『リアル鬼ごっこ』『親指さがし』『×ゲーム』――人気作をたくさん持つ、10代に圧倒的な人気の作家・山田悠介さん。山田さんの『貴族と奴隷』は、「貴族と奴隷」という名の”残酷な実験”を課された30人の中学生の物語だ。劣悪な環境の中、仲間同士の暴力、裏切り、虐待が繰り返されるのだが……。
この異常な環境下での心理状態を、脳科学者・中野信子さんは、実際に行われた、ある”実験”に重ね、そこから、「10代の脳」の話にまで掘り下げていく。刺激的で読み応え満点の文庫解説をどうぞ!
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現在では禁止されている「スタンフォード監獄実験」を想起させる物語
山田悠介さんの作品を読むと、もしかしたらこの方は心理学がお好きで、教科書に載るような有名な実験についてよくご存じなのではないか、と思ってしまう。
たとえばこの『貴族と奴隷』は、現在では禁止されている「スタンフォード監獄実験」を想起させるし、また物語に登場する人物たちの行動や心理描写は、この実験から導出された人間の振る舞いに関する学術的な知見によく当てはまる。
スタンフォード監獄実験は、世界で最も邪悪な実験と今でもいわれる研究の一つで、ドイツ映画『es』の原型にもなった、スタンフォード大学を舞台に行われた実験である。
実験の主宰者はフィリップ・ジンバルドー。実験が行われたのは1971年。大学の地下にある実験室を改造して監獄によく似せた監禁施設を設置し、新聞広告を使って集められた被験者21名がここへ送り込まれた。
実験期間は2週間。被験者の日当は15ドルだった。コインの表裏どちらが出るかで囚人か看守かを決められた。囚人役は消毒薬をまかれ、トイレ以外にはどこへ行くこともできないし、トイレに行くときは目隠し付き。右足には枷(かせ)が塡(は)められ、重りが取り付けられた。
看守になった者は与えられたタスクを超えて、自発的に囚人役を虐待しはじめ、それはエスカレートしていった。この暴走劇は実験であるという範疇(はんちゆう)を超え、囚人役の被験者の心身の安全が脅かされたため、実験は1週間足らずで強制的に終了することとなった。
看守役の被験者は、さらなる実験の続行を求めて、主宰者に抗議したという。
スタンフォード監獄実験が邪悪な実験であるといわれるのは、強い権力や地位、肩書を与え、情報や人の出入りのない閉鎖的な環境をつくってやれば、人間の理性など簡単にマヒしてしまい、弱者を際限なく痛めつけてしまうということが実際に証明されたという点だ。
権力を持たない者への懲罰という快楽に味を占めた被験者は、それを取り上げられることに納得がいかなかったのだろう。本書に登場する人物たちの振る舞いは、この知見に恐ろしいほど忠実に描かれている。
人間一人がいかに正義を語ろうとも、どんなに個として善き人物であろうと努力しても、リアルな世界は残酷だ。優れた心理学者の手によって、厳然たる実験結果として、何十年も前に人間の本質は示されてしまっている。
なんという身も蓋(ふた)もないことを書くのだ、人間はもっと温かいものであるはずだ、と中野のことを糾弾したくなる気持ちになる読者も少なくないかもしれない。しかし、だとしたらそれは私の筆力が足りないのだと思う。当代きっての売れっ子作家・山田悠介の手にかかれば、この冷厳なデータがユニークで読み応えのある小説という形に生まれ変わる。
普通は、きれいごとでは済まされないリアリティの世界など、見たくないものだ。人間は、そこから目をそらそうとするのが常だろう。
しかし、人間の残酷さを余すことなく表現してなお、山田さんの作品は多くのファンに支持を得ている。特に10代に人気と聞く。なるほどなあと納得するのは、10代の脳の特性に大人と違う一面があるからだ。
実験心理学的な知見では、不安は、それを押し隠してしまうほど増大するという性質があるとされている。
大人の脳でもそうなのだが、特に10代の脳では不安をより大きく感じやすい。これは、10代の脳では不安を大人と違った形で処理しているためだということがわかっている。大人の脳では生じた不安を減弱させるシステムが出来上がっているが、10代ではなんとそのシステムが大人とは逆の働きをしているのだ。
つまり、10代の脳で不安が生じればそれはより大きく、より強くなっていくように回路が組まれている。そうして spontaneous に生じて大きくなっていく不安を、自分ではどうすることもできないのが10代の特徴といえる。
前述のように、不安は押し隠してしまうほど増大する性質を持つ。お前の気のせいだよ、そんなことを不安に思うなんて頭がおかしい、病気じゃないのか、気にしないのが一番だ……などと言われれば言われるほど、不安は意識の下でその勢いを増してしまう。説得することが逆効果になってしまうのだ。
不安を減弱させるには、むしろそれを言語化し、吐露し、不安があることを認知することが効果を持つ、という実験がある。
大人はもう忘れてしまっているかもしれないが、ティーンの頃は毎日のように胸がざわつくような気持ちにさらされていたはずだ。何とも言えず落ち着かない、よく考えても何が原因なのかわからない、快と不快が綯ない交ぜの、不安定な状態の脳。
こんなときには、安っぽい慰めの「名言」が並んだ白々しい本が役に立たないことを読者はよく知っているのだろう。ティーンにとっては、不安を搔かき立てる残酷なリアリティを、シンプルに直線的に描き切る山田悠介の筆致は、逆説的に安心感をもたらすはずだ。
学校が楽しい人はさておき、そうでない人にとっては、学校こそが監獄実験のようなものかもしれない。スクールカーストに縛られ、このヒエラルキーを覆すのは至難の業だ。人生経験も少なく、大人の力をうまく借りられないのでは、世界を変えるのは現実的とはいえない。さらに受験や就職というタスクも同時並行で降り掛かってくる。巧まずして作られた監獄からは、2週間などという短期間で解放されることはなく、3年間、あるいは6年間、その状態は継続される。
この実験はそれでも、永遠に続くわけではない。長いように感じられても、有限の時間だ。大人になればその不安や、どうしようもない胸苦しさや、痛みもどこかへ消えてしまう。思い出そうと足あ搔がいてもそれは積層された時間の奥深くにあって、なかなか取り出すことができなくなる。
積み重なった恨みをエネルギーにして生き延びていくのも悪くない。
けれど、いつか自分はそれを忘れてしまうだろう、ということも知っておいてほしい。忘れる、という機能を自分のために使うという選択肢も、どこかに隠し持っていてほしいと思う。
この世界をどう生き延びるのか。不安要素をくっきりと描き出す山田さんの筆致に、却(かえ)って不安が解消され、勇気づけられる若い読者は多いだろう。彼の作品の中には、現実をどうやり過ごすのかという知恵が間接的に仕込まれているのも魅力といえる。
─────脳科学者