にわけてお届けします。1回目は、一橋大学在学中にはじめて小説を書いたときのことです。
小説執筆がもたらした堀田善衛氏、伊藤整氏らとの出会い
その頃私は趣味のつき合いで、大学にあった『一橋文芸』という同人雑誌を復刊させようというグループに、友人の、後に私と一緒に東宝映画に入社し映画監督となり、そしてある冬に突然入水して自殺してしまった西村潔に誘われ参加していた。あれもまた人生の不思議というか奇怪というか、縁の縁がもたらしたことだ。
しかし上級生たちのいうようには原稿も金もろくに集まらず、金の方は私が才覚してなんとか揃えたが肝心の原稿の方はさっぱりで、西村がある時目を輝かせ、やっと出来のいい原稿の投稿があった、というので読んでみると古色蒼然たる代物で話にならない。
しかしまあそれも加えて、いった手前もあることだしとにかく本を出そうということになったが、最後にまだどうにも百枚の原稿が足りない。ということで、なんのことはない金集めした私にお鉢が回ってきて、私が穴埋め原稿を書くはめになった。
二年生の夏休み、長野の上山田温泉の大きな旅館の親戚という友人の紹介で、旅館の持ち家の河原に近い一軒屋を論文の執筆ということで十日ほどただで借り、その後妙高高原にある大学の寮に移って、さして労せずに処女作の小説『灰色の教室』を書き上げた。
小説を書く苦労なんぞより、上山田温泉で借りた一軒屋が土地の芸者屋の隣で、そのせいで生まれて初めていろいろ感じさせられるものがあった。
座敷で仕事していると夕方お座敷に出ていく芸者が座敷の縁側の前を声をかけながら通っていく。段々に顔を覚えて、その内に、ああ今夜はあの子とあの子が帰ってこなかったなと、彼女たちのその夜の商いの繁盛振りがわかるようにもなった。あれでもう少し居続けたら、彼女たちの誰かと小説種になりそうなことになれたのか、なれなかったのか。
小説の方は弟の放蕩の所産ともいうべき四方山(よもやま)話を基に、私たちの大学とはだいぶ違った雰囲気の慶応という学校を想定し、いろいろ印象的な挿話を綾なして、一種の青春群像を描いた。
西村は最初は褒めてくれたが、その内学校内での書評会となって、当時大学の全てのメディアを独占していた左翼系の学生たちが乗り込んできて目茶苦茶に酷評したら頼りにしていた彼までが日和(ひよ)ってしまい、私としては憮然たるものだった。
大学新聞の論評も、雑誌そのものも我々が望んだものとはかけ離れて違うということだったし、私の小説に対しても、こんなブルジョワの堕落しきった学生たちを主人公にしたような作品に誌面を与えるために伝統ある『一橋文芸』を復刊したのではない、などと、人の苦労を無視したステレオ左翼どものいい気なものでしかなかった。私の観念左翼に対する生理的嫌悪感と軽蔑は、案外あの時造成されたものかも知れない。
もっとも、私は私でその作品の誕生に死ぬ苦しみをした訳でもなく、何をいわれようとたいして気にはならなかった。
もっともあの作品が世に認められる前に一人だけ褒めてくれた人がいる。以前個人的にフランス語を習っていた翻訳家の、豊島与志雄氏の女婿で、後に明治大学の学長になった斎藤正直氏に雑誌を見せたら、次に会った時、「君はなかなか小説がうまいんだねえ。あの自殺ばかりする少年はちょっと不気味で面白いなあ。あれは新しいと思うよ」といわれた。
そしてその後氏の家にいった折、丁度氏の友人の堀田善衛氏がきていて、「これは僕のフランス語の弟子だ。小説も書くんだ」と紹介された。
堀田氏にすれば小説などを書く若者はそこらじゅうにいたろうし、とりあえず一編の小説をものした私としてもそれ以上の何をその場で期待しもしなかった。
結果論だろうが私にとって、いや実は私たち兄弟のその後の全てのきっかけとなったあの『一橋文芸』の復刊で最も印象的だったのは、当時ブームにあった大学の先輩の伊藤整氏にいろいろと世話をかけるべく、氏と直接会話する機会を得たことだ。
前後二度、肝心の折に私は伊藤氏のところに雑誌刊行のための金をせびりにいった。
最初は編集費の足しに、二度目はすでに出来ている雑誌を印刷所から取り出すための金として。最初が一万円、二度目も一万円だった。
どちらの折だったか伊藤氏が、
「商業学校で文芸雑誌を出したりするのは感心しないなあ」
と笑いながらいったのを覚えている。
その後私が世に出てから伊藤氏が何かに私のことを、
『あの時私の家に「一橋文芸」のためにお金をとりにきた学生が石原君だったというのを後で知らされた。金のもらい方がさらっとしていて押しつけがましくも卑屈でもなく、これはちょっと変わった学生だなあと思ったが、あの時いわれるまま出しておいてよかったと思う』
などと書いていた。確かに金くらい出してくれなかったら後でなんといったか知れないが、それよりなによりあの雑誌が私のデビュウのきっかけとなり弟の登場のきっかけともなったのだから、私たち兄弟からすれば、金を出しておいてよかったでしょうなどではとてもとてもすまぬものがある。
それともう一つ、私と西村は伊藤氏の新居の玄関先で話したのだが、伊藤氏が私たちの再度の無心に頷いて奥へ振り返り、
「お母さん、学生さんたちにお金を上げて下さい」
いったらあの優しい夫人が出てきて、着ていた割烹着のポケットから分厚い札束を取り出し中から千円札を十枚抜き出して渡してくれた。さすが流行作家は違うものだなあとしきりに感心したものだ。それにしても夫人があの時つかみ出した札束の分厚さからすれば、夫人はひょっとしたらそれほどの金を私たちにむしりとられるかも知れないと思っていたのだろうか。
その後、西村が千円以上のカンパにありついた時は、成功報酬としてその一割は使ってもいいのだといい出し、初めて聞く都合のいい話だったが、それならばとそのまま吉祥寺の飲み屋にいって二人で一割の千円分を飲んでしまった。二度目の時はぎりぎり最後の金だったので寄り道せずそのまま印刷屋へ払い込んだ。
雑誌の評判は空しいほどのもので、それでも仲間への仁義は果たしたという満足はあったが、間もなく期末の試験シーズンともなり、在学四ケ年間の内一番取得科目の多い三年生の期末試験は誰も大変で私もその域を出ずにあっぷあっぷしていたし、初めて書いた小説になんの未練もありはしなかった。
しかしそんなある日、西村が私に、雑誌『文學界』の末尾に毎号載っている同人雑誌評の欄に私の『灰色の教室』への批評が載っていて、浅見淵という評論家が大層褒めていると教えてくれた。
誰があの雑誌をわざわざ『文學界』に送ったのか知らぬが、彼が差し出した雑誌の末尾に間違いなく私の作品に対する批評が出ていた。
『生硬なものと旧套なものとが一つに融け合わずにぶつかり合っていることなどが欠点だが、注目すべき新人の登場である』とあった。
読んでの私の第一印象は、「へえ、そういうものかねえ」というところだったが、西村の方が感動していて、
「いやあ、俺がやっぱり不見識だったんだなあ」
と合評会での日和見をまたその段になって後悔してみせたりした。しかし、私の方はその時試験のために大事なノートを借りる約束の男が学生食堂に見つからずに心配で、それどころではなかった。
西村にもらったその雑誌は、今になって思えば、私という人間の社会への登場を私自身に初めて啓示してくれていたといえる。
それはさまざまな偶然と出会いに満ち溢れた、青春という選ばれた季節にこそあり得た運命の至福な一閃(いっせん)だったに違いない。しかし青春の未熟さと無意識の過剰さのために、私がそれをひしと感じられるようになったのはそれからはるかに時がたってのことだった。
弟
ミリオンセラー小説『弟』試し読み