ドラマ化もされる今野敏さんの「警視庁強行犯係・樋口顕」シリーズは、仕事や家庭に実直に向き合う等身大の刑事の姿を描いた警察小説です。その新作『無明』が3月16日に刊行。本作では自殺と断定された事件に残された謎が、管轄外である樋口の元に舞い込みます。縄張の外から捜査を開始したことで警察内での軋轢が生まれ、ついには「君はもう懲戒免職だ」と最後通牒を受ける樋口。シリーズ最大の危機を迎える本作の書評を関口苑生さんからお寄せいただきました。(初出/「小説幻冬」2022年4月号)
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正義まっとうを――。著者の刑事への願い、主人公が敢然と貫く
数ある今野敏の警察小説の中で、本書『無明』が七作目となる《警視庁強行犯係・樋口顕》シリーズは、他の作品とは異なる際立った特徴がある。まず作者自身が本シリーズについて、こんなことを語っているのだ。
「四十歳くらいに書き始めた作品で、主人公を同い年にしました。まさに等身大で、性格的にも自分に一番近い。刑事の人間臭さを意識した作品です。そしてこれは初めて家族について書いた小説です。樋口シリーズを書かなければ、後の隠蔽捜査シリーズは生まれていなかったと言っていいと思います」
自分の作品について、作者はひとつひとつに、それぞれ違った思い入れがあるものだろうが、これはまたちょっと格別な感慨があるように思った。言われてみれば確かにこのシリーズは、樋口の性格を、それがよく表れるように随所で自分はこういう人間だとつぶやいてみせたり、時には生の感情を思い切りさらけ出して上の世代を批判するなど、ほかとはいささか違う様相をみせている。
本書にしても、俺はただ、臆病なだけだ。警察という、ちょっと特殊な社会の中で、問題を起こさず、他人との摩擦を避けながら毎日を生きていこうとしているだけだ。もともと揉め事が嫌いだ。人が言い争っている姿を見るだけで、ひどく嫌な気分になる。気が弱いからだと、自分では思っている。敵を作ることも、誰かを傷つけることも、樋口がずっと避けてきたことだ。警察という、少々特殊な社会の中で、波風を立てずに生きていきたい。日々、そう思っていたのだ……等々、何か事あるたびに、樋口は自分の性格をああだこうだと分析する場面が見られる。これが実に自然で素直な描写なのである。
主人公というのは、多かれ少なかれ作者をどこか投影した造形になるものだろうが、樋口顕の場合はどこにも作り物めいたところがなく、本当に自然体で描いているように思えるのだ。これが今野の言う「まさに等身大」という意味なのだろう。
そんな樋口の性格が、本書では良きにつけ悪しきにつけ、自分の立場と仕事に多大な影響を及ぼすことになる。
きっかけは、東洋新聞の女性記者が樋口を頼って持ちかけた相談だった。三日前に荒川の河川敷で発見された高校生の水死体が自殺と断定されたことに、遺族が疑問を持っているというのだ。捜査本部が明けたばかりの樋口はその事案を知らなかったが、しかしそれは千住署の担当であり、ちゃんとした捜査の上で判断したことでもある。その決定に対して、今さら口を挟めるはずもなかった。かりにそうしたとしたら、所轄がへそを曲げるのは目に見えていた。所轄にも捜査のプロとしてのプライドがあり、何よりも面子がある。
信条に反する捜査で、あえて事を荒立てる
だが、そうは思いつつも樋口はなぜか気になり、藤本由美巡査部長とふたりだけで、この事案を慎重に洗い直していく。できるだけ人とは争わず、波風を立てないように生きていこうとしている樋口にしてみれば、こうした行動は、その信条とはおよそかけ離れたものであった。にもかかわらず、あえて事を荒立てるような独自の捜査を開始していくのだった。
これが樋口の――というよりも今野敏が固く守っている規矩なのだろうと思う。
どういうことかというと、彼は自分が書く警察小説の主人公に対して、こういう警察官がいてほしい、いればいいな、いやいなくちゃいけない……という理想の姿を託しているのだった。現実の警察官には色々なタイプの人がいるだろうが、中でもコツコツと真面目にやっている人を応援したい、そんな気持ちが詰まっているのだ。そしてその中心、ど真ん中にあるのが、警察官への希望と信頼の感情――言葉にするなら“正義”をまっとうしてもらいたいとの思いではないか。
たとえばこれはあくまで極論だが、警察という権力組織がその気になれば、いかようにも罪を「でっち上げ」てだれでも逮捕することができるかもしれない。前作『焦眉』は、その危険性を覗かせてくれたものだ。実際に、かつては「転び公妨」といった強引なやり方もあったという。誤認逮捕、冤罪を生む要素はいつだって潜んでいるのだ。そういうことを絶対に許してはいけない、と樋口は心の底から思っている。また同様に、他殺の痕があるにもかかわらず、それを無視したり、間違った捜査をしたり、あるいは無かったものとして隠蔽したりという行為も許せない。言ってみれば実に単純明快で真っ直ぐな感情だ。
彼は警察組織の秩序もきわめて大切なものと感じている。だが、それと同じくらいに大切なものがあると信じてもいる。真実を明らかにすることである。
そんな樋口を、深い付き合いのある捜査二課の氏家譲警部はただ一言「正義の味方」と評するのだった。
本書では、個人として絶対に譲れないその“正義”を敢然と貫こうとする樋口の姿が、何とも凜々しく描かれている。彼の前に立ちはだかるのは所轄の千住署だけではなく、本部の理事官までが介入してきて、所轄の面子を潰すような捜査を打ち切るように命じてくるのだった。しかし彼は、そうした組織論理を断固拒否し、職を辞する覚悟でこの事案は自殺ではなく、他殺だと訴えていく。いや、これが本当にカッコいい。まさしくヒーロー、正義の味方なのである。
それからもうひとつ、際立つ特徴として家族を描いた初めてのシリーズということもあげておかなければならない。今回も、娘の照美が仕事を辞めるという事態をめぐって、父親としての対応を妻の恵子に迫られる場面が各所に散見できる。これもまた、本シリーズならではというか、ここでしか味わえない家族の団欒――理想のひとつの家族形態がある。
今野敏の小説は、だから素晴らしい。
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無明
君はもう懲戒免職だ――。突き付けられた最後通牒。それでも信念を貫けるか? 本部と所轄の狭間でもがく刑事を描く警察ミステリー。今野敏の最新作『無明』(2022年3月16日刊)の情報をお届けします。
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