2月1日に亡くなられた石原慎太郎氏。哀悼の意を表するとともに、氏が弟で俳優の石原裕次郎氏の生と死を描いた小説『弟』より「時代の恩寵」を抜粋し、3回にわけてお届けします。最後は、弟・裕次郎氏とのある協力について。
弟・石原裕次郎が果たしてくれた役割
口幅ったいが、世の中には目利きもいるもので、私の第二作が評判になる前に日活の企画部のある人物が作品を見込んで映画化のための契約をしたいといってきた。
これだけは想像外の出来事だった。
因縁めくがこの申し出に私より熱心だったのは弟の方で、絶対にこの機を逃さずに契約をまとめろといった。私としても申し出を断るつもりはないが、いったい何をどうやってまとめていいのかわからない。先方はいついつに会いたいということで、承諾の返事をしたが心もとなくその席に弟を同道することにした。
面談の場所は当時は東京で一番洒落たホテルだった有楽町の日活ホテル七階のバーで、六、七階吹き抜けのラウンジの雰囲気は先端的なものだった。噂には聞いていた所だが私はいったこともなく、弟にいうと、
「ああ、日活の話ならあそこでだろうな」
としたり顔で、
「俺は時々奈津子とあそこで待ち合わせてるんだ」
そうな。
「誰がくるのか知らないが、つけこまれないように先にいって二人で一杯やってるか」
などといわれ、二人して背広を着て時間前に出かけていき、なるほどいかにもという雰囲気のバーで私は奈津ちゃんに教わったブランディ・サワーを飲みながら相手を待った。
結果として弟の立てた作戦は当たったようだ。やってきたのは荒牧氏という、派手な日活の企画部のスタッフにしては実直そうな人物で、彼にしても噂でまだ学生という著者が弟連れで先にバーのカウンターに座ってものおじもせず酒を飲んでい、名乗りあったら私たちの方から、「何を飲みますか」などと聞くものだから機先を制されたことだろう。
縁あって荒牧氏とはその後長いつき合いになったが、その後の彼の述懐でも、彼があの時会った私たち二人は今まで対した誰とも全く違う新しい人種に見えたそうだ。その限りでも弟の立てた作戦は当たっていた。
「なにしろ兄貴、映画の原作料というのは悪くてもツェー(C)百(一百万円)にはなるぜ」
という弟の情報だったから、私たちとしては天から降ったような話だった。
しかし相手の提示した金額はかなり違って、新人の原作料は相場は最高三十万円だという。私にすればそれでも濡れ手に粟だが、乗り出しかかる私を身振りで制して弟が、
「いや実は、おなじ話が大映からもきていましてねえ」
私が聞いたこともない話をいきなりし出す。
「いつですか」
「おたくよりわずか後でしたが、まあこちらから先にあった話ですし」
「じゃあ、まだ向こうとは会っておられないんですね」
「それはまだです」
「大映さんはしぶいですよ」
「いや、それはまだ会っている訳じゃないし、なんともね」
弟にいわれて荒牧氏はすっかり本気になって、
「なら、あなた方の条件はいくらほどなんですか」
聞かれて私がいおうとするのをまた遮って、
「まあ、少しは色をつけて下さいよ。僕らはどこでやっても同じようなもんだから。それに映画化するといっても、いったい誰でやるんです」
「いや、まだそこまでは決めてはいませんが」
「ふぅん」
とやや不服気に首を傾げ、
「兄貴、こんなところならどう」
弟はコースターの裏に50と書いてよこした。
私としてはもうここはこのにわか仕立てのマネージャーにまかすしかなく、やや鷹揚(おうよう)に、
「ま、いいんじゃないか」
弟に頷き、弟は相手にそれを差し出す。
荒牧氏はすっかり気圧された感じで、
「いやあ、それは、ちょっと。でも、これならいかがでしょう」
弟を真似て彼のグラスのコースターに40と書いてよこした。
私が覗くのを押しやるようにしながら肩をすくめ、
「まあ、そんなところですかなあ」
弟が私に振り返り、私は慌てて頷いて話が決まった。
「じゃ、ということで。改めて乾杯しますか」
弟の方がバーテンダーに促し、セイムラウンドの新しいグラスで乾杯した。
長居は無用と立ちかけ、
「勘定して」
いう弟に慌てて荒牧氏が、
「いやいや、ここは私がしますから」
それじゃ、ということで二人して出てきた。
その後オフィスに帰った荒牧氏は、後の述懐だと、氏自身もいささか興奮していて、
「いやあ世の中は全く変わったなあ」
と仲間に報告したという。
かくして私の小説は弟の思いがけぬ辣腕(らつわん)のお蔭で、まだ新人にもならぬ駆け出しの原作者としては破格の四十万円の契約金で日活の作品リストに登録された。それで弟が恩を着せ契約金の口銭をせびるということはなかった。彼にしても日頃の不義理の穴埋めをしたということだったろう。
考えてみると以来私と弟は、互いに頼んだり頼まれたり、あるいは頼まれもしないのに買って出て、仕事に関して互いにいろいろ手を貸し合ってきた。弟の口添えや知恵がなかったなら出来なかったこともあるし、私の差し金で彼の人生の進路が変わったということもあった。しかし何のことでも私たちにとってそれはことさらなことでもなく、野球の息の合ったバッテリーのようにごく自然ななりゆきの上でのことだった。
しかし、もし芥川賞を受賞出来ず、もの書きとして船出も出来ずにいたら、あの先二人ともいったいどんなことになっていたろうかとは思う。思うだけでぞっともする。
私の小説第二作はその後安岡伸好、有吉佐和子の第三回、第四回候補作品と競って第一回の新人賞を取り、次いで芥川賞を受賞した。このあたりから弟は私の物書きとしての可能性について本気で期待し、それなりの敬意らしきものも持ち合わすようになってきたようだ。
芥川賞が決まった夜私は所用で仲間と東京にいたが、その席で受賞を知らされそのまま逗子の家へ帰った。その頃は芥川賞なぞまだ社会的な事件とはなっておらず、家にはすでに記者たちが押しかけているなどということもなかった。ただ一人、見知りの湘南に住むある通信社の記者が祝いにやってきてい、母と弟とで祝杯を上げていた。そして、門を入った藤棚の柱に弟が、『よくやった、兄貴』と筆で記した紙がぶらさがっていた。
家に上がって皆のいる部屋に座り弟が差し出した杯を受けた時、これが弟ではなし父親だったらどんなものだったろうかなと、ふと思った。
それから間もなく私は結婚した。芥川賞の受賞のせいなどではなしに、衝動的にということでもなく、すでに互いに学生の身としては異例だったろうが結婚することに決めていたので、その予定に従っただけだった。
弟
ミリオンセラー小説『弟』試し読み