キズナ、ワンアンドオンリー、コントレイル……日本屈指のオーナーブリーダーの、飽くなき挑戦と専心の軌跡を描いた感動のノンフィクションノベル『夢を喰う男』(本城雅人著)。話題の本書から試し読みをお届けします。優駿たちが駆け抜けたゴールの陰に、密やかに流された汗と涙のドラマがある!!(※ページの最後に、本城雅人さん、福永祐一さん、前田幸治さんの貴重なトークイベント情報があります。お見逃しなく!!)
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プロローグ
2020年5月31日、テレビに映る東京競馬場の空は、今にも泣き出しそうだった。
発走時間の3時40分まではどうにか持ちこたえてくれそうだと、アナウンサーは希望を滲ませた声で話している。リビングのソファーに座り、朝からグリーンチャンネルの競馬中継を見ていた幸治も思いは同じだった。
ダービーは、馬にとって一生に一度の晴れ舞台だ。良馬場でやってほしい。その願いは、この日のように圧倒的一番人気で愛馬が出走する時も、まったく人気がない馬の時も変わらない。
午後に入って、幸治は一度シャワーを浴び、新品の下着に着替え、白のシャツにスラックス、そしてこの日の空模様とは対照的な、鮮やかなブルーのジャケットを羽織ってリビングに戻った。
すでに妻の葉子が、若草色のワンピースを纏い二階から降りてきて、ソファーに腰を下ろしている。
ダービーのパドックが始まる3時になると、東京から帰省していた次男の幸大も紺のジャケット姿で自分の部屋から出てきた。二人とも幸治がなにか言ったわけでもないのに、競馬場の馬主席で観戦する時と同じような装いだった。
テレビは第87回東京優駿「日本ダービー」のパドックを映し出していた。
カメラがゼッケン5番を着けた青鹿毛の馬体をアップで捉える。
馬の名はコントレイル。
幸治が代表を務める北海道 新冠 郡新冠町にあるサラブレッドの生産牧場「ノースヒルズ」の生産馬だ。
4戦4勝で皐月賞を制し、このダービーも1.4倍の一番人気に推されている。
ノースヒルズの生産馬としては3度目のダービー制覇がかかっていた。馬主は弟の晋二だが、「前田家」の馬であることには変わりない。
オーナーでありながら競馬場に行かずに大阪府豊中市の自宅での観戦になったのは、新型コロナの感染拡大により、2月29日から競馬が無観客開催となったからだ。
仮に関係者のうち一人だけが入場を許されたとしても、幸治一人で行ったかどうかは分からない。極度の潔癖症である幸治は、感染経路さえ明らかにされていない、得体の知れないウイルスに誰よりも注意を払っていた。そんなことよりも、こうして家族でダービーを観戦できることがなによりだ。大レースに愛馬が出走した時は、前田家はできるだけ競馬場に集合、牧場からもスタッフを呼んでみんなで応援する。
画面に映るコントレイルはパドックをゆったりと歩き、落ち着いていた。馬体も最高の仕上がりだ。だがレースが近づくにつれ、幸治の動悸は速くなっていく。心音を家族に聞かれそうな気がして席を立った。
「どうしたの? もうすぐ本馬場入場よ」葉子が眉をひそめた。
「ちょっとな」
幸治が立ち上がって幸大の前を横切ろうとすると、身長182センチの次男はすっと足をどけて通してくれた。
トイレの手前の洗面台で蛇口を捻る。水に両手を擦り合わせ、いつものようにシミュレーションする。どんなに人気を背負っても「負けるならどういったケースか」と考えるのが幸治のレース前の習慣だった。
口癖は「競馬は9回の落胆と1回の喜び」。
勝つのは10回に1回、どんなに能力の高い競走馬でも負けることがあるのが競馬だ。
皐月賞のようにゲートからの出足が悪く、後方からの競馬になるかもしれない。だが皐月賞より400メートル距離が延び、直線の長い東京競馬場ならいくらでも巻き返せるだろう。直線で包まれて行き場を失うかもしれない。それも問題ない。コントレイルの瞬発力があれば、前をこじ開けて突き抜けてくる。昨夜もベッドの中で負けるレース展開を考えたが、思いつかなかった。
我に返ると水が出しっぱなしだった。
「いかん、もったいない」
そう独り言ちて水栓を元に戻す。水道施設の大型プラントの運営、管理を基幹事業の一つにしているアイテック株式会社の創業者である幸治は、環境ソリューション企業の一員として資源は大切にしなくてはいけないと、つねづね社員に言ってきた。水の出しっぱなしなど、もってのほかだ。
葉子が、幸治がレース前にそうするのを見越していたかのように、洗面台の横に下ろしたてのタオルを用意してくれていた。
両手を丁寧に拭き、携帯電話に届いたメールを開く。
添付された写真には、ノースヒルズの勝負服と同じ鮮やかな水色の空に、六本の飛行機雲がくっきりと写し出されていた。
《東京でこんな景色が見られました》
一昨日、新型コロナの医療従事者への敬意と感謝を込めて自衛隊のブルーインパルスが東京スカイツリー上空を飛行した光景を、友人の鳴戸親方(元大関・琴欧洲)が撮影して送ってくれたのだ。
写真を眺めていると、コントレイルにエールを送ってくれているように思えてきた。昂った気持ちがいつしかほどけ、心の中が清々しいほど晴れていく。
「あなた、なにやってるのよ。もうすぐゲートよ」
リビングに戻ると葉子に手招きされた。
「コントレイルはどうだ」テレビの真正面の席に座って幸大に訊く。
「落ち着いてて、いい感じだよ」
騎手の福永祐一を背に乗せたコントレイルは、一番人気が分かっているかのように堂々と闊歩していた。
ゲートインが始まった。十八頭が順番に係員に引っぱられていく。コントレイルは嫌がることなく入った。最後に大外枠の馬が枠入りし、係員が離れた。コントレイルは好スタートを切った。
このダービー、幸治はコントレイルのほかに、コルテジアにディープボンドと計三頭出走させていた。ツール・ド・フランスに出場する自転車チームのように、水色に赤十字襷の勝負服の3頭が2~4番手につけていた。ペースは悪くない。コントレイルは折り合いがつき、気持ちよさそうに走っていた。福永は直線で、コントレイルを馬場の真ん中に出した。まだ追い出すのは早い。だが福永が我慢できないほどの手応えで追い出すタイミングを待っているのが、幸治には手に取るように分かった。
後方から2番人気のサリオスが迫ってくる。
幸治は立ち上がった。
競馬場では一緒に勝負をしている他の馬主のことを考え、はしゃぐことは控えている幸治だが、この時は思わず叫んだ。
「コントレイル!」
だが叫んだのはそのひと言で充分だった。幸治の声に応えるかのように福永が追い出しを図り、コントレイルはサリオスを突き放した。
ゴールした時には3馬身の差がついていた。
「よっしゃー、やったぁ、勝った」
真っ先に幸大が右手を突き上げて叫ぶ。
「ダービーだ。無敗でダービーを勝ったぞ」
幸治もバンザイして、息子を抱きしめた。その輪に葉子も加わり、喜びを分かち合う。
「こんなに強いなんて、すごいわ」
幸治の電話が鳴った。調教師の矢作芳人とかと思ったが、かけてきたのは長男の幸貴だった。
〈お父さん、やりましたね〉
「ありがとう、幸貴」
外資系コンサルティング会社への就職が内定した大学4年生の幸貴は、この日はどうしても外せない所用で都内に出ていたが、ダービーは見てくれていたようだ。
「あの時、授賞式で幸貴が言っていた通りになるかもしれんな」
最優秀2歳牡馬になった昨年(2019年)のJRA賞の授賞式で、馬主である弟の晋二に代わり、壇上に立った幸貴の姿を思い出した。
──三冠を目指せる馬だと思っています。
幸貴は堂々と宣言し、会場にいた幸治を驚かせた。
「お父さん、なりますよ。コントレイルはそのクラスの馬です」
「ありがとう。嬉しいよ」
祝福の電話はその後も鳴りやむことはなかった。
生産馬として3度目のダービー制覇となったが、皐月賞、ダービーと、無敗のまま勝ち続けたのはコントレイルが初めてだ。
やっとここまできたか──。
憧れの競馬の世界に飛び込み、牧場も馬もスタッフも、なにもかもゼロから始めて、なにかが足りない、まだ新しい発見があるはずだと挑戦を続け、そのたびに失敗を繰り返しては挫けそうになった。この時、牧場を始めて37年目。
それでも粉骨砕身の思いで突き進んできた。苦労をかけた家族とダービーを勝った喜びを分かちあえたことに、幸治は幸せでいっぱいになった。
7/6(水)19:00~紀伊國屋書店グランフロント大阪店にてトークイベントを開催!!
※残席わずか!! イベント参加にはチケットのご購入が必要になります。7/5、7/6は紀伊國屋書店グランフロント大阪店までお問い合わせください。
本書の刊行を記念し、ノースヒルズ代表・前田幸治さんと、著者の本城雅人さん、そしてスペシャルゲストに福永祐一騎手をお迎えし、7月6日(水)にトークイベントを開催いたします(会場:グランフロント大阪北館(タワーB)10階
ナレッジキャピタルカンファレンスルーム タワーB Room B01+02)。プロの勝負師たちの見方、考え方に触れる時間は、競馬ファンのみならず、多くの人にとって貴重な体験となること請け合いです。ぜひ奮ってご参加ください!
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見果てぬ夢、至高の頂へ。
キズナ、ワンアンドオンリー、コントレイル……
人馬一体で悠久の未来へと疾走する、感動のノンフィクションノベル!