恋愛小説の女王、小手鞠るいさんの最新刊『情事と事情』の試し読みです。
すべての愛には、裏がある。上品で下品な大人たちの裏事情とは。
「はぁっ、お疲れさまでした。ここだけの話だけど、ほんっとに下らないインタビュー、中条さんのおかげで、なんとか終わらせることができて、ほっとしてます。あんな底の浅い、人工甘味料みたいな作家を相手に、そつなく仕事ができるのは、中条さんだけです、ほんと」
編集者の勤務している出版社のある神保町までいっしょに電車で戻ってきて、社屋の近くにある喫茶店に落ち着くと、彼女はまず彩江子を労ってくれた。
「こちらこそ、ありがとう。時代錯誤が甚だしくて、途中で何度か切れそうになったけど、うまく助けてもらえてよかった」
五つ年下の彼女のことを彩江子は、同志だと思っている。独身で、仕事ひと筋。この人は、信頼に値する女性だと。
とはいえ彩江子は「女性である」というだけで、相手を信頼したりはしない。かつて、仕事仲間だった女性から、手痛い仕打ちを受けたことがある。互いに駆け出しのライターと編集者だった頃から、励まし合ってきた間柄だったのに、転職先で編集長に抜擢されたとたん、彩江子を見下すようになった。裏切られた、と思った。どんなに忙しくても、メールの返事くらい書けるはずだし、実際に一分で済ませられるはずの返信さえ、寄越さなくなった。編集長って、そんなに偉いのか、と、地団駄を踏んだ。
この人は違う、と、彩江子は思っている。
──結婚と出産だけで、女性が幸せになれるはずなんて、ありえませんよね。
──その通りよ。だから私は、どちらもしないつもり。仕事に生きるの。
──私もです。でも、日本ってね、先進国の中では、下から数えた方が早いくらい、女性の社会進出度のランクが低いんですよ。ショックでした。改善していかなくちゃならないと思っています。
この人と私はそんな会話を交わせる「前向きに怒っているフェミ仲間」なのだ、と。
注文を取りに来た店員に、彩江子はアイスコーヒーを、編集者はアイスココアを頼んだ。
表通りに面した座席には、西陽が淡く射し込んでいる。ガラス窓の外側に掛けられているプランターの中では、桜草が咲き揃っている。色はピンクと白。乙女の色だ。
なんとはなしに見とれていると、ふいに、編集者の言葉が舞い飛んできた。
「あの、きょうは、中条さんにご報告しなくてはならないことがあります。失望させちゃうとわかってるんだけど……」
失望。
驚いて編集者の方を見ると、すでに彼女は頭を下げている。しかも深く。前髪で隠れてしまって、表情は見えない。ただ、悪い予感だけがする。悪い予感というのは決まって当たる。いい予感が当たったためしはないのに。
掠れた声で、彩江子は尋ねた。
「どんなこと、報告って」
聞きたくない話を聞かされるのだとわかっている。
聞きたくない話を聞かないままで、見たくないものを見ないままで、知りたくないことを知らないままでいる方が幸せだ、というような考え方は「卑怯だ。許せない」と、彩江子は常日頃から思ってきた。たとえば、夫の浮気を知らぬが仏で通そうとする、妻なる女性たちに対して「そういう幸せは、不幸せよ」と、主張してきた。「そんな考え方をしているから、いつまで経っても、女ってそういうものだって思われて、女の幸せを勝手に定義されるのよ」と。
しかし今、この瞬間だけは、そういう幸せを選びたいような気がしている。
* * *
この、プラムシャーベットの薔薇の花言葉は「天使のため息」ね。
ミステリーレッドの薔薇の花言葉は「秘められた情事」かな。
ガーデニング用のエプロンを外しながら、愛里紗は小さく、乾いたため息をつく。
花言葉を考えるのは、嫌いじゃない。たとえば、黄色い薔薇は「乙女の祈り」で、白い薔薇は「レースのハンカチ」で、野薔薇は「無邪気な恋」かしら、と、次々に思い浮かべながら、薔薇には、なんて夢見心地な言葉が似合うのだろうと、あきれてしまう。まるで少女漫画ね。でも、だからこそ、私は薔薇が好き。
美しいものは、夢見心地でなくてはならない。
目の前で、きれいな薔薇が咲き揃っている。これから、さらさらの血液みたいな色がお気に入りの、ローズヒップとハイビスカスのハーブティを淹れて、このベランダで、エレガントなティータイムを過ごす。イギリスのベッド・アンド・ブレックファストに滞在している、ひとり旅の女のように。ここは東京だけれど、気分はロンドン郊外。
素敵な時間、と、愛里紗は他人事のようにそう思う。優雅な素敵。素敵な優雅。素敵は「孤独」とも言い換えられる。配偶者がいるのに孤独、ということの素敵さ。
仕事は、装幀。趣味は、料理とガーデニング。
だけど、どちらが仕事で、どちらが趣味なのか、愛里紗の内面では、区別ができていない。そういう状態が愛里紗にとっては、好もしい。
強く欲していたわけでもないし、これといった努力もしなかったのに、気が付いたら手にしていた、完璧なまでの幸福。お金儲けが大好きで、ざくざく使うのが得意で、頼りになる、働き者で怠け者の夫。女子大を出たあと、デザイン事務所で働いていた二十代の半ばに、結城家からぜひにと望まれて、結婚した。修は三男で、姑と舅との同居も必要なし。夫婦揃って、子どもは欲しくないと思っているから、いないに越したことはない。文京区の一等地にある、二台分のガレージと広い庭付きの一戸建ての家。
そして、この、美しい仕事部屋。
高いものと安いものが並んでいれば、迷うこともなく高い方に手を伸ばす。高い製品の方が決まって「美しい」からだ。値段や品質は大きな問題じゃない。それよりも、自分の美意識に適っているかどうかが大事。人からは「贅沢な暮らしね」と、羨ましがられている。けれど、贅沢という言葉は、愛里紗の辞書には載っていない。愛里紗にとって贅沢とは、普通のことであり、退屈なことでもある。
ああ、気持ちいい。きれいな空。
ベランダに立って見上げると、手が届きそうなほど近いところで、飛行機雲がぐんぐん伸びてゆく。白いクレヨンで、水色の画用紙に、線を引っ張っているかのように。すでに引かれた線は滲んでぼやけて、千切れて、途中で迷子になっている。
どこかへ行きたいな、ひとりで。
でも、どこへ。
たとえば、日本からいちばん遠く離れたところにある南の島なんて、どうかしら。そこで、迷子になってしまう。そういうのが本当の贅沢、なのではないかしら。
生まれてこの方、ひとり旅など一度もしたことがないくせに、これから先もすることはないだろうとわかっているのに、まるで旅慣れた女のように、愛里紗はそんなことを思っている。
* * *
「じゃ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
玲門の頬に、行ってきますのキスをひとつして、流奈は一階に降りていく。玲門が買ってきてくれたブラッドオレンジを盛り付けたガラスの容器を手にして。このオレンジを使って、ギムレットを作ろうと思っている。「今宵のスペシャルカクテル」として。
流奈の出勤時間はだいたい、午後三時半から四時くらいのあいだ。
仕事着は、ブルージーンズに、白か黒のTシャツに、スニーカー。丁寧に塗った、リップグロス。それ以外の化粧はなし、アクセサリーもなし。塗りたくる化粧も、飾り立てるアクセサリーも、卒業してしまった。バーテンダーは、黒子に徹しなくてはならない。つまり私はお客を引き立てる存在。
ピアノバー「水無月」は、六人で満席になるカウンターのほかに、ボックス席がふたつだけの小さな店だ。十年ほど前に、バー業界をリタイヤした経営者から買い取って、ピアノを置けるように改装し、オープンさせた。以来ずっと、ひとりで切り盛りしている。
営業時間は、午後五時から夜中の十二時まで。
最後のお客がなかなか帰らないこともあって、そういう日には一時、二時まで長引くこともある。それはそれで良しとしている。どんなに疲れていたって、トントントンと二階へ上がっていけば、そこには心地好いベッドが待ってくれているのだから。
一階ではすでに、開店前の清掃だけを頼んでいるスタッフが出勤して、床にモップをかけているところだった。
「こんにちは。いつもありがとうございます」
スタッフに挨拶をしてから、てきぱきと、開店準備を進める。
グラス、コースター、シルバーウェア、ナプキン、食器類を調え、酒類、おつまみ、氷、食材などの在庫を確認する。店では軽食として、パスタとサンドイッチを出している。確認後、必要なら注文したり、買い物に行ったりする。きょうは花を買いに行った。戻ってきてから、郵便物やメールをチェックし、経理関係の雑務をして、レジをあける。
五時五分前。清掃と開店準備がほぼ同時に終わる。
最後の仕上げとして、アップライトのピアノの上に花を置く。
今夕、青磁の一輪挿しに活けたのは、あざやかなオレンジ色のガーベラ。
* * *
報告の内容は、結婚ではなかった。妊娠でもなかった。退職でもなかった。
「本当にごめんなさい。私もなんとかしなくちゃと思って、社内を駆けずり回って動いてみたんですけど、力及ばずでした」
彩江子が企画立案し、編集者が会議に提出して、編集長の許可をもらっていた連載ルポの仮タイトルは「弱者のための幸福な社会とは」だった。障害のある人たち、性的虐待を受けたことのある女性たち、ひとり暮らしの高齢者、セクシャルハラスメントやパワーハラスメントの被害に遭った女性たちの話を聞いて、そこから見えてくるさまざまな問題点を炙り出そうと考えていた。編集長は「同性愛やトランスジェンダーにまつわる話題も入れるといいね」と、乗り気だった。あとは、部長と局長が許可すればいいだけになっていた。部長は女性、局長は男性。局長が難関かな、というふたりの予想を裏切って、企画にストップをかけたのは、女性部長の方だったという。
彩江子がどうしても納得できないと思ったのは、没にされた理由だった。
「時代の気分と大きくずれている。こんな暗い企画、今の人たちは求めていない。ネガティブな側面ばかりに光を当てるようなやり方は、古い。とにかく、ださい、暗い、古い、の三点張りなんです。こんなものを出しても、雑誌は売れっこないと言われて、売り上げを問題にされると、弱くて。同僚も巻き込んでがんばってみたんですけど、どうしても切り崩せませんでした。本当に申し訳ないです」
「いいの、謝らなくていい。あなたのせいじゃないんだから」
だけど、本当は、あなたのせいなんじゃないの。もしかしたら、あなたがこうなるように仕組んだ? あなたは私の味方のふりをしているだけ。ああ、こんなことを思う私こそ「女性の敵は女性」と、男たちに言わせてしまう女に成り下がっている。
管理職になったとたん、彩江子を軽んじた女の顔が浮かんでくる。虚しくメールの催促をし、虚しく返信を待ち続けていた日々を思い出す。たかがメール、されどメール。管理職になって、どんなに忙しくても、たった一行のメールが書けないはずはない。なのに、書かない。書こうとしない。かつては、苦労を共にした仕事仲間に対して、どうしてここまで変わってしまえるのか、どうしてここまで、女が女を足蹴にできるのか。
思い出したくないことばかりを思い出してしまう。
編集者と別れて、神保町からタクシーを拾った。
書籍や資料のぎっしり詰まった鞄を抱えて、混んだ電車で帰る気力など、残っていなかった。編集者から言い渡された宣告のせいで、疲れも鞄も二倍の重さになっている。
車の後部座席で、額と胸に手を当て、うつむいたまま、彩江子は組んでいる両足を見るともなく見る。薄手のタイツの脹脛のあたりに、伝線が一本、走っている。
くやしい、情けない、むしゃくしゃする。
「憤懣やる方ない」という言葉は、今の私のためにあるに違いない。
キュッとタイヤの軋む音がして、タクシーが止まった。
「お客さん、このあたりでよろしいでしょうか。この先、工事中で渋滞していて、停車しにくくなってますんで」
根津一丁目の交差点の少し手前だった。
ここからだと、千駄木にあるマンションまで、重い足を引きずって歩くことになる。タクシーを使った意味がない。うんざりしながらも彩江子は「はい、いいです」と答えた。運転手と会話するのも煩わしく思えたから。
支払いを済ませて車を降りると、目の前に一枚のドアがあった。
ピアノの形をした黒い看板に、銀色の文字で「水無月」と書かれている。
(次回に続く)
情事と事情
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