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夢を喰う男 ダービー3勝を遂げた馬主、ノースヒルズ前田幸治の覚悟

2022.07.03 公開 ポスト

第3章

#4 俺は牧場を作りたいんだよ。ヨーロッパのように広くて色鮮やかな美しい牧場を本城雅人

キズナ、ワンアンドオンリー、コントレイル……日本屈指のオーナーブリーダーの、飽くなき挑戦と専心の軌跡を描いた感動のノンフィクションノベル『夢を喰う男』(本城雅人著)。話題の本書から試し読みをお届けします。優駿たちが駆け抜けたゴールの陰に、密やかに流された汗と涙のドラマがある!! (※ページの最後に、本城雅人さん、福永祐一さん、前田幸治さんの貴重なトークイベント情報があります。お見逃しなく!!)

*  *  *

前回までは…

4

こたつでみかんを食べながら、たいした興味も示さずに幸治の話を聞いていた吉田が、仰天してみかんを喉に詰まらせた。

「あんた、牧場を作るって、本気で言うとるのか」

「はい、北海道でオーナーブリーダーをやろうと思っています」

今でこそ日本からオーナーブリーダーはほとんどいなくなり、日本を代表する生産牧場のノーザンファームや社台ファームでさえ生産馬はセレクトセールで販売するか、自社が所有するクラブ法人で一口馬主を募集するなどしているが、当時は他分野で成功した実業家が牧場を所有して、自家所有馬として走らせているケースがいくつもあった。

洋服のオンワード牧場、フジタ工業の藤田一族が保有するトウショウ牧場、和田共弘氏のシンボリ牧場、北野建設のメジロ牧場、親子三代でダービーを制した千明(ちぎら)牧場……自家生産した馬を自分の名義で走らせ、八大競走と呼ばれるダービーや天皇賞、有馬記念を勝つ。海外ほど競馬場が社交場とは言えない日本でも、牧場を所有し、生まれた馬を自分の名義で走らせることは大きなステータスだった。

「あんたまだ馬主になったばかりやないか」

「だからこそ早く始めたいんですよ。自分で一から作った方が楽しいでしょうし」

「廃業寸前の古い牧場を買うってことか」

「いいえ、廃すたれた牧場などは興味ありません。更地を整えてあたり一面に牧草を生やし、きれいにペンキを塗った厩舎を作って、一から牧場を始めます」

「やめときなはれ。理想を語るのは簡単やけど、馬産はそんな甘い仕事やない。そんなことやって築いた財産を失った人を、私はたくさん見てきた」

「私は海千山千の商売人が集まる大阪でビジネスをして、勝ち抜いてきたんですよ。歴戦の(つわもの)です。牧場経営が難しいと言っても、必ずやり遂げてみせます」

いくら説得しても幸治が聞く耳を持たないことに呆れて、吉田は「それやったら、好きにしなはれ」と部屋を出ていった。

幸治の計画に腰を抜かしたのは調教師だけではなかった。誰よりも反対したのは父・正治だった。

「おまえは馬を買う時に値段を吊り上げられるから、それで自棄(やけ)になって牧場なんて言い出してるんじゃないのか」

「まさか、父ちゃん、俺はそんなつもりはないよ。牧場を開いたからってすぐに馬がデビューできるわけではない。これから繁殖牝馬も買わないといけないし、いずれは自分の牧場の馬で勝負したいけど、当面は他所で馬を買っていくつもりだ」

「それなら馬主だけでも充分だろ」

「俺は牧場を作りたいんだよ。ヨーロッパに行った時、どこの国に行ってもきれいな屋根をした牧場がいくつもあった。それと比べて日本は牛舎みたいな牧場ばかりだ。日本もヨーロッパみたいな広くて色鮮やかな景色にしたい。きっとそういう牧場から良い馬が出る」

「おまえが馬主をやりたいと言った時、お父ちゃんはそんな道楽して大丈夫かと心配したけど、自分で必死に働いて貯めた金だからと口出しはしなかった。だけど牧場はあかんぞ。いくら金を食い潰すか分からん。競馬をやりたいなら馬主だけにしとけ」

「いや、絶対やる」

子供の頃から父の言うことは絶対だった幸治だが、これだけは聞けなかった。晋二は反対しなかった。ただ、晋二もこう言った。

「兄貴、やるのはいいけど馬の数は少なくしよな」

「分かってる。いきなり大きなものを作るのが好かないのは、晋二もよく知ってるだろ」

あくる週には幸治は行動を起こした。これまで購入した牧場主に次々に電話をして、どこかにいい土地がないか探してもらった。

廃業した牧場ならいくらでもあったが、幸治が求めているのは六十ヘクタールの広さがあり、まだ競馬関係者の手垢のついていない土地だ。簡単には見つからない。しかも幸治の条件には「今後さらに土地を広げていける余裕がある」ことも入っていた。つまり付近に牧場がない場所。とても自分たちでは手に負えないと、牧場主たちは不動産ブローカーを紹介した。

その不動産ブローカーから、候補地が見つかったので、一度、北海道に来てほしいと電話が入った。

千歳(ちとせ)空港から太平洋沿いの国道を二時間ほど走りながら、幸治は上機嫌だった。

「しかし太平洋沿いを走ると気持ちいいですな。牧場から馬が海を眺められたらさぞかし気分もええでしょう」

「前田さんは海が好きなんですか」

案内する不動産業者が車のハンドルを握りながら尋ねてきた。

「私は海がない奈良県出身です。大阪に出ましたけど、大阪は海といっても港でしょ。工場排水で汚れているし」

「ということは、泳ぎは苦手ですか」

「なに言ってるんですか。夏になると吉野川で泳いでましたよ。これでも吉野の河童(かつぱ)と言われてたんですから」

幸治は快活に笑ったが、不動産業者は愛想笑いを浮かべただけだった。これから行く土地を見て、幸治が今と同じ顔でいられるか、自信がなかったからだろう。

業者の心配もよそに、幸治は心が躍っていた。水面は静かに白波が立ち、海岸に寄せては返していく。沿岸は昆布業が盛んだった。そして国道を挟んだ反対側には牧場が連なって、馬たちが気持ちよさそうに放牧されている。ここにヨーロッパで見た色鮮やかな厩舎を建てたら、たくさんの観光客が訪れて町興しにも繋がるのではないか。空港から国道一本で来られるので、休みの日にしょっちゅう観にくることもできる。

ところが、不動産業者の車が向かった土地は、海が眺められる景色のいい場所でも、国道から近くの利便性のいい場所でもなかった。

新冠という町から山の方へと入っていく。舗装されている道はすぐに終わり、そこから先はそろばん通りと呼ばれ、激しい車の揺れに顎が外れるのではないかと思うほど道はガタガタだった。その酷い砂利道を、車は土煙をあげて走る。対向車がすれ違うほどの幅はなく、そのたびに車は立ち往生だ。周辺は山林以外、なにも見当たらない。

「いったい、どこまで行くんですか」

「牧場というのは沢の近くでないとやれないんですよ。馬には水が必要ですから」

不動産業者も初めて行くようで、時々、運転しながら地図を開いて確認している。

「そんなことは分かってますよ。さっき沢があったじゃないですか」

「そういう場所はもうどこかの牧場や企業が手を付けてるんです。前田さんの要望に応えるにはもっと奥まで行かないと」

国道から約二十キロ、およそ一時間くらいかけ美宇(びう)という集落に入った。数軒だが牧場があった。しかし車はまだ停まる気配がない。

「まだ行くんですか」

その集落の一番上に、「平山牧場」という看板の立つ家族経営らしい牧場があった。そこで車を停めると、厩舎から二十代前半に見える男がふらりと出てきた。平山牧場の長男らしい。彼は会釈をしながら平山博幸と名乗った。

不動産業者が事前に連絡していて、そこから平山に案内してもらう手筈になっていた。

平山を先頭にして、さらに山側へと歩いていく。そこより先は戦前に入った開拓者が離農した荒れ地で、雑木林になっていた。平山自身もここへ入ったのは小学生の頃、野イチゴを採りにきたのが一回あるだけ。「これ以上奥に行くと熊の巣があって危ないから行くな」と親に注意されたという。

川のせせらぎが聞こえた。

「沢があるんですね」

幸治は声を弾ませる。だが不動産業者と平山の反応は芳しくない。

耳を澄まして音がする方に目を向けると、確かに沢は流れていたが、それは平山牧場の敷地内で、おんぼろの吊り橋が架かっていた。向こう岸も平山牧場の敷地で馬が放牧されているらしい。

「あんな吊り橋、どうやって馬を移動させるんですか。まさか吊り橋を渡らせたりはしないでしょ?」

馬など載せたら、その重みで横揺れして、橋ごと落ちてしまいそうだ。

「馬は歩いて沢を渡らせます」平山は答える。

「泳がせるってことですか」

「大雨でも降らない限り、流れが緩やかなのでたいしたことはありません。それに沢の向こうにも馬房があるので、馬が渡るのは母馬が種付けに行く時と、仔馬を離乳した時くらいですから」

平山からは当然のように言われるが、幸治は牧場というよりも何もない大自然の中に迷い込んだようで驚愕した。

不動産業者が幸治に案内しようとしていた土地は、沢とは反対の山の方で、橋を渡らずに済んだ。だがそれは藪を搔き分けて進むけもの道だった。牧場を作るにはまず車が普通に通れるように道を広げるところから始めなくてはならない。とてもではないが、こんな場所に牧場は無理だ。

息を切らして砂利の坂道を登り切ると、雑木林が広がっていた。

「ここが前田さんにご紹介する土地です。札幌の病院がリハビリ施設を作ろうと計画してたのですが、資金がショートしてしまってほっぽりっ放しになっているんです」

「そうだったんですか」

「ここでしたら債権者を私が一つにまとめられると思って案内しましたが、さすがに場所が悪すぎて、牧場は無理ですね」

不動産業者も聞いていた以上の荒れ地だったことに嘆息する。

予想していたものとは完全に違っていた。だが車も容易に入ってこられないから空気も澄んでいてきれいだ。土地は起伏が激しく、ここを放牧地にしたら、馬たちが駆け回るだけで足腰が強くなりそうな気がした。

「いいじゃないですか。買うことにします」

「えっ、本当にここでいいんですか?」

「そっちが薦めてきたんじゃないですか」

「前田さんの予算ではここらあたりしかないですけど」

「道路を広げて、砂利道は全部舗装して、何年かしたら見違えるような景色に変えてみせますよ」

すぐに契約交渉に入った。不動産業者の言い値は二億円近かった。幸治はそれを一億五千万円まで値切った。六十ヘクタール、平米換算したら六十万平米、一九八八年に開業した東京ドームが四万七千平米だからおよそ十三個分だ。

あとで知ったことだが、実際は一億円程度が相場で、幸治は一・五倍で買わされていた。

その事実を知っても不動産業者に文句をつけたりはしなかった。この地で素晴らしい牧場を開いて、強い馬を送り出せばいいだけの話だ。そうすれば調教師や関係者がやってきて、集落全体が活気づき、土地の値段だって上がるはずだと、幸治はホースマンとしての未来を思い描いて興奮を隠せなかった。

 

 

7/6(水)19:00~紀伊國屋書店グランフロント大阪店にてトークイベントを開催!! 


※残席わずか!! イベント参加にはチケットのご購入が必要になります。7/5、7/6は紀伊國屋書店グランフロント大阪店までお問い合わせください。

本書の刊行を記念し、ノースヒルズ代表・前田幸治さんと、著者の本城雅人さん、そしてスペシャルゲストに福永祐一騎手をお迎えし、7月6日(水)にトークイベントを開催いたします(会場:グランフロント大阪北館(タワーB)10階
ナレッジキャピタルカンファレンスルーム タワーB Room B01+02)。プロの勝負師たちの見方、考え方に触れる時間は、競馬ファンのみならず、多くの人にとって貴重な体験となること請け合いです。ぜひ奮ってご参加ください!

 

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本城雅人

1965年、神奈川県生まれ。2009年『ノーバディノウズ』が松本清張賞候補となり作家デビュー。17年『ミッドナイト・ジャーナル』で吉川英治文学新人賞を受賞。18年『傍流の記者』が直木賞候補になり話題となった。近著に『あかり野牧場』『オールドタイムズ』。

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