装丁も解説も新たに、先頃、ファン待望の復刊を遂げた『雨の日には車をみがいて』(五木寛之著)。恋愛小説でありながら車好きをも唸らせた本書に出てくる9台の車とは、どんな車たちなのか。「五木寛之ほど、作品のなかで登場人物や物語の舞台と融合させ、躍動させる作家はいない」と語る「ベストカー」初代総編集長が、9台の車を紹介しながら、あの時代と今とを語る新連載。第1回は、映画『ドライブ・マイ・カー』でも注目され、『雨の日には…』の最終章「白樺のエンブレム」に出てくるサーブの話。
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「究極の恋愛小説」復刊の少々長めのプロローグとして
「ベストカー」で全力ダッシュをしていた時代、五木寛之を中心に、徳大寺有恒、黒沢元治、舘内端といった面々と、私がマネジャー役で「風の仲間」を結成、鈴鹿サーキットでシビックレースや、シティブルドックレースに出場、楽しんだ後、マカオGPに遠征するなど、1980年代の後半あたりまで相当に暴れまくったものだ。
それから25年、「風の仲間・シニア版」結成に向かって飛び立てないものか、盟主の五木寛之氏に相談しに行き、その活動の基盤として、かつて「ベストカー」で連載し、単行本にもなった『疾れ! 逆ハンぐれん隊』を電子書籍として生き返らせてからも、時間はずいぶん経った。この電子書籍は、私の関わっている電子書籍サイト『クルマ名作図書館』のなかで、活躍をつづけている。
そして2021年夏、五木氏の音楽を含めた著作権関係をマネジメントするSさんから電話をいただいた。なんでも『疾れ・・・』と同時代に『月刊カドカワ』で連載され、やがて単行本となった『雨の日には車をみがいて』が幻冬舎から改訂新装版として復刊されることになり、そのプロフィール欄に当時の鈴鹿サーキットでの写真を飾りたいので、手許にあるか、とのことだった。早速、USBメモリーに該当するショットを記憶させ、郵送した。いずれ、もう一度、五木寛之の手の入った『雨の日には・・・』の醸し出す、あの車ロマンに逢える日がくるだろう。発売を心待ちにした。
年が明けた1月の半ば、書店の棚に『雨の日には…』が並んだ。早速、購入。一気に読み終えた。旧知のはずの全ての登場車と、それに関わるマドンナたちが、生き生きしている。五木マジックが健在なのに嫉妬したくなる――。
前置きが長くなってしまったが、この『雨の日には車をみがいて』の最終章に出てくるのが、サーブだ。海外の映画祭を総なめにし、アカデミー賞作品賞にもノミネートされている話題の映画『ドライブ・マイ・カー』に出てくる赤い車、といったほうが、今は通りがよいのかもしれない。
今回、この連載をはじめるにあたって、珍しい“赤”のサーブがその映画に出てきて注目され、人気になっているという噂を聞きつけ、気になって映画を久しぶりに観に行くことにした。
五木作品のサーブは、最終章の「白樺のエンブレム」に出てくる。型は96S。もともとサーブは、メタリック系のボディカラーが主流だ。映画の中のサーブは初代モデルの900ターボのサンルーフつき。村上春樹の原作では黄色だったから、赤色というのは映画の視覚効果で選ばれたということだろう。冒頭も、エンディングも、サーブ900にかかわる描写で攻めてくる。だから映画では、雇われ運転手として登場する「みさき」に起用される女優に注目していた。
オーディションから選ばれたという三浦透子が実にいい。無愛想で無駄な口は一切きかない。肩の力の抜けた運転。安心して観ていられた。主人公に心を開くシーンが特によかった。「わたし、あのクルマが好きです。とても大事にしているのが判るので」……その言葉を証明するように、コーナーにさしかかると彼女の視線だけが行きたい方向を捉え、ステアリングを柔らかく切りこんでいく。クルマの姿勢を崩さないテクニックだ。そこまで演じきった三浦透子だが、カンヌ国際映画祭に赴く壮行会の席で、驚きの告白をしていた映像をあとで見た。オーディションに受かったときはまだ運転免許をもってなかった、と。え!? 会場の空気が凍ったという。もちろん、猛特訓で免許を取得するまでに漕ぎつけたのだろうが、それにしてもあのクルマと一体になる運転ぶりは何だったのか。コーチはだれだったのか。
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五木寛之は時代の流れを敏感に感じとり、それを作品の中で予告する作家といえるが「白樺のエンブレム」からも明らかにそれは嗅ぎとれる。執筆時の1987年のころは、いわゆるバブル経済の絶頂期で、それまで高嶺の花だったヨーロッパのスーパースポーツやスーパーセダンに、手を伸ばせば、なんとか手にできるようになっていた。そのころ、サーブのイメージキャラクターとして五木寛之が起用され、独特の個性をもつ北欧ブランドブームの火付け役となっていた。そして感じとったものを確かめに、22年ぶりに彼はストックホルムへ足を運ぶ。「風の仲間」のひとり、徳大寺有恒にこうメッセージをのこして。
明日からローマへ向けて発つ。(中略)10日間のイタリア取材を終えたあと、今度は北欧へ飛び、サーブのカブリオレでスカンジナビア4カ国を走ることになっている。ムンク美術館、イプセン劇場、そしてスウェーデンのモダン・ジャズの店をいくつか回って、ガラス街道とぼくが秘かに名付けているスウェーデン・ガラス工芸のふるさとをサーブで走り回ることになっている。帰ったらいつものところで報告会を。
帰国してからの報告会は、赤坂TBS会館地下のフランス料理レストランで。第一声は、取材はうまくいったけれど、と断った後、「北欧は停滞している」だった。結局、昔は北欧の夏至祭(ミッドソンマル)というと、自動車のラジエーターグリルに白樺の小枝をみんな飾って走った。すごくいい風物詩だった。女の子たちもみんな白樺の小枝とか草花を編んだ冠をかぶり……、それが20数年たって行ってみたら1台もそういう車は見あたらなかった。街中、バカンスでだれもいない。いるのはアメリカ人の観光客だけ。この経験が小説の中でどう活かされているのかは読んで確かめて欲しいが、「それが今の北欧か……」と徳大寺は唸った。サーブもボルボも今世紀一杯もつのかな、と。
五木はそれにはこたえなかった。そのかわり、この話の材料をこのように発酵させれば、かくも芳醇な香りと味をもつワインに育てられるのか、と肯きたくなる最終章「白樺のエンブレム」を仕上げてくれた。
――紀行番組のTVプロデューサー、白樺の小枝のようなスリムな石森翔子のことを、主人公の「ぼく」は嫌いではない。むしろ大切な友人として、男と女の感情抜きで大切にしたい友人だった。20年前の賑わいとはほど遠い『夏至祭』の有様に落ち込むのを支えてもらううちに、本当の気持ちに気がついていく。目の前をサーブ900カブリオレを先頭にしたパレードが通過してゆく。それを体を寄せあって見送り、いつまでも白夜の中に立ちつづけた――。
実際、サーブはこの赤坂ミーティングから6年後の1993年に、西武自動車販売がもっていた代理権を長年ポルシェを扱っていたミツワ自動車に移す。が、販売不振から97年以降はヤナセの手に。そして98年にマイナーチェンジを受け「サーブ 9‐3」と改名され、「900」の名称はこの時点で消滅してしまう。
2011年9月、サーブは法的管理下での再建手続きを裁判所に申請した。2009年2月についで2度目である。結局、こうしてサーブそのものも消滅し、もう一つのスウェーデン生まれのボルボは生き残った。というより、年々、その販売台数が世界中で激増している。
『ドライブ・マイ・カー』や『雨の日……』のサーブに想いを馳せるとき、私自身が2度にわたってスウェーデンの西の玄関口・港町イエテボリにあるサーブ本社を取材で訪れ、そこからストックホルムまで、900turboでロングランしたときのことも思い出されてならない。FF駆動にこだわり、ターボ搭載に先鞭をつけた往時のサーブ車たち。コーヒーを飲みつつ、彼らをしのびつつこの原稿を書いている。
(第1回 了)
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『雨の日には車をみがいて』と車たち
恋愛小説でありながら、9台の名車が鮮やかに描かれる『雨の日には車をみがいて』(五木寛之著)。名著復刊を記念し、本書に出てくる素晴らしき車たちと作家・五木寛之とその時代についての思い出を、「ベストカー」初代総編集長が綴る。