私たちは時々願い方を間違える
私は願い方を間違えたのだ。
何年か前のある冬、突然気づいた。大変な難産だった原稿を書き終え、次の原稿の締切を確認していたときだった。毎日毎日締切がある。1日に複数の締切が来ることもある。幼い頃からの願いだった「文章で食べていきたい」という夢が叶って嬉しいはずなのに──まさか占いというジャンルで叶えるとは思わなかったが──こんなにつらいとは。そう思った瞬間、気づいたのだ。私は作家になりたいと願うとき、いつも「編集者に追われる人気作家」の姿に憧れていたことに。たとえば筒井康隆、たとえば漫画ではあるが手塚治虫。執筆している後ろで編集者が鬼の形相で座っている。遅れれば矢のように電話がかかってくる。そんなふうに、人に求められる作家になれたらと思った。夢は確かに叶った。願い方を間違えたのだ。「原稿の依頼が来たらすぐに取り掛かり、締切前に終わらせてしまう」という村上春樹に憧れるべきだった。しかし時すでに遅く、締切は目の前に迫っており、私は暗い仕事部屋で頭を抱えることしかできない。
思えば今に至るまで、数えきれないほどの願いを抱いて生きてきた。なかでも切実に願ったのが恋愛だったと思う。あの人と幸せになりたい。ずっと一緒にいたい。叶った願いもあれば叶わなかった願いもある。そのときは吐くほど切実に願ったが、今になって思えば「あれが叶わなくて本当によかった」と心の底から思える縁も多かった。一緒になっていれば、間違いなく孤独で泣き暮らし、多くのものを失っていたはずだと思い、鳥肌が立ったこともある。「スーツケースのタイヤを拭くか拭かないか」という矮小な問題で人格否定をするような人間と結婚したいと、なぜ私は願ったのだろう。お前が拭け。まあそんなことはどうでもいいのだが、自分はときどき願い方を間違える。そのことは強く自覚しておかなければいけないと思っている。叶ってしまうことがあるから。
無理に動かした運はどこか歪む
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