ツイッターに作った「もう一人の私」が動き出す――。2月10日に発売された文庫『特別な人生を、私にだけ下さい。』(はあちゅうさん著)は、ツイッターの裏アカウントで「もう一人の自分」を持った人々を描いた物語。「本当の自分」では得られない特別な人生が欲しくて、もがいて、そのときツイッターは、とても便利なツールになるのかもしれません。登場人物の一人「ユカ33歳」の最初の章を5回にわけてお届けします。
帰りが遅い夫への寂しさを自分で決着つけるとしたら
寂しさは刺すように一瞬なのに、信じられないくらい体の奥深くまで到達してしまう。だから、その瞬間目を閉じ、ぐっと喉のどに力をいれてやり過ごす。けれど、これが時たまではなく毎晩のことなのだから、やっぱり飲み下しづらい日はあって、そんな日は適当な理由をつけてお酒でも飲みに出かけたい。でも、知り合いをむやみに誘うと寂しい人だと思われそうだし、人生がうまくいっていないことを自らアピールするようで抵抗がある。LINEのやたら目に悪そうな緑色の画面にあらわれる「友達」を上から下までスクロールしても「この人」なんて思える人はいやしなくて、結局画面を閉じるんだよね。友達ってなんだっけ。
旦那とうまくいっていないわけじゃない。人材派遣会社の社長をしている旦那は、帰りが遅くなることが日常茶飯事。朝帰りもざら。それを承知で結婚したのは私だ。最初は旦那がいない分、自由な時間が取れると思って嬉しかった。夜ご飯を食べたら、動画コンテンツの見放題サービスをポチポチと起動するのが私の日課で、SATCもフレンズも24もラストシーズンまできっちりとコンプリートした。
旦那の不在を憂い、遅い帰宅を責めるような女をちょっと前まで心から軽蔑していた。旦那のお給料で暮らしているくせに、仕事に理解を示さずに、早く家に帰ってくることを強しいるなんて、どうしてそんなに我儘(わがまま)になれるんだろうと。自分の寂しさくらい自分で決着をつけて、遅くまで働いてきた旦那を笑顔で労ねぎらうのが妻としての役目のはずだ。
結婚して一年はそう思えた。けれどいつのまにか、一人で家にいる時間、発作のように寂しさに襲われるようになってしまった。20時くらいに自分のためだけの簡単な夕食を食べ終え、21時くらいまで片付けや掃除をする。その後くるのが魔の22時。その時間帯が一番苦しい。約束なんて何もないのに、外に出たくてうずうずする。服を替えてメイクして、誰かに会いに出かけたい。外の風を浴びたい。
そうしたら今日といういつもと同じただの一日は、少しだけ良いものに変わるんじゃないか。そんなふうに何度も思って、やたら携帯を触ってしまう。突然の誘いなどしてくれる友人はいないのに。夜の街の代表格ともいえる西麻布まではタクシーで行けばワンメーター。けれど、約束のない西麻布は、まるでネバーランドのように遠く、まぼろしじみている。
先週の土曜日、表参道のカフェで。
「私、最近、出会い系アプリ使ってるよ」
オレンジジュースとアイスティーを二層にした飲み物を両手で持って、美香(みか)が言った。明るい日差し。暦の上では秋とはいえ、まだまだ気候は夏だ。
「え、あぶなくない?」
「全然あぶなくなんてないよー。そもそも、一線は越えないし」
一線を越えるとはどういうことかと聞くと、美香は笑って「会ったりはしない」と言った。
「不倫ごっこよ、不倫ごっこ。本当に不倫する気はなくて、でも気分を味わってみたいだけ」
日差しが横からあたっている美香の顔には、パーツにそって深い影が出来ていて、33歳という年齢が、ほうれい線にしっかりと刻まれている。けれど、シルバーのネイルを綺麗に施した美香のつやつやとした爪は女としてまだ現役なことを示している。目線を自分の手元に落とすと、手入れをしていないすっぴんの爪。親指の先が少し荒れている。
「会わないけど、メッセージのやりとりはするの?」
「そうよ」
「それって何の意味があるの?」
「意味はないけど、顔写真を登録しておいて『いいね』がたくさんきてると安心するんだよね。まだ女として終わってないことの証明な気がして」
美香はそう言って少し照れるように笑った。
「向こうから会おうとは言われない?」
「言われるよ。でも予定が合わないことにしてかわす。そこでメッセージ止めちゃえばいいし」
要するにモテを味わいたいんだよね、と美香は長い髪をかき上げた。
くっきりとした二重瞼まぶたに、グラデーションがまるで雑誌のメイクページのように施された印象的な目元。メイクがいらないくらいナチュラルに整った眉毛。清潔感のある綺麗な歯並び。お世辞でもなんでもなく、美香は美人だ。同性なのにうっとり見とれてしまう時がある。こんな美人でも、女として自信がなくなる夜があるなんて信じがたい。
「ユカもさ、たぶん、女としての自信を失っているだけなんだよ」
そうかもしれない。
この一年ろくに飲みにも行っておらず、行くとしても美香との近況報告会だけ。男性に女として品定めされるような場所は出来るだけ避けてきた。人妻がそういう場所に行くことへの心理的抵抗もあるけれど、単純に男女混合の飲み会でターゲットにならないのはつまらない。そんな場所で次につながらない出会いを増やしたり気を遣ったりするよりは、家で気楽に海外ドラマでも見ながら、枝豆をつまんでいたほうがマシだ……そう思っていた。ちょっと前までは。
今は、気を遣ってもいいから飲み会に出たいとは思うものの、いざとなると誘ってくれるような人はいなくて、ああ、私は、そういうメンバーから外れたのだと実感する。当たり前だ。家庭のある女には気を遣うのがマナーだ。
美香は、つむじから毛先まで滑り下ろすように自分の髪をなでて笑った。
「ちょっとモテ気分を味わえば、寂しさって意外と埋まるよ。ネットのなんでもない出会いだって意外とあたたかいものだよ」
その言葉が頭の中に余韻を持って残っていた。
そして一週間後、いつもの一人の夜に、とうとう私はツイッターで裏アカウントというものを作ってしまったのだ。本名のアカウントもあるけれど、それとは別の適当な文字列のユーザー名で、ネットで拾った韓国のアイドルの写真をアイコンに設定したら、そこに私の分身が出来た気がした。
出会い系アプリに登録するのではなく、匿名アカウントを作ったのは、万が一にでもアプリの中で旦那の知り合いに、私のプロフィールを見られてばれるのが怖かったからだ。ばれたとしても適当な噓で切り抜けられるとは思ったけれど、あんまりいいことにはならないだろう。夫婦の間に噓は少ないほうがいい。旦那はツイッターをやっていないので、ばれることはない。
アカウントは電話番号を登録すればすぐに作れる。拍子抜けするほどあっさりと生まれた、ネット上の第二の私。
プロフィール欄は、どんな噓を鏤ちりばめようか迷った挙げ句、「結婚四年目セックスレス人妻」と書いてみた。
正確には旦那とは結婚三年目だけれど、現実とは微妙にずらして架空の設定を作る。セックスレスは本当だ。もう三か月そういうことがない。セックスレスの定義は確か一か月からだったと思う。
結婚四年目、セックスレス人妻……美香です。
名前は何でもよかったけれど、一週間前に会った美香の顔がふと思い浮かび、本名のユカに似た響きでもあるから、美香にした。
(つづく)
特別な人生を、私にだけ下さい。
はあちゅう著『特別な人生を、私にだけ下さい。』試し読み