恋愛小説の女王、小手鞠るいさんの最新刊『情事と事情』の試し読みです。
すべての愛には、裏がある。上品で下品な大人たちの裏事情とは。
ガーデニングのあと片づけを終えると、愛里紗は、バスソルトをたっぷり入れたバスに浸かった。ヒマラヤ産の桜色の塩に、くちなしの香りを付けたもの。
お風呂から上がって、さっぱりした体にまっ白なコットンの部屋着をするりと着て、ベランダで花たちに囲まれてお茶を飲んだら、今度こそスーパーでブレッドとケールを買って、家に帰ろうと思っている。
夕食には、修の好物のパエリアを作ることにした。とはいえ、夫に好物を食べさせてあげたい、というような殊勝な気持ちからではない。修が今夜、家で食事をするのかどうかも、定かではない。それでも、愛里紗の心は弾んでいる。おそらく、夫の好物を作っている自分が好き、ということなのだろう。
香り立つバスタブの中で、すべすべした太ももや、胸や肩や腕に自分の手で触れながら、愛里紗は料理の手順を思い浮かべてみる。
お米は洗わない、炒めない。トマトの皮は湯むきにして、海老の殻は付けたまま。
そこまで思ってから「ふふっ」と、頬をほころばせる。
仕事部屋に来ているのに、これじゃあまるで、専業主婦みたい。
このところ、装幀の仕事は、とんとご無沙汰。でもそれでいい。それがいい。
専業主婦という言葉を、愛里紗は彩江子のように毛嫌いしていない。かつてそうだったことのある女子大生と同じで、肌にしっくり来る響きがある。嫌いな言葉は、キャリアウーマンとワーキングマザー。「ウーマン」なんて一生、呼ばれたくない、と、大学時代から思っていた。今は、我が物顔に虚勢を張っている「ワーママ」に、一生、縁のない人生でよかった、と、お湯の中に沈んでいる肢体を眺めながら、愛里紗は思っている。キャリアウーマンかどうかは別として、年中あくせく働いているように見える彩江子のことは、かわいそうとしか思えない。
忘れた頃にやってくる依頼に応えて、細々と仕事をしている装幀家。この職業と「夫は遠景」の結婚生活が気に入っている。
──愛ちゃんは、天災装幀家だね。
と、妹の英里華から、からかわれたことがある。
英ちゃん、どうしてるかな。
バスタブから上がって、全身の映る姿見の前で、愛里紗は、自分にそっくりな手足を持っている妹の体を想像してみる。顔つきや体つきはそっくりなのに、性格や考え方は似ても似つかない双子の妹。
英ちゃん、こと、島崎英里華は、十年ほど前から、アメリカで暮らしている。
ロサンジェルス、サンフランシスコ、サンタフェ、セドナ、そのあと、シカゴ、そして現在はニューヨークシティ。この、西から東への移動にどういう事情があるのか、愛里紗には想像もつかない。恋人がいるのかどうかも、知らされていない。
英ちゃんには、シングル、なんて言い方よりも、独り身がお似合いだわ、と、愛里紗はよくそう思う。双子の片割れだから、独り身。
いったいどんな仕事をして生計を立てているのか、何度、説明を聞かされても理解できない。今は、関西にある会社が製造している「ファッション関係の細かい商品あれこれを、マンハッタン在住のデザイナーに売り込んでいるの」ということだった。
──あのね、愛ちゃん、双子っていうのはね、できるだけ遠く離れて暮らすのがいいんだよ。その方がふたりとも幸せになれるの。
愛里紗が修と結婚した年に妹から告げられた、これがアメリカ移住の理由だった。
* * *
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
午後五時半を少し回った頃、今宵、二番目のお客が入ってきた。
一度も見たことのない顔だ。ひどく疲れている。髪の毛が傷んでいる。一生懸命、働いている女は身ぎれいにはしていても、髪と肌は傷んでいることが多い。
「さ、どうぞ、こちらへ」
流奈は彼女を、マーブル柄のカウンターの左の端へと案内した。入り口からいちばん遠い。ひとりだと、そこがどこよりも落ち着ける。
「お疲れさま」
優しく声をかけながら、カウンター越しに、熱いおしぼりを渡す。
「仕事の帰り? それともこのあとデート、かな」
茶目っ気たっぷりにそう言ってみる。これはサービス業の鉄則。まずはお客の気分をほぐしてあげなくては。
「あ。はい、いえ、仕事帰りです」
女性客は素っ気なく答えて、不安そうな目つきで店内を見回したあと、
「あの、メニューはありますか」
と、すがるような口調で言った。
「もちろん、ございます」
ひとりでバーに入ってお酒を飲むなんて、あんまりしたことがないのだろう。何かいやなことがあったのかな。会社でいじめられたとか、彼氏に約束をすっぽかされたとか、信頼していた仕事仲間に裏切られたとか。
かわいそうに。
狼に、食われそうになった赤ずきんちゃん。でも、若いときの苦労は、買ってでもしておくものよ。どんなに泣かされても、あとできっと、その涙はあなたを輝かせる真珠の粒になってくれるから。
私がそうだったように。
なんて、余計なお世話よね、などと思いながら、流奈は過去の自分に向かって、メニューを差し出す。涼やかな言葉と共に。
「はい、どうぞ。カクテルはこちらから。お食事も、簡単なものでよろしければ、ご用意できます。ゆっくりしていって下さいね。あとで、ピアノも入ります」
ここでお酒を飲んで、ちょっぴりくつろいで、鎧を一枚ずつ脱ぎ捨てていけば、本来あなたの持っている原石の輝きに気づくはずよ。あなたは、自分の魅力に、まだ気づいていないだけ。
流奈は、いつもそうするように、目の前の女性をひそかに見立てた。
四十代のキャリアウーマン。離婚経験あり。恋人なし、結婚の予定なし。目下のところ、仕事が恋人。でも、気になる人はいる。この人に想いを寄せている人もいる。
流奈の見立ては、ぴたりと当たることもあるけれど、大きく外れることもある。
* * *
年齢不詳。
軽く五十は越えているだろう。もしかしたら、六十代か。おそろしいくらい、きれいな人。どうやったら、こんなにみずみずしい肌と、こんなにスリムな体形を保っていられるのだろう。ああ、こういう風に年を取れたらいいな。
それが「水無月」の女性バーテンダーに対する彩江子の第一印象で、その印象はその夜、店をあとにするまで変わらなかった。
最初の一杯として、今宵のスペシャルカクテル、ブラッドオレンジのギムレットを飲んだ。口にするとオレンジの香りがぱぁっと広がって、舌には尖った氷の粒みたいなジンの感触があって、喉越しはきわめてほろ苦い、強いお酒だった。
二杯目は、彼女に薦められるまま、ドライマティーニにした。
「フレーバーの付いたカクテルと、ストレートに近いお酒を交互にいただくと、どちらも美味しく感じられます。これがお酒の優雅な楽しみ方」
知らなかった、そんなこと。この年齢になるまで、ひとりでバーに入ったことすらなかった。お酒は付き合いで飲むものだと思っていた。
三杯目のカクテル、マンハッタンを飲みながら、彩江子は自分に問いかけてみる。
私の生き方は、間違っているのだろうか。
真面目過ぎて面白みに欠ける、と、口さがない人たちから言われながらも、考え方と行動を一致させたい、志と思想を持っている女性でありたい、常にそう思って、自分を律しながら、生きてきた。そうしないと、自分が切り捨ててきたものに対して申し訳が立たないし、失ったもの、犠牲にしたものが無駄になると思って。
それのどこが間違っているの。
ださい、暗い、古い。編集者の放った三語が彩江子の脳内にこびり付いている。
無論、あれは私の性格や生き方に対する批判ではなかった。けれども、私は硬い、融通が利かない、優雅には程遠い、ということも、わかっている。これからはこれに、老いが忍び寄ってくる。容赦なく。つまり、醜い、弱い、脆い、が加わってくる。それでもひとりで潔く、我が道を歩いていけるのか。
たとえば、この人のように。
六時半を過ぎてから、ぱたぱたと姿を現したお客の対応をしながら、カウンターの向こうできびきび働いている女性バーテンダーに、彩江子はさっきからずっと、見とれている。体や手足の動きが美しい。バーテンダーであり、経営者でもあるのだろう。独断で、この人はシングル、と決めつけている。
仮にこの人の年齢を五十歳だとすると、私よりもひと回り上。あと十二年、いったいどんな風に生きたら、こんな風になれるのだろう。余計なものを削ぎ落としていけばいいのか。それとも何かをるいるいと、積み重ねていけばいいのか。この人を内側から輝かせているのは、いったいなんなのだろう。
男。
やっぱり、それ?
彩江子はバッグの中からスマートフォンを取り出して、男の名前を探し始める。こういうときに気軽に呼び出せて、呼び出したら気軽に乗ってくれるような男を。
信条と行動が矛盾している、と、わかっている。こんなときに、ううん、どんなときにも、男の力なんて、借りるべきじゃない。わかっている。わかっているのに、指が勝手に動いてしまう。
女では駄目なのだ、こういうときには。
女同士で集まって、互いの愚痴や悩みを打ち明け合う。わかってもいないのに「わかる、わかる」と言い合う。それでは女性問題は何も解決しない。女はひとりで物を考えなくてはならない。ひとりで物事を決めなくてはならない。決めたら実行する。決して女に相談したりしない。ひとりでいると美しい女でも、連むと醜くなる。交尾むのは、男と、でなくては。
酔ったせいだろうか。ふだん思っていることとは正反対の声が胸の中でこだましている。まるで自分で自分を裏切っているかのように。
私は、がんばり過ぎているのではないか。
私はもう少し、ゆるんでもいいのではないか。
もう少しいい加減に、だらしなくなっても。
(次回に続く)
情事と事情
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