大手メーカーの販売代理店で営業部長をつとめる五十嵐卓也は、社長に乞われ、業績が悪化している中小企業に出向することになる。五十嵐は社員たちとぶつかりながらも、ビジョンの共有、仕組みの構築、情報の活用、教育の強化の4つの視点で、一人ひとりの意識を変えていく。そんなある日、想像だにしなかった最大の危機が五十嵐に襲いかかる……。元リコージャパンのトップマネージャー、杉山大二郎さんが書き下ろした『ザ・マネジメント』は、最強のチームをつくり方をわかりやすく教えてくれるビジネス小説。部下や後輩を持つ人なら絶対役に立つ本書、第一章「ビジョンの共有」から一部をご紹介します
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5 笑顔と活気がやる気を引き出す
4月1日の朝。五十嵐の初出勤日だ。
8時には席にいたが、社員の姿はほとんど見えない。
──まあ、期初だからこんなものか。
8時半をすぎたころから、ようやく出勤してくる人が目立ちはじめた。
3人の課長が順番に挨拶に来る。
時計の針はすでに8時45分を指し示している。上司風を吹かせる気は毛頭なかったが、これでは少し寂しい。
社内とはいえ初対面なので、名刺交換をしながら「よろしく」と頭を下げた。
8時50分から社歌の斉唱とラジオ体操がはじまる。建前としては自由参加だが、さすがにこの時間になると全員が出社していた。
小学校の校歌のようなどこにでもありそうなメロディに乗せ、昭和の匂いがプンプンと立ちのぼる歌詞がつづく。眩暈がしそうだった。
それでも全員が体育会系のノリで明るく元気に声を上げているのであれば少しは清々しい気持ちにもなれるのだが、残念ながら誰もが覇気のない声で、コンピュータの自動音声よろしく淡々と歌っているだけだ。気に入らないのなら不貞腐れた態度を取ってくれたほうがまだましだった。そんな意思表示さえもない。
9時から、期初の全体朝礼が行われた。大村社長が全社員に向けて、先期のお礼と今期への期待について、簡単な挨拶をした。
次に大村専務が前に出る。
「先期の業績は大変厳しい結果で終わりました。昨年度は通期で予算未達でした。3月の大型予算を達成することで挽回を狙いましたが、残念ながら叶いませんでした。そこで今期は、我が社の盟友であるハピネスコンピュータさんから、五十嵐卓也さんに営業部長として来ていただき、大改革を断行することにしました。
新体制のもと、まずはとにかく1勝です。スタート月である今月を死守してください。全員が予算必達の覚悟で、気合いを入れ直して仕事に取り組みましょう」
大村専務の言葉は、若いだけに荒々しい。大改革と言いながら、舌の根も乾かぬうちに、今月の予算達成を死守しろと言っている。
長期的に業績が低迷しているのには理由がある。起きている問題を解決もせず、営業マンの気合いと根性で業績を上げようとしても長つづきはしないし、社員が疲弊して会社の体力がますます落ちていくだけだ。
五十嵐が就任の挨拶をする。
「おはようございます! 本日より、みなさんと一緒に仕事をさせていただくことになりました五十嵐です。よろしくお願いします!」
明るく元気な声で挨拶をする。
笑顔と挨拶は仕事の基本だ。五十嵐は尊敬する上司から、「すべては挨拶からはじまる」と教えられてきた。一人ひとりの顔をしっかりと確認しながら、言葉に思いを込めて大きな声で伝えていく。
「みなさんの夢はなんですか? どんな人生の夢を持っていますか? 私は、会社は夢を実現するための場所だと思っています。そのお手伝いをするために、大村事務機に来ました。誰もが楽しく、そして本気で仕事に取り組める環境と仕組みを作りたい。頑張りますので、ぜひ力を貸してください。私は絶対に逃げないし、諦めもしません。一緒に、夢を実現しましょう」
パラパラと拍手が起きる。いかにも事務的な感じだった。否定的というのではなく、無反応という感じだ。お世辞にも活気があるとはいえない。五十嵐が張り上げた声だけが、空回りしていた。
会社全体に怠惰な空気が漂っている。誰が来たって、何をしたって、どうせ何も変わらない。朝礼から、そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。
貧すれば鈍する。業績が苦しくなると、心までが貧しくなってしまうのだ。まさに今の大村事務機が、そうなろうとしているようだった。
全体朝礼が終わると、各課に分かれて、朝のミーティングがはじまる。3人のリーダーがそれぞれ10名の部下たちの案件進捗状況を確認しはじめた。
「こんなんでどうすんだよ。いくら月初だからって、気の抜けた仕事をしてんじゃねえぞ。一生懸命はいらねえんだ。案件持ってこい」
大手営業課リーダーの佐伯信秀が机を叩きながら、大声を張り上げた。眉間に皺を寄せ、目を吊り上げて、目の前の営業マンたちを睨みつけている。
佐伯は五十嵐の2つ下の38歳。ゴルフか釣りかはわからないが、日焼けした顔が精悍で、スリムスーツがよく似合う痩身長軀だ。大学時代は駅伝の選手で、箱根を目指して4年間陸上部に籍を置いていたらしい。入社以来営業一筋で業績を上げつづけてきた、自他共に認める大村事務機のエースといっていい。大村専務の信任も厚い。
佐伯の前で身を強張らせ、じっとうつむいているのは、3年目セールスの秋元香乃だ。机の上に置かれた手が、微かに震えている。相手が女性だろうが若年次セールスだろうが、佐伯は部下に対してまったく容赦をしない。
「すみません……」
香乃は嵐がすぎるのを待つように、うつむいてじっと耐えている。
「いいか、こういうのを給料ドロボーっていうんだよ。百歩譲って、3月に120パーセントくらい数字を出しきったってんなら話はわかる。おまえ、先月の達成率はいくつだ?」
「72パーセントです」
「えっ? なんだって? 聞こえねえよ。客先でもそんな小さな声で商談してんのか?」
「すみません」
「おまえ、そればっかりじゃねえか。もう2年も営業やってんだろう? 言いわけの1つでもしてみろよ」
「これだけ景気が悪いと、設備投資に慎重な企業が多くて……」
「ああ? じゃあ、なんで地域営業課の本多係長はずっと予算を達成しつづけてるんだ? 景気が悪いのはどこも一緒だろ」
「それは……すみません……」
「また、それか。だいたいうちの顧客は大手の優良企業が多いんだ。地域営業課より不況に強いはずだろう? 売上が悪いのを客のせいにするな!」
本多俊章は全社を牽引するトップセールスで、地域営業課の係長だった。
営業マンの予算計画は、担当顧客層や営業年次をベースにしながらも、実質的には前期実績比110パーセントで組まれる。予算を達成できなければ報奨金は出ないし、ボーナスも期待できない。だが、予算を達成すれば、翌期には大幅な予算計画増が待っている。やればやるほど苦しくなり、蟻地獄のような予算組みから抜け出せなくなる。
大手企業を担当する3年次営業マンの香乃の月次売上予算は300万円程度。本多の場合は中小企業担当にもかかわらず、1,000万円を超えていた。ほとんどの営業マンが予算に苦しんでいる中で、本多は高い水準で達成しつづけていた。まさに全社ナンバーワンのトップセールスだ。本多ならハピネスコンピュータの営業マンと比較しても、かなり上位の評価を得るだろう。
「少しは本多を見習ったらどうだ」
隣の島に座っている本多にも、佐伯の怒声ははっきりと聞こえている。引き合いに出されて、人のよさそうな顔をわずかに歪め、居心地が悪そうにしていた。
本多の上司である地域営業課リーダーの中川智也が、佐伯と張り合うように大きな声を上げている。中川は佐伯と同じ38歳で、同期入社だった。佐伯のほうが管理職になったのは2年早い。中川がそのことを意識していないはずはなかった。
中川がわざとらしく大きな溜息をついた。
誰もが、3月に大型予算を追いかけたばかりだった。4月1日は期初であり、月初でもある。3月から繰り越した継続案件もないわけではないだろうが、よほどのトップセールスでなければ保有案件は乏しい状況になっているはずだ。しかしそんなことなどおかまいなしに、中川は部下たちを追いつめていく。
主任の加藤光則がチェックを受けた。
「あの、保有案件としては厳しい状況ですが、ターゲットの中に見込み顧客が数件ありますので、今週中にそこから案件化したいと思います」
加藤の額を汗が流れる。
「その根拠を言ってみろよ」
「それは……」
加藤の表情が固まった。
大村事務機では顧客を3層にセグメントし、それぞれに営業課を配置している。
公共営業課は市役所や学校法人を担当し、売上予算は一番大きい。ただしその特性から、粗利率は一番低く組まれ、予算計画も3カ月単位となっている。6月、9月、12月、3月の4回しか締め日がないのだ。
しかも年間計画の五割近くが第四四半期に計画されている。代金回収や与信の心配がない反面、入札になる案件も多く、随意契約の場合も利益はほとんど見込めないことが多い。
地域営業課は従業員数300名未満の中小企業を担当し、売上予算は一番小さい。その代わりに粗利率はもっとも高く組まれ、予算計画は1カ月単位となっていて、毎月末が締め日となる。
経営者や決裁権を持った管理職と直に商談できることが多いが、顧客の購買ポテンシャルは決して高いとはいえず、経営層との人間関係が商談を左右することもある。
大手営業課は従業員数300名以上の大手企業を担当し、売上予算も粗利率も三課の中間になるように組まれている。予算計画は地域営業課と同じ1カ月単位となっている。
顧客の購買ポテンシャルは高く、設備投資にも積極的ではあるが、商談の成約までには、稟議や役員会での承認など、複雑で長い決裁ルートを通さねばならないことが多く、営業にあたっては豊富な知識や経験が必要とされる。
毎朝のミーティングは、3つの営業課ごとの顧客特性に応じて、顧客との関係力強化や商談シナリオの進め方について情報共有していくことが狙いなのだが、実際は厳しい案件チェックの場になっているようだ。
ザ・マネジメント
大手メーカーの販売代理店で営業部長をつとめる五十嵐卓也は、社長に乞われ、業績が悪化している中小企業に出向することになる。五十嵐は社員たちとぶつかりながらも、ビジョンの共有、仕組みの構築、情報の活用、教育の強化の4つの視点で、一人ひとりの意識を変えていく。そんなある日、想像だにしなかった最大の危機が五十嵐に襲いかかる……。元リコージャパンのトップマネージャー、杉山大二郎さんが書き下ろした『ザ・マネジメント』は、最強のチームをつくり方をわかりやすく教えてくれるビジネス小説。部下や後輩を持つ人なら絶対役に立つ本書、第一章「ビジョンの共有」から一部をご紹介します。