月村了衛さんの最新長編小説『脱北航路』が刊行されました。
「北朝鮮の海軍精鋭達が日本人拉致被害者の女性を連れて脱北する」
という衝撃の内容で、冒頭からトップスピード。
時間を忘れて読み耽ること間違いなしです。
潜水艦による決死の脱北、拉致被害者の救済、
迫りくる朝鮮人民軍の猛攻撃、艦内で渦巻く感涙の人間ドラマ……。
本書の刊行を記念して、試し読みを全4回でお届けいたします。
* * *
第7軍団司令部に設けられた演習統制本部では、管制官達が各部隊から続々と入る報告を受けていた。
〈演習統制本部、こちら射撃統制本部、第三回の陸上試験射撃完了、安全確認終了〉
〈演習統制本部、こちら空域管制、演習空域を飛行中の旅客機は空域を離れた。現在空域に航空機なし〉
〈演習統制本部、こちら海上警戒船67号、海域内を警戒中〉
〈演習統制本部、こちら気象隊本部、雷雲は東方に抜けた。現在空域に雷雲なし。ただし31区から42区にかけて高度5000フィートに積乱雲が点在〉
最新の気象情報も天候が思わしくないことを告げていた。さらに悪化する兆候も見せている。
それでも演習に影響はないはずだ。今回の演習海域は領海外へも広がっているが、南鮮や日本まで侵攻しようというものではない。
何も問題はない──金総参謀部長は改めて自らに言い聞かせる。
午前二時五十七分。無数のディスプレイを見つめる総参謀部長に、副官である趙海星(チョ・ヘソン)大佐が告げた。
「閣下、保衛司令部より緊急連絡が入っております」
「演習開始時刻が迫っている。後にしろ」
「そう伝えたのですが、向こうは最重要案件であると繰り返し──」
「では君が代わりに聞いておけ」
「承知しました」
午前二時五十八分。艦長、航海長、航海員、及び警戒員はセイルの上にある上部指揮所に立ち、夜の潮風に晒されていた。
桂東月(ケ・ドンウォル)艦長は全身を切り刻まれるような苦痛に耐える。風の冷たさにではない。まったく別種の苦痛にである。
無数の土嚢でも背負ったかのように、時間がその進行速度を鈍らせる。地上では光速で過ぎゆく時間が、今は海底の亀よりものろい歩みを見せていた。
まだか──時間よ、早く──
焦ってはならない、そう自らを戒めつつ、東月は暗い海を眺める。
隣に立つ弓(クン)航海長は言うまでもなく、発令所にいる洪(ホン)副艦長や機関室の白(ペク)機関長らも息を詰めて出港の時を待っていることだろう。
東哲(ドンチョル)──
東月は静かに弟を想う。憤怒の念が甦り、疲弊した身体と精神の熱源となる。
見ていてくれ──おまえの無念は、俺が必ず──
午前三時。曳船から舫が解かれた。
「艦長、曳船離れました」
弓航海長の報告にすかさず応じる。
「潜水艦11号、出港。針路2─0─0、前進微速」
航海長がインターコムに向かい、
「右舵30度、両舷前進微速」
指示はすぐさま発令所から機関室へと伝えられる。
「舵を中央、両舷半速、新浦航路に入る」
航海長の指示に続き、航海員と警戒員が口々に発する。
「新浦西2号航標まで距離1海里」
「左20度、距離300に操業中の漁船」
「漁船確認した」
航海長が漁船を回避し、艦は港外へと出る。夜が一層黒く冷たくなった。
「新浦西2号航標を抜けた。針路速力このまま、次の転針点まで1.2海里」
弓勇基(クン・ヨンギ)の指示は常に的確だ。航海員の信望も厚い。ただし、地を這う風よりも低くしゃがれた声の聞き取りにくさだけは不評のようである。
馬養(マヤン)島から30キロ以内は水深50メートル前後の海域が続いているため、そこを抜けるまでは潜航できず、水上航走を続ける必要があった。
馬養西信号所を抜けてから、東月は勇基らとともに垂直ラッタルを下りて発令所へ移動した。上部指揮所に残った警戒員は、航海用具の後片付けと水密作業を行なってから移動することになる。
発令所区画内、進行方向に対し左の並びにチャート室とソナー室に挟まれる恰好で設置されたレーダー室から、レーダー員の努永三(ノ・ヨンサム)上士が告げる。
「馬養岬まで1.06海里」
「左舵10度」
航海長の指示を柳秀勝(リュ・ススン)操舵員が復唱する。
「左舵10度」
東月はそこで一際声を張り上げて命じた。
「両舷、全速」
艦全体がやや傾くのが分かる。
目に浮かぶ──左舵を取って傾いているところへ速力を上げたため、旋回する艦の舳先から白い波が美麗に流れる。すべての船乗りが高揚を覚える一瞬である。
だが今の東月には沸き立つ血さえ失われている。ただひたすらに〈計画〉を進行させるのみだった。
「艦長、現在馬養島南2200、針路090、速力12ノットです」
馬養島沖を東進するのは、馬養島の監視塔や近くにいる艦艇の疑いを招かぬための用心だ。
航海長の報告に頷いて、東月はおもむろに発する。
「両舷、速力15ノット」
これから艦は一直線に演習海域へと向かうことになるのだ。
海軍潜水艦部隊の先陣を切って11号は水上航走を続けている。水上艦艇もすべて出港準備を終えつつある。
空軍戦闘機部隊では、大勢の整備員が機体の周りで作業を続けている。
陸軍沿岸砲部隊は、ロケット砲部隊、榴弾砲部隊車輛のエンジン始動、海岸への移動に向けて準備中である。陸軍特殊部隊も配置に就いた。
「第25航空連隊第1大隊全機対艦ミサイル搭載完了」
「特殊作戦航空大隊全機離陸準備完了」
「旗艦護衛艦23号すでに出港済み、現在、魚雷艇部隊出港中」
「第38沿岸ロケット大隊、ロケット弾装填完了」
演習統制本部内のあちこちで管制官達の声が飛び交っている。
複数のディスプレイでそれらの映像を確認し、総参謀部長は深い満足感を覚えた。
「金正恩(キム・ジョンウン)同志もきっとご満足なさることでしょう」
崔中将の言葉が自慢にも追従にも聞こえないのは、実際に各艦の動きが勇壮且つ整然とした美を夜の海上に放っているからだ。
誰しもがその光景に陶然としていたとき、
「閣下っ」
顔色を変えた趙大佐が走ってきた。
「何事だ」
うるさそうに振り返った総参謀部長と司令官達に、大佐は裏返った声で告げた。
「11号を停船させて下さい、早く、一刻も早くっ」
「何を言っているんだ、君は」
崔中将が呆れたように言う。
「保衛司令部より連絡あり、総政治局の辛吉夏上佐が兒107号を特別招待所より拉致し、11号に乗艦させた疑いありとのことです」
高官達は一人残らず音のない稲妻に打たれた如くに硬直した。
「馬鹿な、政治指導員がどうしてそんなことをせねばならんのだ。敵の攪乱ではないのか」
「保衛司令部によると、辛上佐には拘束命令が出ているそうです。そのため、今回の演習に乗じて亡命を図っているものと──」
海軍部隊指揮官の姜中将が管制官の一人に問う。
「11号の現在位置は」
「新浦基地から東方20海里、10ノットで東方に移動中」
事態の緊急性と重大性を理解し、金総参謀部長は自分でも老いた鶏のように聞こえる声で叫んだ。
「直昇飛行機(ヘリコプター)で接近し特殊部隊を降下させろ。潜水艦に乗り込み、逃亡を阻止せよ。射撃を許可する。実弾搭載艦は11号を追跡、射程内で射撃待機。空軍機は対艦兵装を搭載して上空待機。絶対に潜航させてはならん。沈めずに拿捕するのだ」
本当に兒107号が11号に乗っているのなら、撃沈するわけにはいかない。
だが、最悪の場合は──
潜水艦11号の発令所で努永三レーダー員が叫んだ。
「妨害電波により水上レーダー不能」
来たか──第55航空旅団第1大隊の分遣隊だな──
東月は心中で呟く。
Su─25K攻撃機スホーイがECMで電波妨害を行なっているのだ。演習統制本部は明らかに拿捕を目的としている。次に想定されるのは、破片効果榴弾であるS─5Mロケット弾を炸裂させて破片を振りまき、こちらの動きを止めようとする攻撃だ。狙ってくるのは、マストと艦尾か。一発で七十五個の破片を炸裂させる破片効果榴弾であるS─5Mは、こちらの航行を止めるのに最も適した兵器であった。
「空軍機だ。ロケット弾が来る。電波探知作動」
ESMマストは妨害電波の発信方向のみを探知することを可能とする。
「方位290より強電波受信」
努上士の報告に、
「デコイランチャー、発煙弾準備。警戒員、上部指揮所で敵弾観測配置」
ヘルメットと防弾ベストを着用した警戒員二名が急ぎ上部指揮所に上がっていく。
〈発煙弾投射準備完了〉
〈上部指揮所配置完了〉
〈方位290、低高度、スホーイ三機接近〉
機関員と警戒員の報告が立て続けにインターコムから流れてくる。
「総員衝撃に備えろ」
洪昌守(ホン・チャンス)副艦長が怒鳴った次の瞬間、警戒員の声が響いた。
〈スホーイ、ロケット弾を発射〉
艦内に動揺のざわめきが広がる。
「なんで撃ってくるんだっ」
憤慨と困惑の入り混じる声を上げているのは、〈計画〉について知らない士官だ。
次の瞬間、艦全体が衝撃と轟音に揺れた。一拍の間があって、まるで民家の屋根に降り注ぐ霰のような音が響いてきた。破片弾が船体外殻を叩いているのだ。
「発煙弾投射」
東月の命令により発煙弾が投射される。
上空のスホーイには艦が被弾したように見えたことだろう。二次攻撃を煙幕で防ぐ効果も期待できる。
〈上部指揮所一名負傷〉
「救護員、上がれ」
副艦長が命令すると同時に、警戒員の声が伝わってきた。
〈後方から直昇飛行機四機接近。距離2海里〉
「上部指揮所、各員戻れ」
昌守は急いで次の指示を下す。
李清敬(リ・チョンギョン)副政治指導員が蒼ざめた顔で上官の吉夏に向かい、
「こんな訓練計画は聞いておりませんが」
「直前に変更されたのだ。乗組員の練度を確認するためのものである。何事に対しても冷静に対処していれば問題はない」
吉夏の説明に、清敬も納得している。
〈上部指揮所閉鎖。警戒員二名、救護員二名全員収容〉
艦内放送がかん高く告げる。
「ベント弁開け。メイン・バラスト注水。急速潜航」
そう命じてから、東月は側に立っていた吉夏の耳許で囁いた。
「思ったより早かったな。保衛司令部にでも嗅ぎつけられたか」
「なに、予想の範囲内ですよ」
軽い口調で応じた吉夏は、しかし自らの失態をごまかすようにうそぶいた。
「英雄たる桂東月艦長なら、この程度は楽に切り抜けられるでしょう」
「君に教えておいてやろう。海での戦いにおいて、楽に済むことなど一つもない」
吉夏への腹立ちを抑えつつ、
「対水上電探、電支下げろ。第二潜望鏡」
第二潜望鏡を覗き込んだ東月は、演習統制本部の打ってきた手に少なからず驚いた。
特殊作戦軍海上襲撃旅団分遣隊のMi─8輸送ヘリであった。
潜水直前のこのタイミングで特殊部隊を送り込むのか──
統制本部もそれだけ必死だということだ。
特殊部隊はヘリからファストロープ降下で乗り移ってくるに違いない。潜水艦の昇降ハッチは非常時に備え外部からでも開けられるようになっている。
だがこちらはすでに潜航を開始している。
ギリギリだが、逃げ切れる──
そのとき艦全体が着底したかのようにがくんと揺れた。多くの乗組員が慌ててバランスを取っている。
「潜航が止まりました」
航海長が苦々しげに言うと同時に、インターコムから機関長のさらに苦い声が聞こえてきた。
〈ロケット弾攻撃により注水ベントに不具合発生。配線の問題かと思われます〉
「ただちに修理にかかれ」
副艦長が間髪を容れず指示を下すが、ヘリは依然接近中なのだ。
水上航走中の潜水艦とヘリとでは速度に差がありすぎる。
乗組員達は全員が不安そうに頭上を見上げていた。
吉夏もさすがに脂汗を浮かべている。他の者達と違い、〈計画〉を知っているだけに生きた心地もしないといったところか。それは東月とて同じである。
追いつかれた──
第二潜望鏡の中で、艦の上空に達したヘリがホバリングしている。
特殊部隊がファストロープ降下を開始した。昇降ハッチを開けられたらおしまいである。瞬く間に艦内を制圧されるだろう。
頭上で断続的に軽い音がした。特殊部隊員が次々と甲板に降着しているのだ。
「なんなんだ」「これは本当に演習なのか」「まるで実戦じゃないか」「特殊部隊とやり合うなんて話、聞いてないぞ」「さっきの攻撃と関係あるのか」
乗組員達が騒ぎ始めた。
突然、ハッチから金属が大きく軋む音が伝わってきた。専用の装備でハッチをこじ開けようとしているのだ。
「おい、何やってんだ?」「さあ?」「乗り込もうとしてるんじゃないのか」
乗組員達がいよいよ動揺を見せる。
老朽艦とは言え潜水艦の昇降ハッチを外から開けるには多少の時間がかかる。民家のドアとはわけが違うのだ。その間に艦が潜航し始めたら彼らは暗黒の海に投げ出されることになる。こちらの故障を知らない彼らは、万一を慮って爆薬を使おうとするかもしれない。いや、すでに演習統制本部から爆薬使用の指示が出ていると考えるべきである。
「修理はまだかっ」
副艦長がインターコムに向かって叫ぶ。
〈あと一分待って下さい〉
「待てないっ。早くやれっ」
ハッチの外から響いていた騒音がやんだ。やはり爆薬の準備にかかっているのだ。
「機関長、まだかっ」
〈配線修理完了。注水できます〉
時を移さず東月は叫んだ。
「急速潜航、ベント弁全開、下げ舵10度」
間に合うか──
(つづく)