女優、作家、歌手として活躍されている中江有里さんは、これまで様々な媒体で書評をされてきていますが、とりあげる作品は、不朽の名作から話題作、ノンフィクションやビジネス書、実用書に至るまで、ジャンルの幅広さは圧倒的。そんな中江さんが「文庫解説」を書くときに感じる“喜びと難しさ”とはどこに? そこには書き手ならではの視点だけでなく、読み手の思いまでもが幾層にもやわらかく重なっていました――。
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十代のころ、よく文庫本を買っていた。文庫は財布に優しい。解説があるのも魅力だった。巻末に位置する解説を本文読了後に開く(逆の人がいると知った時は驚いた)のは、映画を見た後にその作品のパンフレットを手にするのと似ている。映画の表裏に光を当て、作品世界から現実世界へとゆっくりと浮遊させてくれる。私にとって文庫解説は作品と現実の間にあるトンネルみたいなもの。
初めて文庫の解説執筆を頼まれたときは嬉しかった。いざパソコンに向かってから、どう書いていいのか、と悩んだ。あわてて書棚の文庫を取り出して確かめた。そして自分なりに思ったのはこんなこと。
解説はその本(作品)、あるいは作家を様々な角度から論じていく。たとえば作家のキャリアの中でその作品がどういう位置づけにあるのか、その本がどういう時期、あるいは背景で書かれたのか(文庫書下ろし以外は、単行本刊行後数年して文庫されることが多い)など、解説が作品の補足の役割を果たすこともあったりする。
しかしながらどれの解説スタイルが正しいわけでもなく、書き手の専門分野によって、書き方は千差万別だ。
そんな分析を経て、私がこれまで書いた文庫解説の数はわかっているだけで八十ほど。しかしまだ「これ」というスタイルはない。この機会にどうやって書いてきたかを考えてみたい。
ひとつは自分事に引きつけてきたことが多い。作品によって自分から近づいていくこともあれば、逆に作品が徐々に自分へ寄り添ってくれたりもする。フィクションの小説が個人的な出来事や状況と作品内容とリンクしていく時、作り事である小説のリアリティが恐ろしくもなる。
あるいは作品から離れてみたりもする。
絵画だって近すぎては全体が見えなくなる。程よく距離をもつ方が、作品の構造や個性がわかる。
と、それらしく書いてみたが一番大事にしているのは、その作品を愛すること。その作品の自分なりの愛し方を解説という場を借りて文章化している。
だから好きな作品ほど、実は解説を書くのが難しい。思いが強すぎると書きたいことが次から次へとあふれて、まとまらなくなる。自分の気持ちに溺れてしまわないよう、通常よりもひときわ冷静になろうと努力する。
たとえば好きな作品は「よその赤ちゃん」だと思うことにしている。
自分の子ではないよその子を預かる責任はかなり重い。赤ちゃんを落とさぬように、つぶさぬように優しく抱きしめる。そんな愛おしい気持ちで解説を書いている。
大げさに見えるかもしれないが、解説は十分に思いを寄せないと私は書けない。
一方、読み手として思う解説の魅力は、冒頭に記したように本の世界から現実世界へと滑らかに導いてくれるという以外に、同じ作品世界に浸った者同士の共感がある。
解説の書き手は当然ながら一足早くその作品を読んで書かれている。読者は本文読了後に解説に目を通し「そうそう」と深く頷くこともあれば、「え? そうなの?」と疑問を持つこともあるだろう。でもそれは同じ本に触れた者同士だから起こること。
解説を一つ書くたびに、読者として解説を読んでいた時の気持ちを思い起こす。解説は作者に向けて書かれているようにみえても、やっぱり同士である読者へ向けて書いている。
「読んでこう感じたけど、あなたはどうですか?」
作品をいろんな角度から楽しむために、解説は役に立つし、解説によって新たな解釈を得ることもある。そう、解説は同じ本に触れた読者仲間との語らいに近い。
願わくはそういう解説の書き手でありたい。
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中江有里 「わたしのような誰か」
2022年3月16日
ニュー配信リリース iTunesはじめ各配信会社
「わたしのような誰か」
作詞 松井五郎/作曲 マシコタツロウ
「このまま」作詞 松井五郎/作曲 Qoonie