五木寛之作品の間でもファンが多い究極の恋愛小説『雨の日には車をみがいて』。本書に登場する9台の車たちは、いったいどんな車たちなのか。「ベストカー」初代総編集長が、その描写の魅力を解き明かす本連載、第4回は「アルファ・ロメオの月」(『雨の日には車をみがいて』第2話)に出てくるアルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スパイダーの話。
<第2話あらすじ>
シムカと別れたあと、放送作家として本格的にスタートした「ぼく」は、著名な作曲家・川西晃と知り合う。紳士的な川西を崇拝した「ぼく」は、個人的な交友も深めていくことになる。しかも川西はイタリア車の、それもアルファ・ロメオのオーナーだった。「どうしても一台、手放さなければならない車がある。(中略)その車をきみに譲りたいと思うのだが」。しばらく後、シャム猫のような不思議な雰囲気をもつヴィオリスト、秋野晶子と出会ったのも、川西が譲ってくれたジュリエッタ・スパイダーとのつながりからだった。
手元から去って行った車の「それから」がどうなっているだろうか、次のオーナーに大事にされているだろうか、などと考えない車好きはいない。特に初めての車なら、なおさらその想いは強いものだろう。
そうした心理を、五木はあえて「告白」している。第1話で登場した、人生初めての車、シムカ1000がエンジン・ブロックに大きな穴をあけ、走るのをやめてしまい、その別れの顛末を「第2話 アルファ・ロメオの月」の書き出しにつなぎ、克明に記している。
動かなくなったシムカの廃車届けを出したのは、二月にはいって間もなくだった。たしかカシアス・クレイが世界ヘビイ級のタイトルマッチに勝って、新チャンピオンになった日の翌日のことだったと思う。
寒い日だった。放出品のネイビーの重いダッフルコートを着て、四谷の陸運事務所に出かける「ぼく」の様子は、シムカを失って胸に大きな穴があいてしまったことを容易に想像させる。
横柄な係官の対応にも耐えて、書類づくりを終え、「〈たそがれ色のシムカ〉を完全に地上から抹殺する法的な手続きに成功した」。
車そのものは日暮里の屑鉄業者が引きとっていった。ほとんどただ同然だったが、SIMCAの文字と燕のマークの付いたキーホルダー、それにスペアキーだけは手もとに残った。今でもそれはぼくの机のいちばん下の引出しにある。それを見るたびに、ぼくは搖子の言葉を思い出した。
〈車は雨の日にこそみがくものだわ〉
初めての、愛しき日々を倶にした車を葬送する男。車との付き合いに心を注ぐとは、こういうことなのか。
この“葬送”が冒頭に描かれている第2話には、「ぼく」とあとで知り合う秋野晶子という不思議な魅力を持つ女性が出てくる。車はジュリエッタ・スパイダーが中心になるこの物語は、晶子の印象が強い読者が多いかもしれないが、イタリア車の優雅さや、その息づかい、運転のリアルさがすばらしく描かれているのは、物語前半の川西晃とのやりとりの中で、だ。女性を愛せない川西の心理まで、イタリア車の魅惑に乗せられ、繊細に語られる。
重いダッフルコートを脱ぎ捨てるころ、「ぼく」はその川西を通じて、真っ赤な衣装を纏った、官能な走りが売りのイタリアン・オープンカー(ジュリエッタ・スパイダー)と出会うことになる。
次の番組の打ち合せを終えたある日、川西はいつものように「ぼく」を食事に誘った。これまでも、「ぼく」がそれまで一度も行ったことのない住宅街のフランス料理店や秘密クラブめいたイタリアン・レストランなどに案内され、親睦を深めていたが、その日の食事の後は狸穴の酒場へ。そこで彼はさりげなく、今度、新しい車を入れることになったと告げる。
「新しい車?」
「そう。もちろんアルファ・ロメオだが、去年発表された、最新のオープンのグラン・トゥリスモさ」
「スパイダー1600・デュエット!」
と、ぼくは叫んだ。
「あれをお買いになるんですか。すごいなあ」
ぼくはその車の実物を見たことがなかった。日本にはいっているかどうかさえもわからない。だが、自動車の専門誌で、その巨大な魚を思わせるピニンファリナ・ボディを、ふしぎな気持ちで眺めたことがあった。
ここからは五木のイタリア車への熱く深い、練りこまれた考察を、川西が託されたかたちで、披露する圧巻のシーンが続く。「中世から一足とびに現代へやってきたイタリア人。」彼らは「本能に忠実に、美とスピードだけを目的に車をつくりあげる」、と。
実は後年(1987年)五木はTV番組で「なぜイタリアにルネッサンスが興ったのか」を探る取材でイタリアに飛び、撮影用にレンタルしたのが、このアルファ・ロメオ・デュエット・スパイダーだった。川西が買おうとしていた車だが、物語のほうは「ぼく」と「ジュリエッタ・スパイダー」が出会う運命へと刻々と進んでいく。
川西が切り出した。自分の車庫には三台が精いっぱい。どうしても一台、手放さなければならない。もしよかったら、その車を譲りたいのだが、と。
ぼくは突然、自分が酔っぱらっているのではないかと思った。彼が所有している車といえばアルファ・ロメオ以外にはない。この人は正気でそんなことを言いだしたのだろうか。(中略)ぼくの気持ちを鋭く見抜いて川西晃は言った。
「一九六一年のジュリエッタ・スパイダーなんだ。きみも知っているだろうが、とても軽い二座のオープン・ボディでね。残念ながらヴェローチェじゃなくて、ノルマーレの1・3リッター・ツインカム80馬力の可愛い車だが、まだまだ軽快によく走るよ。(中略)きみなら、と思ってきいてみたのさ」
「ほんとにぼくに譲ってくださるんですか?」
その週の土曜日、川西が手放していいと言うジュリエッタ ・スパイダーを箱根に持ち出して川西と走らせる。その試乗記は、車のコンディションからエンジンからギア、ボディラインに至るまで圧巻である。ある時期、五木は日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員を委嘱されたことがあり、この同じ箱根を舞台に選考対象車を全車試乗した「至福の記憶」をエッセイで綴っていたことがあるが、その体験がおおいに活かされているのではないか。
アルファ・ロメオ独特の盾のグリルを、やや前傾してとりつけたジュリエッタは、二名の乗り手だけのための本物のスポーティカーだった。
ぼくたちは冷たい風の中を、髪をなびかせながら次々にコーナーをクリアしていった。ピレリのタイヤが歌をうたうように鳴く。五年たったとは思えない素晴らしいコンディションの車だった。
ぼくには1290ccのツインカム4気筒がエンジンではなく、まるで楽器のように思われた。鏡のように美しくみがかれたギア・フェンダー。柿の種のような尾燈。そして、シンプルでしかも流麗なピニンファリナのコーチワークになるボディライン。
この後、物語は、「ぼく」にとっては思いがけない川西からの告白があり、ややぎこちない関係へと変化してしまう。「あの美しいジュリエッタも、今後、二度とぼくの前にあらわれることはないだろう」と諦めかけたところに、川西から連絡が入ったのは、五月になってのことだった。
「車をとりにくる気はないのかい」。優しい声だった。「ジュリエッタが淋しがってるぜ」、と前置きして、「変な気を回したりせずに、さっさと車をとりにきたまえ。そうしないと、あの車を欲しがっている若い女の子に、安く叩き売ることになるかもしれないよ」、とユーモアをこめて脅してくるではないか。
「すぐ行きます」。
銀行に寄ってあるだけの貯金をおろし、川西のところへ駆けつけたところから、新しいストーリーに移っていく。
川西の自宅には、譲ってもらうはずだったジュリエッタが「淋しそうに車庫の隅に眠って」いて、そこには不思議な雰囲気を持った女性も一緒に「ぼく」を待っていた。
秋野晶子。ヴィオラを学ぶ音楽大学の学生で、川西晃の個人レッスンを受けていた。この後、ジュリエッタと絡み合いながら、それからの日々を強烈に甘美に、その気まぐれな行動に引っ掻き回されながらも、起伏の激しい愛を交わし合うことになる。所載の9話の中でもっとも情炎度の高い、イタリア車の似合う女性ではなかろうか。
夏が過ぎ、秋が過ぎて行った。心を決めて「ぼく」は秋野晶子に結婚を申し込むが、その時の彼女はだまって首を振るだけだった。ところが、年が明けると彼女から電話がかかってきて「まだ結婚のこと、あきらめていないの?」と。「わからない」と答えると、「今そうしてもいいような気がしてるの。会ってちょうだい」
千変万化の晶子。女性の持つ無気味なもののなせるわざに振りまわされながら、ジュリエッタを交えた新しい日々を丁寧に追うこの物語は、やがて晶子の告白から謎解きが始まる。月の満ち欠けや潮の干満が彼女のからだと感情の動きまで変えてしまう。「だからあなたを苦しめてしまうのね」と。
ぼくは黙っていた。しばらくして彼女の電話はむこうからきれた。ぼくは部屋を出て車庫へ行き、シャッターをあけて、ぼくのアルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スパイダーを眺めた。みがきぬいたつややかなフェンダーに、黄色い光が映っていた。ぼくは何かに引きよせられるように空を見あげた。
空にはレモン色の半月がかかっていた。ぼくは頭の中で、秋野晶子が窓にもたれてその月を眺めている表情を想像した。
このイタリア車と、それにまつわる物語のマドンナに触れると、不思議と60年以上も前に産まれたはずのその車に逢いたくなる。
川西も「ぼく」も晶子も、そして月をも吸い寄せてしまいそうな魅力を持つ赤いジュリエッタ・スパイダーは、目の前にあらわれた途端、メカニックであることを超え、官能をまとった血が通う動物のように息をひそめてそこに存在するのかもしれない。願わくは、我にその機会を与えたまえ。彼らを吸い寄せたものの正体に、その片鱗でもいい。触れる機会が今後訪れんことを。
<了>
■〈ワールドモータース〉がローマで捕獲した絶滅危惧種の「初代ジュリエッタ・スパイダー」
量産車メーカーに方針転換したアルファ・ロメオが、さらに生産規模を拡大するために開発した小型モデルで、ベルトーネの当時のチーフスタイリスト、フランコ・スカリオーネがデザインした2ドアクーペをベースに、ピニンファリーナがオープンボディのスパイダーをデザインしたもの。
その初代ジュリエッタ・スパイダーが誕生してから60年、すでに幻の名車のお仲間入りをしてしまった。だからこそ、なんとか生(なま)のジュリエッタの走る姿に逢えないものか、いろいろと手を尽くしてみた。
何件か空振りに終わったあと、広島でジュリエッタのスパイダーはもとより、そのワンランク上のスプリントも扱っているカーショップがある、という情報を得た。ワールドモータース・グループに、すぐに電話を入れる。担当者の若々しい声が頼もしかった。彼がローマ市内の現地に赴いて直接に貴族の流れを汲むオーナーから入手したものだという。
「そのジュリエッタ スパイダーは、1961年製で、3オーナー車です。1971年に2代目オーナーがこの車を所有した際にフルレストアを施して以降、屋内ガレージ(納屋)に毛布に包んで保管し、晴天の週末のみ使用していたとのこと。今のオーナーは2代目オーナーのお嬢さんで、父娘2代で長年大切にされてきたこの個体は、非常にオリジナル性の高い1台と言えます。いやあ、あの毛布の中からあの鮮やかな赤のボディが出てきた時には感激しました。人と車に歴史の詰まった貴重な1台でした」
もちろん、すぐに東京在住の買い手がついて、撮影と試乗ができるかどうか、連絡が取れるだろうとのこと。ついで試乗感を訊いてみた。
「軽い。それも〈しなやか〉。アクセルワークとシフトチェンジに「コツ」が入ります。ギアの付け根がシンクロしにくいみたいで。ダブルクラッチする要領でシフトチェンジすると気持ちよく応えてくれるみたいでした」
胸を弾ませて、翌日、連絡を入れると、ご本人がナロー・ポルシェ(第1世代の911)に乗り替えることになって、ジュリエッタは残念ながら手放していたとのこと。シムカ1000に続いて今回もまた、味見試乗の企みは空振りとなってしまった。次回はBMW2000CSクーペを予定している。筆者もある時期、6気筒の320、次に325、そして633CSiと3台を乗り継いだ時期がある。「2000CSクーペ」だけは、何としても想いを遂げさせて欲しい。
「初代ジュリエッタ」写真提供:(株)ワールドモータース・グループ
■アルファ・ロメオの歴史、ロゴ、エンブレム
1910年、イタリア・ミラノで誕生。当初は「ロンバルダ自動車製造会社(Anonima Lombarda Fabbrica Automobil:A.L.F.A.)としての創業だった。
創業1年目の生産車『24HP』でレースに参加、その後も『30HP』『40-60HP』を生産し、スポーツカーメーカーとしての地位を築いていく。
創業8年目、ニコラ・ロメオ技師有限会社を吸収合併、1920年に生産した『ALFA-ROMEO』の文字が刻まれたことから、改めて社名とし、レースでの結果が自動車メーカーにとっての生命線と定め、アルファ・ロメオ初期の高性能レーシングカー『R Lシリーズ』を産む。このR Lシリーズは競争力が高く、様々なレースを席巻し、瞬く間にアルファ・ロメオ の名前が世に響き渡った。
この追い風を背に高級乗用車『6C』を開発、栄光の時代を切り拓いた。が、第2次世界大戦突入、1943年のミラノ大空襲により本社工場は焼け野原となる。
大戦終息後はスタンスを180度転換、より利益を求めて、大衆車開発へ。しかし、レースで培ってきたエンジンのノウハウなどを惜しみなく投入し、民衆からの支持を得る。DOHCエンジンの搭載、全輪独立懸架化がそれで、世界の潮流に先んじた。
■ 名車「ジュリエッタ」の登場
1954年に開発された「ジュリエッタ」は排気量1.3ℓと小型車ながらも160km/hの最高時速をマーク、当時としては異例ともいえる性能の高さを見せつけた。その上、コンパクトで使い勝手のよさから、ファミリーカーとしても評価され、ジュリエッタの名前は瞬く間に広がった。
日本国内では2012年から147の後継モデルとして『ジュリエッタ』の名が復活している。その後、1962年に現在のアルファ・ロメオ にイメージを決定づけたと言って過言ではない「ジュリア」シリーズがデビューする。
■アルファ・ロメオのエンブレム
左半分が赤十字で、右半分が人を呑みこんでいる大蛇のマーク。赤十字は、十字軍遠征時に聖地エルサレムの地に初めて十字架をたてた人がローマ出身だったことに由来し、ローマ市の紋章と同じものを配置している。
人を呑み込んでいる大蛇は、カトリック系の最高位であるローマ教皇を世に出したヴィスコンティ家の先祖が、人食い大蛇を退治したことに由来。
それぞれ、イタリア・ローマに由来するもので、このエンブレムの基本形は100年以上、変わることなく現代に受け継がれている。時代を切り拓きつつも、伝統を重んじるアルファ・ロメオの姿勢。時代の荒波に晒されながら生き抜いてきたイタリア野郎の熱血とエネルギーが籠められている。ちなみに1950年に発足したF1の最初の年と2年目の年間王者は、アルファ・ロメオであった。
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『雨の日には車をみがいて』と車たち
恋愛小説でありながら、9台の名車が鮮やかに描かれる『雨の日には車をみがいて』(五木寛之著)。名著復刊を記念し、本書に出てくる素晴らしき車たちと作家・五木寛之とその時代についての思い出を、「ベストカー」初代総編集長が綴る。