大手メーカーの販売代理店で営業部長をつとめる五十嵐卓也は、社長に乞われ、業績が悪化している中小企業に出向することになる。五十嵐は社員たちとぶつかりながらも、ビジョンの共有、仕組みの構築、情報の活用、教育の強化の4つの視点で、一人ひとりの意識を変えていく。そんなある日、想像だにしなかった最大の危機が五十嵐に襲いかかる……。元リコージャパンのトップマネージャー、杉山大二郎さんが書き下ろした『ザ・マネジメント』は、最強のチームをつくり方をわかりやすく教えてくれるビジネス小説。部下や後輩を持つ人なら絶対役に立つ本書、第一章「ビジョンの共有」から一部をご紹介します。
* * *
10 未来の履歴書が今日を創る
夕方になると、営業マンたちが次々と帰社してきた。全員がそろったところで、五十嵐は声をかける。
「突然で申しわけないが、みんな集まってくれ」
29名の営業マンたちが、それぞれ椅子を寄せ合うようにしながら、五十嵐のまわりに集まりはじめる。
香乃の顔もあった。今日もめぼしい成果はなかったようで、笑顔は見えない。
肩を落とした香乃が、まわりの先輩たちに気づかれないように、小さく溜息をついた。背中を丸め、みんなに遅れながら、重い足取りで歩いてくる。
五十嵐は先ほど3人のリーダーと話し合って決めた推進責任者制度について、自分の思いを込めながら説明した。
「全員って、私もですか?」
香乃がおそるおそる手を挙げて質問してきた。その顔には、そんなことは無理に決まっていると書いてある。
「もちろん、全員といったら全員だ。秋元さんにも、何かの責任者になってもらう。責任者になった領域については、原則として私やリーダーと同等あるいはそれ以上の権限を持ってもらうから」
五十嵐の言葉に、香乃がさらに表情を硬くした。まわりの先輩たちの顔色をうかがっている。
「そんなの……できません……」
つぶやくように言った。
「秋元さんだって、得意なことはあるだろう。他人より、すごく興味を持っていることでもいい」
「私なんか……」
「そうだ! マナーなんてどうかな?」
「マナーですか?」
香乃が訝しげに首をかしげている。
「秋元さんはビジネスマンとして、服装もしっかりしているし、机の上も整理整頓されていて、書類が散らかっているようなこともないよね。我が社のビジネスマナー強化の責任者になってもらえないかな」
そのやり取りを見ていた佐伯が口を挟む。
「机の上がきれいなくらいで、ビジネスマナーの責任者ですか?」
五十嵐に反対するというほどのことではなく、むしろ心配しての発言のようだ。
「机の整理ができるかどうかは、ビジネスマンとしては重要なことだろう。契約書や顧客リストなどの社外秘情報が机の上に置きっぱなしになっていればセキュリティの観点で大変な問題だし、必要な情報が整理されていてすぐに取り出せるようになっていれば、業務効率が高いということになる。
無駄なゴミを出さないのは、環境にも配慮しているといえる。そういう営業生産性の高い仕事は、評価していいんじゃないか」
五十嵐は佐伯の机の上に、チラッと視線を送った。今にも崩れ落ちそうなほど、書類が高く積まれていた。
「まあ……そうですね」
佐伯が頭を搔いた。
香乃は自分が褒められたことに、うれしいような恥ずかしいような、複雑な表情をしていた。それでも大きな目をさらに見開くようにして、五十嵐をまっすぐに見ている。
「では、秋元さんには、ビジネスマナーの推進責任者をやってもらうということでいいかな?」
「ほんとに……私でいいんですか?」
「頼りにしてるよ」
「はい」
香乃が緊張した面持ちで、それでもしっかりとうなずいた。
その後も、それぞれの意見を充分に聴きながら、29人全員に最低でも1つは、何かの推進責任者を割り当てた。
「次は、未来の履歴書を書いてもらうから」
「履歴書ですか?」
そこまでは事前に説明していなかったので、佐伯が質問してきた。
「履歴書ではなく、未来の履歴書だよ」
各自がそれぞれに口を開きはじめた。その場が賑やかになっていく。
五十嵐の気さくな性格が生み出す空気に少しずつ慣れてきたようだ。しばらく自由に話をさせておき、頃合いを見て言葉をつづける。
「ピーター・ドラッカーの『マネジメント』を読んだことがある人はいる?」
営業マンたちは顔を見合わせているが、リーダー3人も含めて、手を挙げる者はいなかった。
「名前くらいは知ってるよな。ドラッカーはオーストリアの経営学者なんだが、著書『マネジメント』にこんな話を書いている」
口々に話をしていた営業マンたちが、口をつぐんで五十嵐に注目する。
「3人の石切職人がいて、それぞれに『あなたは何をしているのか?』と尋ねた。1人目の石切職人は、『これで暮らしを立てている』と答えた。つまりは、対価のために仕事をしているということだな。
2人目の石切職人は、『国中で一番じょうずな石切りの仕事をしている』と答えた。彼はプロ意識に徹している。業務においては、品質を高めることは大切なことだからね。しかし、彼の目的は、あくまでも石を切るということだ。
3人目の石切職人は、目を輝かせ、夢見心地で空を見上げながら、『人々が祈るための大聖堂を造っている』と答えた。彼は石切場にいるのであって、大聖堂の建築現場は見ていない。それでも彼の目には、しっかりと祈る人々の姿までもが見えていたんだ。
彼の目的は、決して石を切ることでも、大聖堂を造ることでもない。人々の信仰への思いに、応えたいということなんだ。3人のうちで誰の生産性が一番高いか、答えは言うまでもないだろう」
営業マンたちの顔つきが変わっていくのを確認すると、五十嵐は未来の履歴書のシートを配りはじめた。
A3判1枚に履歴書のフォームが印刷されている。経歴の欄を増やしてある以外は、市販のものと大差はなかった。
リーダーの3人も含めて、全員に未来の履歴書を書いてもらうことにする。
通常の履歴書は過去から現在までを説明するわけだが、これは現在からはじまって、将来の自分について書いていく。
未来のことだから、どんなことを書くのも自由だ。どうせ、未来のことは誰にもわからない。
何歳でもいいので年齢を決めて、「なりたい自分の姿」を思い描くのだ。
人生の終焉でも、会社の定年でも、子供が成人になるころでもいい。若い人で、そんな先など想像できないというなら、10年後くらいの未来でもいいのだ。
なりたい自分の姿を決めたら、そこに至るまでの履歴を書いていく。人生の設計図といってもいい。
恋人のいない人は、何歳までに恋人を作り、何歳で海外旅行に出かけ、何歳で車を買ってドライブを楽しみ、何歳で結婚するのか。
既婚者だったら、何歳までに子供を作り、何歳までに家を買い、子供をどこの大学に行かせ、どんな職業につかせたいか。
定年後にはこんな生活を送りたいとか、会社を辞めて起業したいでもかまわない。親の仕事を手伝いたいというのも立派な未来の姿だ。
それが書けたら、次にその未来の履歴書の実現のために、必要な会社での役職、資格、知識、収入などを書き込んでいく。出世を前提にしなくてもいい。残業は週に2日だけにして、趣味や資格取得の勉強のために6時半までには帰宅できるようにする、などのライフスタイルを決めるのもありだ。
「そのために、今期や今月をどうするのか? 目標を立てていくんだ。会社から下ろされた予算を達成するためにどうするかではない。自分自身が描いた、『なりたい自分の姿』になるために必要なことを準備するんだ。
もちろん、自分一人だけの力では、夢の実現は不可能だ。会社という組織が利益を上げていくからこそ、自分の成長も助けてもらえる。だから、会社のビジョンの実現に対して、自分がどんな役割を担えるのかを明確にしてほしい。
組織に対する自分の価値を示すんだ。それがみんなの夢の実現への近道なわけだから」
香乃が履歴書を睨みつけるようにして、じっと見つめている。
香乃の背後から覗き込むと、まったくの白紙だった。まだ何も書かれていない。
五十嵐に気がつくと、あわてて手で履歴書を覆い隠した。香乃が表情を曇らせる。
「今すぐに書けなくてもいい。ゆっくり答えを見つけていこう」
五十嵐は全員に向かって、しっかりと大きな声で言った。
翌朝、営業部の朝礼の途中で、香乃がおずおずと手を挙げた。
「ビジネスマナー責任者から、みなさんに提案があります。毎朝1人ずつ順番に新聞記事の紹介をする、『3分間スピーチ』をしていきたいと思います。
私たちの商談相手である企業の経営層や管理層との関係力を高めるために、新鮮で深い話材を準備することが目的です。その日の朝刊の一面から記事を1つ選んで、それを読んだあとで解説をするというルールでやりたいと思います」
香乃の話を、誰もが、面倒なことがはじまったというような顔で聞いていた。それでも香乃は、それに気づいていないかのように、一生懸命に語りかける。
「それではさっそく今日からはじめたいと思いますが、初日ですので、まずは私から……」
香乃がTPPについての記事を読み、説明をはじめた。
事前に下調べをしてきたようで、環太平洋地域における関税撤廃を前提とした経済連携協定について、消費者が受けるメリットと農家などの生産者が受けるデメリットを比較しながら、国内の経済へ及ぼす影響などを、食料自給率なども絡めて、わかりやすく解説していく。
テレビのニュースで紹介される程度のレベルではあるが、香乃なりに自分の考えも交えながらスピーチを締め括った。
意外なほどのしっかりとした発表に、佐伯も含め、誰もが驚いた顔をしている。
おそらく今朝はかなり早起きをして、事前準備をしたのだろう。少しずつだが、それでも確実に責任感は育ちはじめている。
五十嵐が拍手をすると、全員があわててそれに倣った。
「素晴らしいスピーチだったよ」
香乃がくすぐったそうに微笑んだ。
ザ・マネジメント
大手メーカーの販売代理店で営業部長をつとめる五十嵐卓也は、社長に乞われ、業績が悪化している中小企業に出向することになる。五十嵐は社員たちとぶつかりながらも、ビジョンの共有、仕組みの構築、情報の活用、教育の強化の4つの視点で、一人ひとりの意識を変えていく。そんなある日、想像だにしなかった最大の危機が五十嵐に襲いかかる……。元リコージャパンのトップマネージャー、杉山大二郎さんが書き下ろした『ザ・マネジメント』は、最強のチームをつくり方をわかりやすく教えてくれるビジネス小説。部下や後輩を持つ人なら絶対役に立つ本書、第一章「ビジョンの共有」から一部をご紹介します。