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さらば、欲望

2022.06.27 公開 ポスト

限界を迎えた資本主義。問題の本質は「近代人の果てしない欲望」佐伯啓思

グローバル経済の矛盾、民主主義の危うさ、日本人の死生観など、現代の重要な問題を思想家・佐伯啓思さんが文明論的視座から論じた『さらば、欲望~資本主義の隘路をどう脱するか』からの抜粋をお届けします。第2回は資本主義をめぐる論考です。

※記事の最後に佐伯啓思さんの講演会のご案内があります(会場参加&オンライン 7月5日19時~)

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(写真:iStock.com/phongphan5922)

マルクス主義の復権か

「資本主義」が近年の論壇をにぎわしている。若きマルクス研究者の斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーになったこともあろう。ついに、というべきか、はてさて、というべきか、岸田文雄首相の所信表明演説にまで「資本主義」が堂々と登場することとなった。自民党選出の首相が国会の場で「資本主義」の語を連発するという事態を誰が想像しただろうか。未来社会を切り拓く「新しい資本主義」を模索するという。

半世紀ほど前の1970年前後、マルクス主義の影響もあり「資本主義」は徹底してマイナス価値を付与された言葉であった。ほとんど悪の象徴のようなものである。当時、社会主義へのシンパシーを公言するマルクス主義者は、「資本主義」の語を否定的な意味で喜々として使用していた。私も、大学の経済学部を選択した理由は、果たして資本主義は安泰かどうかを知りたかったからである。マルクスの予言の妥当性に見通しをつけたかったのである。

私自身は比較的早くマルクスから離れた。その経済理論はまったく間違ったものだとしか思えなかったし、その歴史観もあまりに独断的に思われたからである。しかし、かといって資本主義体制を万全だと考えたわけではない。資本主義が、その内に大きな矛盾をはらんだ不安定な体制である、というマルクスの直観まで否定する気にはならなかった。いや、この経済構造の不安定性は、別にマルクス主義の知的特産物というわけではなく、市場経済の理論分析からも論じることはできた。

とはいえ、アメリカを聖地とする大方の市場擁護派は、冷戦のさなか、社会主義へと直結するマルクス主義を強力な論敵とみなしていた。したがって、オーソドックスな経済学では「資本主義」の語はまず使われない。もっぱら「市場経済」の用語が使われる。「資本主義」の語が肯定的な意味を帯びるようになったのは、90年前後の冷戦終結あたりからである。

資本主義と市場経済は違う

だが、そもそも資本主義とはいったい何なのか。首相のいう成長を可能とする「新しい資本主義」というものがありうるのだろうか。

「資本」つまり「キャピタル」とは「頭金」である。それは「キャップ(帽子)」や「キャプテン(首長)」という類似語が暗示するように、「先導するもの」である。未知の領域を切り拓き新たな世界を生み出す先導者であり、そのために投下されるのが「頭金」としての「資本」である。資本は、未知の領域の開拓によって利益を生み出し、自らを増殖させる。したがって、さしあたり「資本主義」とは、何らかの経済活動への資本の投下を通じて自らを増殖させる運動ということになろう。

ただこの場合に重要なことだが、資本が利潤をあげるためには資本はいったん商品となり、その商品が売れなければならない。言い換えれば、そこに新たな市場が形成され、新たな商品を求める者がいなければならない。こうして、資本主義が成り立つためには常に新商品が提供され、新たな市場ができ、新たな需要が生み出されなければならない。人々が、たえず新奇なものへと欲望を膨らませなければならない。

端的にいえば、経済活動の「フロンティア」の拡大が必要となるのであり、このときに経済成長がもたらされる。

この点で、「資本主義」は「市場経済」とは違っていることに注意しておきたい。「市場経済」はいくら競争条件を整備しても、それだけでは経済成長をもたらさない。経済成長を生み出すものは「資本主義」であり、経済活動の新たな「フロンティア」の開拓なのである。そして「市場経済」分析を中心とする通常の経済学は、基本的に「資本主義の無限拡張運動」にはまったく関心を払わない。

その意味でいえば、岸田首相の「資本主義」論は興味深いもので、経済成長を強く意識していることになろう。従来、日本では構造改革にせよ、新自由主義にせよ、市場原理主義にせよ、あくまで「市場経済」を問題にしてきたのであり、岸田氏の「資本主義」論はそれとは次元を異にしているのだ。

フロンティアの拡大なしでは成り立たない

大雑把に歴史を振り返ってみよう。資本主義がヨーロッパで急激に活性化した発端には世紀の地理上の発見があった。一気に地球的規模で空間のフロンティアが拡張した。新大陸やアジアを包摂する新たな空間の拡張は、歴史上最初のグローバリズムであり、ヨーロッパに巨大な富をもたらした。

この富によって19世紀に開花するイギリスの産業革命は、驚くべき勢いで技術のフロンティアを開拓し、帝国主義時代をへて20  世紀ともなると、アメリカにおいてあらゆる商品の大量生産方式へとゆきついた。そしてこの大量生産を支えたものは、膨大な中間層をになう大衆の旺盛な消費であった。

つまり、外へ向けた空間的フロンティアの開拓(西部開拓のアメリカや帝国主義のヨーロッパ)の次に、20世紀の大衆の欲望フロンティアの時代がやってきた。戦後の先進国の高い経済成長を可能としたものは、技術革新や広告産業が大衆の欲望を刺激し続けることで、工業製品の大量生産・大量消費を生み出した点にある。

ところが、高度な工業化による大量生産・大量消費による経済成長は、先進国では1970
年代には頂点に達する。そこでその後に出現した「成長戦略」は何かといえば、80年代以降のグローバル化、金融経済への移行、それに90年代の情報化(IT革命)であった。

先進国は、グローバル化で発展途上国に新たな市場を求め、新たな金融商品や金融取引に利潤機会を求め、ITという新技術にフロンティアを求めた。そして、その結果はどうなったのか。

それらは、ほとんど先進国に富も利益ももたらさなくなりつつある。グローバル化は中国を急成長させたが、米欧日などの先進国は、成長率の鈍化、格差の拡大、中間層の没落などに悩まされる。モノの生産から金融経済への移行は、金融市場の不安定化と資産の格差を生み出した。情報革命は一握りの情報関連企業に巨額の利益を集中させた。いわゆるGAFA問題である。明らかに新たなフロンティアは限界に達しつつある。

ゆきつく先は国家主導の新重商主義

今日、先進国は、一方では、格差問題の解消へ向けた所得再分配に舵をきるといい、他方では、改めて新興国の市場を取り込むグローバル化と、デジタル技術の革新に活路を求めている。結局「グローバリズム」と「イノベーション(技術革新)」を成長に結びつけ、その成果をもって格差を是正しようというのである。

では「グローバリズム」と「イノベーション」は成長を可能とするのだろうか。話はそれほど簡単ではない。グローバリズムは、今日、国益をめぐる国家間の激しい競争へとゆきついた。成長戦略や経済安全保障を政策に組み込んで国益を積極的に実現することが国家の責務となった。自由な市場競争どころではない。新重商主義とでもいうべき国家主導の経済戦略なのである。

また、イノベーションが経済成長を実現するなどと気楽に構えるわけにはいかない。今日のイノベーションは確かに一企業の生産効率を高め、労働コストを低下させることは事実であろう。しかしそれが意味するのは、勤労者の所得の低下である。少なくとも総所得が上昇するとは考えにくい。ということは、総消費は増加せず、GDP(国内総生産)の増加はさして見込めないであろう。

かくて、AIやロボットや自動運転装置等のイノベーションは目覚ましく、確かにわれわれの生活を変えるであろうが、だからといってそれが経済成長につながるという保証はどこにもない。新技術が大衆の欲望フロンティアを開拓して大量生産・大量消費の好循環を生み出した高度成長の60年代とはまったく異なっている。

とすれば、空間、技術、欲望のフロンティアを拡張して成長を生み出してきた「資本主義」は臨界点に近づいているといわざるを得ない。「分配」と「成長」を実現する「新しい資本主義」も実現困難といわざるを得ないだろう。

近代人の欲望こそ問題の本質

問題はどこにあるのだろうか。「資本主義」が間違っているのだろうか。岸田首相の政策論が誤っているのだろうか。そうではない。問題は、昨日よりも今日の方が豊かであり、明日はさらに豊かでなければならない、というわれわれ自身の意識にこそあるのではないか。

政策を難じるより前に、科学や市場や政治の力によって、より多くの富を、より多くの自由を、より長い寿命を、より多くの快楽を求めるという近代人の欲望の方こそ問題の本質ではなかろうか。

近代社会とは、人間が、己の活動や欲望について無限の拡張を求める社会であった。科学や技術によって自然を支配し、それを自らの自由や欲望の拡張に向けて改変する時代であった。そこに無限の進歩があるとみなした。資本主義は、近代人のこの進歩への渇望に実にうまく適合したのである。

そして今日われわれは、人間の外部に横たわる自然を改変するだけではこと足りず、AIや遺伝子工学、生命科学、脳科学等によって、われわれ自身を改変しようとしている。これらの新しいテクノロジーによっていっそうの自由や富や寿命を手に入れようとしている。本来的に有限で、いわば「死すべきもの」である人間が、無限で「永遠なるもの」へと接近しようとしているようにも見える。人間が人間という「分限」を超え出ようとしている。

近代の欲望は、まだ「有限性」のなかにあって少しずつフロンティアを拡張するものであった。だが最近の技術は、それさえも超え出てしまったのではなかろうか。

皮肉なことに、人間の「有限性」を突破しかねない今日の技術のフロンティアにあって、先進国は経済成長の限界に突き当たっている。われわれはようやく「資本の無限の拡張」に疑いの目を向けつつある。とすれば、われわれに突き付けられた問題は、資本主義の限界というより、富と自由の無限の拡張を求め続けた近代人の果てしない欲望の方にあるのだろう。

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7月5日19時から、佐伯啓思さんの講演会「ウクライナ戦争と日本の岐路」を開催します(会場参加&オンライン)。詳細・お申し込みは幻冬舎大学のページからどうぞ。

関連書籍

佐伯啓思『さらば、欲望 資本主義の隘路をどう脱出するか』

グローバリズムの矛盾が露呈し、新型コロナに襲われ、ついにはプーチンによる戦争が始まった。一体何が、この悪夢のような世界を生み出したのか―― 自由、人権、民主主義という「普遍的価値」を掲げた近代社会は、人間の無限の欲望を肯定する。欲望を原動力とする資本主義はグローバリズムとなり、国益をめぐる国家間の激しい競争に行き着いた。むき出しの「力」の前で、近代的価値はあまりに無力だ。隘路を脱するには、われわれの欲望のあり方を問い直すべきではないか。稀代の思想家による絶望と再生の現代文明論。

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さらば、欲望

グローバリズムの矛盾が露呈し、新型コロナに襲われ、ついにはプーチンによる戦争が始まった。一体何が、この悪夢のような世界を生み出したのか――
自由、人権、民主主義という「普遍的価値」を掲げた近代社会は、人間の無限の欲望を肯定する。欲望を原動力とする資本主義はグローバリズムとなり、国益をめぐる国家間の激しい競争に行き着いた。むき出しの「力」の前で、近代的価値はあまりに無力だ。隘路を脱するには、われわれの欲望のあり方を問い直すべきではないか。稀代の思想家による絶望と再生の現代文明論。

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佐伯啓思

思想家。1949年奈良県生まれ。東京大学経済学部卒業。同大学院経済学研究科博士課程単位取得。滋賀大学教授、京都大学大学院教授などを歴任し、現在は京都大学名誉教授、京都大学人と社会の未来研究院特任教授。『隠された思考』(筑摩書房、サントリー学芸賞受賞)、『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ、NIRA政策研究・東畑記念賞受賞)、『現代日本のリベラリズム』(講談社、読売論壇賞受賞)、『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)、『死にかた論』(新潮選書)、『近代の虚妄 現代文明論序説』(東洋経済新報社)など著書多数。言論誌『ひらく』(A&F)の監修も務める。

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