恋愛小説の女王、小手鞠るいさんの最新刊『情事と事情』の試し読みです。
すべての愛には、裏がある。上品で下品な大人たちの裏事情とは。
第一話 優雅なお茶の時間──Tea Time in an English Inn
やたらに高い天井から無駄に豪華なシャンデリアがぶら下がっている、いわゆる高級ホテルのティーラウンジ「オールドローズ」のだだっ広い飾り窓の向こうには、皇居のお堀が見え隠れしている。中央に置かれたグランドピアノの前で、黒いロングドレスを身にまとったピアニストがショパンを弾いている。
『英雄ポロネーズ』──。
誰ひとりとして自分の演奏に耳を傾けていないとわかる場で、あくまでも真剣に弾き続けるのは、ある種の苦行ではないのだろうか。
中条彩江子は、痛々しいほど白い、彼女のむき出しの肩を見たとき、まずそう思った。
若くて細くて可愛い。
というだけで、彼女には、こういう場所における存在価値がじゅうぶんあるのだろう。使い捨てにされる運命にあるからこそ、一瞬の輝きを放っている存在価値が。彼女はそのことを自覚しているのだろうか。自覚していても、いなくても、彼女は不幸な女だ。なんて思っている私は、とってもいやな女なのだろうか。
たとえば、すでにしっかり落ちぶれている男性有名人がふんぞり返って、才能のあふれている若い女優に「きみ、可愛いね」などと平気で宣い、それに対して「ありがとうございます」と、頭を下げて可愛く答える。そういう演技をしている女優に、彩江子は彼女を重ね合わせてしまう。
テーブルの上には、編集者が注文した、コーヒー&ひと口サイズのスイーツ五種類付き、七千五百円のセットが並んでいる。彩江子にとっては、会社の経費で落としてもらえなかったら、とても注文できないような代物だ。まわりの女性客たちは何食わぬ顔をして、もっと高いセットを注文し、優雅なお茶の時間を楽しんでいる、ように見える。
優雅。
口には出さないで、彩江子はつぶやく。
ショパンを雑音に変えてしまうような笑い声としゃべり声。自由と快楽を謳歌しているに違いないうら若い女性たちと、金銭的な余裕と暇を持て余しているに違いない年配女性たちのグループが目に付く。
そのどちらにも属していない私。人生のパートナーもいないし、恋人と呼べるような人もいない。帰ったら喜ばれるような実家もない。あと二年ほどで、四十代になる。日本社会の基準によれば、もう若くはない。仕事はある。いや、仕事しかない。しかし、その仕事がいつまであるのか、保証はまったくない。
彩江子はふっと、視線を宙に泳がせる。
私はこんなところで、何をしているのだろう。
* * *
淡いピンクの花を咲かせたものがひと株。
白い花びらに赤の斑入りのものがふた株。
合計三株の小さな薔薇がブルーの陶器の壺にきれいに収まって、まるで「私たち、昔から、ここで咲いていました」と、囁き合っているように見える。
仕事場のマンションのベランダで、結城愛里紗は、今しがた壺に植え替えたばかりのミニ薔薇を見つめながら、ほっとひと息つく。
小一時間ほど、土や根と格闘していたのに、汗ひとつ、かいていない。
──愛里紗は体温が低いね。
結婚したばかりの頃、夫の結城修からそう言われたことを、ふと、思い出す。
──ほら、ここも、こんなにひんやりしてる。
夫の手で乳房を撫でられた夜のことを思い出しても、熱くはなれない。最後に体に触れられたのがいつだったのかも、思い出せない。あれは嫌い、と、愛里紗はぼんやりそう思う。だって、汗をかくもの。私はかかなくても、あの人がかく。だから、いや。
結婚して十三年。今は、三十八と四十九の夫婦。
愛里紗にとって夫は遠く、あくまでも、ふと、思い出すような存在でしかない。いわば、ぼやけた遠景のようなもの。
近景は、この薔薇。
目の前で咲き揃っている、可愛らしい淡い、ひと重咲きのオールドローズ。色は「ピンク」と言い表したとたん、この、柔らかくて、清楚で、上品な花の色が下品になるような気がして、もとの容器から抜き取った説明書きに記されている色の名称を、愛里紗は「プラムシャーベット」と言い換える。
もう一種類の薔薇の「斑入り」も、気に入らない。白い花びらに刷毛でさぁっと撫でたように入っている、この真紅のストライプは、この薔薇の抱えている秘密というか、疑惑というか、企みというか、衝動というか、そんな危うい何かに見えている。危うさに、斑入りという言葉は似合わない。
危うさを表すために、ふさわしい言葉は何。
シャドウ。シークレット。そんなの、当たり前過ぎる。だったら何。
花のことになると、つい、真剣になってしまう。
この花にふさわしい、美しい秘密、あるいは企みを象徴する言葉は。
ミステリー。そう、これだわ。
愛里紗は微笑む。柔らかく、とても優雅に。
* * *
悪魔的な手。
というものがこの世にあるとしたら、それはこの手。
水無月流奈は、右隣に横たわっている男の左手を取り上げ、顔の前に掲げて、しみじみそう思う。掲げ持って、自分の両手で包み込んだり、撫でたり、さすったり、甲に浮き出ている血管や骨や、手のひらの生命線を、なぞったりしてみる。
優雅な指。
というのは、こういう指のことを指して言う。
流奈はひとり、うっとりする。長さといい、形といい、全体的なバランスといい、さわったとき、さわられたときの感触といい、これ以上の指を持った人がこの世にいるとは、到底、思えない。
爪は十個とも、極端なまでに短く、切り揃えられている。指の先は流奈に、ちびた鉛筆の芯を連想させる。細長い指は男っぽいのに、先端はまるで赤ん坊みたいだ。このギャップがたまらなくいい。さわられているとき、に。
悪魔的に優雅な指先。
「何してんの、ルナ。またボクの手で遊んでる。何がそんなに楽しいの。ボクの指、そんなに珍しい?」
佐藤玲門に名前を呼ばれるとき、流奈の耳には自分の名前が「ルナ」と、カタカナで聞こえる。僕も「ボク」としか聞こえない。流奈も玲門を呼ぶときには「レイモン」と、英語風な発音になる。
日本社会では中高年に仕分けされる年齢でありながら、若い男と、互いをファーストネームで呼び合うこの関係を、流奈は恥ずかしくは思っていない。照れはあるし、開き直りもある。けれど、自分にはこういう関係が似合っている、という自信と誇りもある。情事も睦言も、たとえ下品な行為であっても、それを私がやれば、上品になる。
ふたりは、ロンドンで知り合った。
単なる知り合いだった頃には、英語で会話をしていた。流奈は当時、玲門の母親が日本人女性であることを知らなかったし、玲門は、流奈が中国人なのか、韓国人なのか、ヴェトナム人なのか、日本人なのかに関心がなかった。もちろん、流奈の年齢にも。愛し合うようになってからは、流奈が日本人であることに大いに関心を示した。「ルナって、ちっとも日本人っぽくないね」と言いながらも「日本語で会話できるの、うれしいよ」「ねえ、日本のこと、もっと教えて」と。
「ルナ、もう一回したい? 高級な大人の遊び」
くるりと体の向きを変え、胸の上に覆いかぶさってきた男の両腕に抱きすくめられ、一瞬、息が止まりそうになる。抱きしめられたまま、首筋にキスをされ、耳たぶを嚙まれる。耳の中に、舌が入ってくる。
悪魔的に優雅な欲望。
流奈の口から声が漏れる。女じゃなくて、これは雌の声。
そのあとに「やめて」と、人間の言葉を口にしたら、三十以上も年下の、不誠実で忠実な雄は、上品で下品な遊びを本当にやめてしまうとわかっているから、流奈は乱れそうな息を抑えて、みずから玲門の唇に口づける。
(次回に続く)
情事と事情
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