グローバル経済の矛盾、民主主義の危うさ、日本人の死生観など、現代の重要な問題を思想家・佐伯啓思さんが文明論的視座から論じた『さらば、欲望~資本主義の隘路をどう脱するか』からの抜粋をお届けします。第1回はロシアのウクライナ侵攻をめぐる論考です。
※記事の最後に佐伯啓思さんの講演会のご案内があります(会場参加&オンライン 7月5日19時~)
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ソ連解体で問われた「ロシア的なもの」
もう10年ほど前になるが、大学院の授業後にひとりの留学生がやってきて、こういう。
「日本はどうして英語教育の充実など英語ばかりに熱心なのですか。自国の言葉だけで話が通じるというのはすばらしいことではないですか。なぜ、日本は自分たちの言葉や文化をもっと大事にしないのですか」
少し返事に窮した。まったくその通りだと思う。そこで、君はどこから来たのかと聞くと、 ウクライナからだ、という。いかにウクライナがロシアの脅威にさらされ、自国を守るために 苦しんでいるかを彼は熱心に語っていた。今回のロシアのウクライナ侵略のニュースを聞いて、その時の彼のかなり切迫した表情をふと思い出した。
戦後、もっぱら米国の軍事的安全保障のもとで平和を満喫し、それだけではなく、世界秩序や国際政治に関する見方もほとんど米国流の合理的思考に従ってきた日本にあっては、ロシアの突然の侵略はほとんど理解を超えたものにしか映らない。あえて理解しようとすれば、プーチンは狂気に陥ったとか、病気だとかいうほかない。プーチンの精神状態はともかく、ウクライナ人からすれば、いつ何時、ロシア軍が攻め込んできても不思議ではなかったのであろう。
ところで、今からちょうど100年前の1922年、ドイツの文明史家であるシュペングラーによって『西洋の没落』第2巻が書かれた。この書物の中で、彼は、壮大な近代文明を生みだしたヨーロッパはいまや没落のさなかにある、という。
ヨーロッパが生みだした近代文明の典型は、アメリカ文明とソ連社会主義であった。科学的合理性と技術に基づく経済発展を目指し、ヨーロッパ啓蒙(けいもう)の精神を受け継いで理想社会の実現を標榜(ひょうぼう)するこのふたつの文明によって、ヨーロッパの「文化」は没落するとシュペングラーはいう。
「文化」とは、ある特定の場所に根づき、時間をかけて歴史的に成育する民族の営みである。それは、アメリカ文明とソ連が掲げる普遍的な抽象的理想や歴史の最終的な目的といった観念とは相いれない。
改めて振り返ってみれば、ナチスによってズタズタにされたヨーロッパ文化の崩壊後に出現したのが、ともに近代的な人工的文明であるアメリカとソ連の対立であった。そしてソ連は91年には消滅し、残ったのはアメリカ文明である。
アメリカ文明は、ある独特の思考の形をとる。それは、歴史は、個人の諸権利、自由やデモクラシー、法の支配、市場競争などの普遍的価値の実現に向けて動いてゆく。またそうあるべきだ、という。さらに、その普遍的価値の実現こそは米国の使命だとする。
もちろん、現実の歴史はそれほど簡単ではない。米国のいう普遍的価値を共有しない国もあれば、敵対する国もある。その場合には、軍事力において勢力均衡をはかることで世界秩序を維持するというのが米国の方針であった。このような思想によって米国中心に成立したのが今日のグローバリズムである。
一方、もっと複雑なのはロシアである。冷戦での敗北により、人工的な社会主義国家ソ連は解体し、複数の主権国家へと分裂した。中心にあるのはロシアであるが、ロシアは「冷戦以降」のグローバルな世界秩序にあってはその周辺国に過ぎなくなる。もはや政治力、経済力で世界を動かす存在ではない。
ロシアは社会主義の後継者ではないが、またアメリカや西ヨーロッパ(西欧)の価値の同調者でもない。ではロシアとはいったい何なのか。こういう疑問が当然でてくるであろう。
しかも、社会主義というイデオロギーが解体すれば、ロシアがずっと抱えていた民族的なアイデンティティの問題が出てくる。19世紀ロシアの、とりわけ知識人たちは、西欧的な知識や教養を身につけつつも、自らの内面に横たわる「ロシア的なもの」を模索し続けていた。
私もそうだが、少し以前の日本の青年たちは、たいてい19 世紀ロシアの偉大な作家や音楽家に魅了されていたものだが、そこに見られるのは、西欧的な語法や知識に従った小説や音楽の背後から立ち上ってくる、あの「ロシア的なもの」であった。大地と憂愁、神と人間の実存、それにロシア正教会風の神秘主義といった独特の空気である。
グローバリズムの失敗でむき出しになる「力」
ロシア革命によって社会主義のソ連が成立した後、ヨーロッパに散らばった旧ロシア帝国の亡命知識人たちは、ヨーロッパにも同化できず、自らのアイデンティティを模索する。
その中から立ち現れてきたのが、ヨーロッパとアジアに挟まれ、両者と重なりつつもそのいずれでもない、いわゆる「ユーラシア主義」であった。ユーラシアとは、「ユーロ」と「アジア」の合成語であるが、この場合、ユーラシア主義者が特に懐疑心を募らせたのは、アジアよりもヨーロッパに対してであった。
そして、冷戦終結によるソ連崩壊後のロシアに、かつてのユーラシア主義ではないにせよ、新たなユーラシア主義的雰囲気が醸成されても不思議ではなかろう。この雰囲気は、ヨーロッパとアメリカが主張する西洋的・普遍主義的価値観とは一線を画そうとする。ソ連の解体とともに、改めて、ロシア、ベラルーシ、ウクライナこそが一体の「ロシアの民族」であり、「ロシア的価値」の中心である、という感覚が浮上する。
西洋とは一線を画するロシア的なものへのアイデンティティを求める心情からすれば、ウクライナのヨーロッパへの接近は一種の背信行為と見えよう。言い換えれば、米国中心の西洋的秩序の中にあっては、ロシアは決して一級国家にはなれないという思いがあり、NATO(北大西洋条約機構)の拡大は、西洋的秩序の具体的な脅威と映るのであろう。
むろんこれがロシア人の平均的心情だというわけではなかろう。またプーチンのウクライナ侵略は決して許容できるものではなく、国際法にも人道にも反する暴挙である。だが、この暴挙の背後には、西洋との内的な葛藤をはらみつつ、社会主義による近代化を遂行し、しかもそれに挫折したロシアやウクライナの苦い歴史的事情が存在するのである。
むしろ真の問題は、冷戦以降の世界をまとめるはずであった米国中心の西洋的価値や世界秩序構想の破綻(はたん)にこそある。リベラルなデモクラシー、グローバルな市場競争、個人の基本的権利、主権国家体制、ユートピア的志向をもった歴史観、米国の覇権による世界秩序。こうした近代的価値がうまく機能しないのである。
かくて、冷戦以降の「グローバルな世界秩序」や「西洋近代の思想」という表皮が剥れ落ちてゆくと、その背後に隠れていたものがむき出しになってくる。中国は西洋的価値を共有せず、中華帝国の再来とばかりに膨張路線にはいる。ロシアはロシアで、ユーラシア大陸の中心部にあって、非西洋的なスラブ文明圏の再興を夢想する。こういう動きがでてきても不思議ではない。
端的にいえば「近代主義」の二大典型である「社会主義」と「アメリカ型のグローバリズム」が失敗すると、その背後から、いわば隠れていた「精神的な風土」とでも呼びたくなるようなものが表出してくる。あの大地と民衆、ロシア正教、ツァーリズム(皇帝主義)などの残影を伴ったロシアの精神風土。それは、西洋の個人主義、リベラルなデモクラシーなどとは大きく違っている。
文明が衝突するとき、日本はどうするのか
トルストイは『戦争と平和』のなかで次のようなことを述べていた。歴史家は一般的な抽象的理念を考え出す。たとえば、自由、平等、啓蒙、進歩、文明などを想定し、それこそが人間の運動の目的だと考える。その図式にあてはめて、人間の活動を意味づけ評価する。だが、歴史にはそんな目的もないし、指導者であれ大衆であれ、何らかの自由な意思や理性をもって歴史を動かすわけではない。
ナポレオンは巨大な権力を手に入れて西ヨーロッパからロシアまで遠征した。そこにナポレオンの強固な意思や野望を見ようとする歴史家は彼を天才という。しかし、歴史を動かす人間の自由意思などというものはない。ただ、西ヨーロッパのある種の力の作用がロシアに押し寄せ、次には、冬将軍と神に祈るばかりのロシア総司令官の前でこの力は敗退し、皇帝アレクサンドル1世がそれをまた西へと押し戻しただけだ。
こういう動きの背後には、人間の意思や理性でははかることのできない何らかの作用が存在するのではないか、とトルストイは暗示している。それを帝政ロシアでは「神」といったが、今日われわれはそうはいわない。あるとすれば、西ヨーロッパとロシアの「精神的な風土」の交錯というべきではなかろうか。
ロシアが、一方で西洋近代から圧倒的な影響と脅威にさらされつつも、半ばアジアに属して、独自の「ロシア的なもの」を模索したという歴史は、実は、日本とも無縁ではない。
日本の近代も西洋の脅威にさらされつつも、同時にアジアの一員であるという意識を放棄できなかった。西洋近代の価値がうまく機能しない今日、日本もまたその「精神的な風土」を問われているの ではなかろうか。にもかかわらず、戦後の日本は、そのような問いを発することもなく、米国流の歴史観、世界秩序観の信奉者であった。
今日、冷戦後のアメリカ流グローバリズムの表皮が剥れつつあるなかで、われわれはむき出しの「力」が作動する世界へ移行しつつある。ユーラシア大陸の中央部と東西の端はかなり異なった文明を持っている。西洋、アジア、ユーラシアの大国を舞台にした文明の衝突が起きる時、日本は、そのはざまにあって、前線に置かれる。
その時、日本はどのような立場をとるのだろうか。状況次第では、日本も他国からの攻撃の可能性を排除することはできない。今回の事態は決して他人事(ひとごと)ではない。果たして、われわれは、火炎瓶を作ってまで自衛しようとするウクライナの市民のように命がけで立ちあがるのであろうか。
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7月5日19時から、佐伯啓思さんの講演会「ウクライナ戦争と日本の岐路」を開催します(会場参加&オンライン)。詳細・お申し込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。
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さらば、欲望
グローバリズムの矛盾が露呈し、新型コロナに襲われ、ついにはプーチンによる戦争が始まった。一体何が、この悪夢のような世界を生み出したのか――
自由、人権、民主主義という「普遍的価値」を掲げた近代社会は、人間の無限の欲望を肯定する。欲望を原動力とする資本主義はグローバリズムとなり、国益をめぐる国家間の激しい競争に行き着いた。むき出しの「力」の前で、近代的価値はあまりに無力だ。隘路を脱するには、われわれの欲望のあり方を問い直すべきではないか。稀代の思想家による絶望と再生の現代文明論。