恋愛小説の女王、小手鞠るいさんの最新刊『情事と事情』の試し読みです。
すべての愛には、裏がある。上品で下品な大人たちの裏事情とは。
広々としたキッチンで、パエリアの下ごしらえをしながら、茜色からすみれ色に染まっていく、窓の向こうの空と、窓のこちら側にいる自分と、自分を取り巻く世界をひとまとめにして、愛里紗は問いかける。
幸せって、何色。
とびきり幸せなアラフォーって、何色。
とびきり幸せ、ということはつまり、ちまちました不幸から目を逸らす能力、見て見ぬふりのできる才能があるということ。あるいは、気づいていないふりをし続けているうちに、本当に鈍感になってしまった、ということ。
というような、理屈っぽい友人の彩江ちゃん、こと、中条彩江子のいかにも言い出しそうな論理は、愛里紗には、雲をつかむような言い草としか思えない。
──愛里紗は問題意識がなさ過ぎる! いい年をして、実家からも旦那からも、自立できていない。そんなことでいいと思ってるの、いったい何を考えて生きているの、何も考えてないんでしょ。
そんなこと言われたって、そもそも、なんの問題もない人生に、なぜわざわざ自分で問題を作らないといけないのか、愛里紗には皆目わからない。何も考えないで生きていることの、いったい何がいけないのか。
悩んでいる人というのはみんな、自分が悩みたいから、悩んでいるように、愛里紗には見えている。泣きたい人は泣けばいいのだし、笑いたい人は笑っていればいい。夫が外で何をしていようが、いまいが、家の中にいるとき、自分のそばにいるとき、明るくて優しければそれでじゅうぶん。健康で、お金をたくさん稼いでくれたら、なおいい。
そう思うことのどこがいけないのか、というようなことは、しかし実のところ、愛里紗の関心事ではない。
愛里紗が関心を抱いているのは、美しいか否か、それに尽きる。美しいものに囲まれていれば、それだけで幸せ。
だから、幸せの色は、薔薇色。
──そんなことだから、女性を取り巻くさまざまな社会問題がちっとも改善されないのよ。いい? 家庭内でも会社内でも、男女差別と年齢差別とセクハラが蔓延っていて、先進国の中でいちばん女性の地位が低いと言われている国は、日本なのよ!
フリーライターとして「ジェンダー研究と女性問題」に真剣に取り組んでいるという彩江子の鼻息も荒い発言に、愛里紗はいつも、
──まあ、あなたも大変ねぇ。
のほほんと返しては、
──愛里紗はのれんに腕押し! だらしない! 女の敵!
と、目を三角にされ、叱責されている。
それでも愛里紗は彩江子を嫌いになれない。数少ない友人のひとりだと思っている。
もしかしたら、たったひとりの親友、なのかもしれない。
社会に裏切られ、女に裏切られ、男に裏切られながらも、なお、社会を信じようとし、女を信じようとし、男を信じようとして、彩江ちゃんは一生懸命、生きている。私には微塵もない、私とは似ても似つかない、あの頑固さ、一生懸命さがいい。
* * *
まるで猫が降りてくるみたい。
二階から一階へ降りてくる玲門の足音を聞きながら、流奈は壁の時計に目をやる。
午後七時。
今から一時間ほど、そのあとに休憩をはさんで九時から十時過ぎまで、気が向いたらもっと遅くまで、玲門はピアノを弾く。
ジャズの日もあれば、クラシックの日もある。常連客から出されたリクエストに応えて、フォークやロックやカントリーなどを適当にアレンジして弾くこともあるし、知らない曲をリクエストされても、タブレットで検索して譜面を呼び出すことさえできれば、即座に弾いてみせる。
ロンドンで知り合って、パリに移り住んで、屋根裏部屋のアパルトマンでいっしょに暮らしていた頃には、学生街のジャズクラブで弾いていた。ドラムとベースと玲門の三人で組んでいたバンドの名前は「ザ・ストレイキャット」だった。野良猫バンドのドラムはレズビアンのめす猫で、ベースはゲイのおす猫で、玲門はバイセクシャル。
シェイカーを振りながら、流奈は玲門にまっすぐな視線を送る。
レイモン、今夜もとっても素敵よ。あの頃とちっとも変わらないね。
玲門からは、波のような視線が返ってくる。
ルナも素敵だよ、あの頃よりも、もっとね。
母と息子ほど年の離れた、悪魔的に優雅な野良猫。
ときどきふっといなくなる。いなくなったら、いつ帰ってくるか、わからないけれど、帰ってきてさえくれたら、それでいい。私のそばにいるときだけは、公私共に私の専属ピアニスト。それでいい。
玲門は弾き始める。ドビュッシーの『夢』から入っていく。
『夢』のあとは『月の光』だ、きっと。
今夜もふたりでいっしょに働いて、同じベッドで眠れることの幸せに、流奈は一瞬、恍惚となる。
(つづきは『情事と事情』でお楽しみください)
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