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脱北航路

2022.04.15 公開 ポスト

#2 特別招待所から連れ出した女性とは、実は……。月村了衛

月村了衛さんの最新長編小説『脱北航路』が刊行されました。
「北朝鮮の海軍精鋭達が日本人拉致被害者の女性を連れて脱北する」
という衝撃の内容で、冒頭からトップスピード。
時間を忘れて読み耽ること間違いなしです。
潜水艦による決死の脱北、拉致被害者の救済、
迫りくる朝鮮人民軍の猛攻撃、艦内で渦巻く感涙の人間ドラマ……。
本書の刊行を記念して、試し読みを全4回でお届けいたします。

第1回から読む

*   *   *

今回の合同演習は陸海空軍による大規模なものであった。地域的には咸鏡南道(ハムギョンナムド)を中心とするため第7軍団の担当となった。演習指揮官は朝鮮人民軍総参謀部長である金錫宣(キム・ソクソン)人民軍元帥である。

同日午後十一時二分、咸興市にある第7軍団司令部に立つ金総参謀部長に、第7軍団長の崔宗憲(チェ・ジョンホン)中将が報告を行なった。

「演習準備、完了しました」

総参謀部長の側に控えた各軍の高官達も、緊張を隠した無表情でありながら、どこか満足そうに聞いている。

金日成(キム・イルソン)と金正日(キム・ジョンイル)の肖像画が睥睨する室内は、中国製の電子機器が放つ熱のせいで外よりも蒸し暑く感じられた。人民軍元帥、各軍指揮官とその参謀達は正面の大型モニターを見つめているが、二十人あまりの管制官はそれぞれの担当に応じてコンソールやパソコンのディスプレイに向き合っている。

各軍の図上段階及び基本訓練段階はすでに終了し、対水上、対潜、対空の総合攻撃訓練が始まろうとしている。その最終段階において、金正恩(キム・ジョンウン)総書記の視察が予定されているのだ。

演習が成功裏に終われば、その華々しい成果は世界に報道され、アメリカとその同盟国を畏怖せしめるのみならず、総書記の威光を広く喧伝することになろう。そして自分は総書記から一層の信頼を得る。それは取りも直さず軍における権力基盤の強化につながるはずだ──金総参謀部長はそんなビジョンを描いていた。

人民軍元帥の地位にまで上り詰めようと、一旦総書記の不興を買えば悲惨な末路が待っている。総参謀部長はむしろ引退後の保身と一族の安寧に心を砕くばかりであった。

「およそ四時間後、〇三〇〇に033型潜水艦11号が出港します。それを皮切りに全軍の演習開始。現在進行にいささかの遅滞もありません」

得意げに言う崔中将は、海軍部隊の指揮官である姜徳勲(カン・ドクフン)中将に向かい、

「11号に同乗する政治指導員は辛吉夏(シン・ギルハ)上佐でしたな」

姜中将は謹厳そのものといった態度を崩さず応じる。

「総政治局でも屈指の逸材と聞いております。なんでも近々に大佐への昇進が内定しているとか」

しかし総参謀部長は、姜の言葉にどこか軽侮の臭いを感じずにはいられなかった。

辛吉夏の叔父は国務委員会の委員であり、少し前まで次期副委員長の筆頭候補と目されていた。それが突然失脚したばかりか、保衛司令部に逮捕監禁されているのは、海外での不正蓄財が発覚したためである。発覚の端緒は、他ならぬ甥の告発であった。

その功により、吉夏は栄達の道をつかんだのだ。金総参謀部長と同じく姜中将も、そのことを熟知しながらまるで触れようとはしなかった。

もちろん不正蓄財など党に対する反逆以外の何物でもないし、決して許されることではない。だがそれを言うなら、総書記とその一族の莫大な隠し財産はどうなるのか。

どうもならない。

老いたる人民軍元帥は当然のこととしてそれを呑み込む。この国に生きる者にとって、〈あるはずのない物〉が見えないことは恥じるにも値しない。

しかし軍人として、姜中将が辛吉夏を嫌悪していることは明らかであった。金もまた姜と同じ心情であったからだ。

「金正日首領の主体思想に関する論文を党の地方大会で全文暗誦したという辛上佐なら、きっと素晴らしい統率力を発揮してくれることでしょう」

崔中将は軍人の気質を持たない。それが今日の地位を得たのは、ひとえに支配層の顔色を読むことにのみ長けた特技のゆえである。

「辛上佐の評価については私も大いに賛同します」

姜がゆっくりと口を開いた。

「だが、中将同志は少し勘違いをしておられるのではありませんか」

「と申されますと」

問い返した崔に、姜が嫌みに聞こえぬ程度に抑えて言う。

「『政治的優位性こそは、革命武力の本質的優位性であり、その腐敗の源泉である』」

それこそ金正日の著作『主体思想の継承と発展』からの引用であった。「腐敗の源泉」の一節は、同時に危険な皮肉ともなっている。だが出典が金正日の著書である以上、そうと指摘できる者はこの国のどこにもいない。

「艦の指揮はあくまで艦長が執るもの。桂艦長は潜水艦乗りとしては我が海軍でも一、二を争う優秀な人物です。祖国解放戦争(朝鮮戦争)における金日成首領の如く、艦長が艦を操り、党の誇る政治指導員が主体思想で以て乗組員の忠誠心を高めれば、演習は大成功間違いなしと言えるでしょう」

配慮に配慮を重ねた巧妙な言い回しに、崔も苦笑せざるを得ない。

「なるほど、これは迂闊でした。桂東月(ケ・ドンウォル)の勇名は私も聞き及んでおります。海軍には優れた人材が揃っておるようですな」

二人のやり取りに対し、総参謀部長は顔の筋肉だけでにこやかに笑ってみせ、全体の配置状況を示すコンソールパネルに視線を戻す。

茶番に付き合っている暇はない。今は演習の成功が第一だ。

 

〈客〉のいなくなったコテージで、宋光(ソン・グァン)下士と兵士達は、無言で顔を突き合わせていた。

警護対象者はすでにいない。それでも自分達は、通常通りに警護しているふりをしながら待機し続けねばならないという。

「宋光下士……」

部下の一人が何かを言いかけ、思い直したように黙ってしまう。

言いたいことは分かっている──

宋光は突然現われた上佐について考えていた。確かに107号はこれまでも頻繁に住居を変更させられている。しかしあの上佐の態度はどこか不審であった。

自分達は疑うことを許されてはいないし、そもそも疑うに足る具体的な根拠もない。

筋は通っているが、それでも万一のことがあればこの場にいる全員が〈処理〉されるのは必至であった。

介護士や調理師をはじめとする職員達も、不安そうな面持ちでこちらを見ている。

突然電話が鳴った。

兵の一人が立ち上がって壁際の台に走り、受話器を取る。

「……は、お待ち下さい」

応答した兵が、こちらに受話器を差し出す。

「鄭赫峰(チョン・ヒョクボン)特務上士からです」

国家保衛省に所属する鄭は、兒107号を監督する立場にある上司であるが、自らコテージに電話してくることは滅多にない。こちらから定時連絡を入れるのが通例であった。

宋光は嫌な胸騒ぎを覚えつつ電話に出た。

「お待たせしました、宋光下士であります」

〈鄭赫峰だ。107号の担当医師より連絡があり、先日処方した薬の効果について至急確認したいとのことだった。すまないが107号を呼んできてくれ〉

いきなり言葉に詰まってしまった。

〈どうした、就寝にはまだ間があるはずだが〉

「いえ、それが……」

〈寝ているようなら起こしても構わん〉

言葉が見つからない。あの上佐は上官にも口外するなと言っていた。なにしろ金正恩同志のご命令である。選択肢はどこにもない。

〈どうした、宋光。何を黙っている〉

異変を感じ取ったのか、鄭特務上士は声を荒らげた。

〈まさか、107号の所在を見失ったというのではあるまいな〉

「そんなことは……」

否定しようとしたが、最後まで言い切ることはできなかった。

〈これからすぐそっちへ行く〉

電話は切れた。

受話器を戻しながら、宋光は全身から血の気が引いていくのを感じていた。鄭は日頃から容赦ない苛烈な尋問ぶりで知られている。その追及に対し、自分は果たして抵抗し続けることができるだろうかと。

 

11号の発令所で当直士官が矢継ぎ早に発声する。

「本艦は一時間後〇三〇〇に出港する。各部は出港準備を開始し、完了後に報告せよ」

「ただ今より警報試験を行なう」

「ただ今より汽笛を試験する」

指示に従い、乗組員達がこれまでの訓練通りに行動する。

「〇二〇三に時刻調整を行なう。各部所は時刻調整の準備にかかれ……一分前……三十秒前……十五秒前……十秒前……五、四、三、二、一、執行。現時刻〇二〇三」

そして二時三分、時刻調整を終えた航海長の弓勇基(クン・ヨンギ)少佐は、持ち前のしゃがれ声で指示を飛ばす。

「演習用航海図の確認はしているのか。訂正が入っているぞ」

魂まで凍てつきそうなその声は、酒で潰したとも喧嘩でやられたとも言われているが、本当のことは誰も知らない。

「はっ、訂正を確認、修正済みであります」

「不具合箇所は修理完了か」

「完了しております、航海長」

航海長の部下達が他の部所の誰よりも俊敏なのは、〈水妖〉の異名を取るその声の恐ろしさゆえであるとも言われている。

通信長の呉鶴林(オ・ハクリム)大尉が整った眉根に皺を寄せて命令する。

「水上レーダー、VHF、UHF動作確認を行なう。水上レーダー、VHF、UHFアンテナを上げろ」

鶴林は次に自らマイクに向かい、

「港湾基地局、こちら11号、聞こえるか、港湾基地局」

〈11号、港湾基地局、感度明度良好〉

期待通りの返信を受けたとき、鶴林の面上に浮かぶ深い皺は消滅し、兵の間で密かに「南鮮(韓国)の映画スター並み」と囁かれる甘い容貌に戻る。

魚雷室では魚雷長の閔在旭(ミン・ジェウク)中尉が魚雷信号の配線をチェック、安全を確認。

機関室にいる機関長の白仲模(ペク・ジュンモ)上佐が機関員にディーゼルエンジンの再始動を指示。

セイルに出ていた桂艦長は、伝令からの報告を受ける。

「艦長、エンジン始動しました」

「ご苦労」

桂艦長は表情を変えずに言い、艦内に入った。

乗組員居住区画を抜け、艦の中央部に位置する発令所へと戻った艦長に洪副艦長が報告する。

「艦長、出港準備整いました」

「よし。各員その場で待機。演習統制本部の指示を待て」

落ち着いた口調で命じ、桂艦長は発令所を見回す。

副艦長と辛上佐がこちらを見つめて微かに頷くのが分かった。

 

日付が変わった十一月五日午前二時十三分、平壌の大城(テソン)区域龍北洞(リョンブクトン)にある保衛司令部指揮部では、1部から5部までの部長が集まって緊急会議を続けていた。普段使用される会議室ではなく、機密性の高い特別室を使用している。盗聴防止システムは完備されているが、その分密閉された室内の居心地は決していいとは言えなかった。実用一点張りの古い椅子も、化石化しているのかと思えるほどに硬くて痛い。

「新浦で間もなく演習が開始される。辛吉夏はすでに政治指導員として乗艦している。彼を逮捕しようとすれば、演習の遅れは避けられない。今から逮捕するのは無理だ」

組織計画部である1部の部長が言えば、捜査部である2部の部長が猛然と反論する。

「奴自身の不正蓄財を発見できなかったのは我々の落ち度だ。また演習の予定に影響を与えてはならないことも承知している。しかし、だからと言って共和国に対する裏切り者を放置することはできない」

「放置するとは言っていない。演習の終了を待って、艦が帰投したところで逮捕すればいいだけだ。潜水艦に乗っているのなら逃げ場はない。すでに拘束したも同じことだ。金総参謀部長に事情を説明し、帰投予定の港に部隊を配置しておけば万全だろう」

1部長の言は説得力があった。現状ではそれしか打つ手がないことを各人が理解している。

「分かった。では統制本部との連絡は1部に一任するとしよう」

1部は全体業務を統制し、軍団と師団以下の各保衛部隊への伝達の任を担っている。この場合、演習を指揮する統制本部との窓口としては最適であった。

 

午前二時十七分。鄭赫峰特務上士は、特別招待所に設置された電話のボタンを押していた。滲んだ汗で指が何度も滑りそうになる。電話をかける、ただそれだけの行為が、彼のこれまでの人生でも最大の難事業と化していた。

その背後では、整列した警備兵と職員達が一様にうなだれて立っている。職員の中にはすすり泣いている者も何人かいた。この先に待っている未来を思えば当然の反応だ。

「こちらは第48特別招待所、鄭赫峰特務上士である。大至急保衛司令部指揮部4部につないでくれ……最優先の緊急事態だ」

 

部長達が辛吉夏逮捕の段取りについて細部を詰めていたとき、ノックとともに少佐の階級章をつけた将校が足早に入室してきた。

「失礼します」

各部長が不快そうに顔をしかめる。

「会議中だ。入室は厳禁と言ってあったはずだぞ」

叱りつけた4部長に歩み寄った少佐が、その耳許で何事か囁いた。

4部長がたちまち顔色を変える。

「本当か」

「は、新浦でも確認させました」

「分かった。下がって待機してくれ」

「はっ」

少佐が退室するのを待って、4部長が他の部長達に向かって言う。

「辛吉夏が兒107号を特別招待所から無断で連れ出したらしい」

4部は監察部であり、軍関連犯罪を担当する。

他の部長達は互いに顔を見合わせた。

「あり得ない。どういうことだ」

2部長が詰問する。

「辛吉夏は総政治局員である自身の身分証を利用した。ただし所属を敵工部であると偽ったそうだ。さらに奴は、命令書を提示して警備に当たっていた兵達を黙らせた。その命令書には、あろうことか1号命令と記されていたらしい」

「まさか──」

他の部長達が絶句する。4部長は苦渋に満ち満ちた表情で、

「明らかに偽造だが、末端の兵にそれを確かめるすべはない。確認を求めることさえ許されてはおらん」

金正恩直々の命令書を偽造する──この国において、それは絶対に犯してはならない最大の罪であった。

「しかし、吉夏はなぜそんなことを。ばれるのは時間の問題じゃないか」

3部長が投げかけた当然の疑問に対し、2部長が捜査畑らしく即答する。

「107号を連れ出すことさえできれば、すぐにばれても問題はない──そう考えての計画的犯行に違いない」

その意味を悟り、部長達はさらに驚愕する。

4部長は最も苦い顔で付け加えた。

「報告はもう一つ。特別招待所からの急報を受けた部下が、新浦港に配置した保衛軍官に調べさせたところ、吉夏の乗艦に予定外の物資が搬入された形跡があるという」

その言葉に、他の部長達が一斉に立ち上がっていた。

辛吉夏の狙いは明らかだ──

「すぐに演習統制本部に連絡だ。奴の乗艦を絶対に発進させてはならん」

時刻は午前二時五十五分を過ぎていた。

 

(つづく)

関連書籍

月村了衛『脱北航路』

祖国に絶望した北朝鮮海軍の精鋭達。四十五年前、島根の海岸で拉致された日本人女性。宿命のように引き寄せられた彼らが、老朽化した潜水艦に乗って日本への亡命を企図した時、国際社会を揺るがす悲壮な闘いの幕が切って落とされた。一発でも魚雷が当たれば撃沈必至の極限状況。それゆえに生まれる感涙の人間ドラマ。超弩級エンターテイメント!

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月村了衛

1963年大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部文芸学科卒。2010年『機龍警察』で小説家デビュー。12年『機龍警察 自爆条項』で第33回日本SF大賞、13年『機龍警察 暗黒市場』で第34回吉川英治文学新人賞、15年『コルトM1851残月』で第17回大藪春彦賞、同年『土漠の花』で第68回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)、19年『欺す衆生』で第10回山田風太郎賞を受賞。他の著書に『白日』『非弁護人』『機龍警察 白骨街道』『ビタートラップ』などがある。

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