2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、徳川家康への関心が高まっています。家康は「寡黙の苦労人」「腹黒い狸親父」というイメージがありますが、その実像は近年の研究により、大きく変わってきています。
家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証し真実を解き明かした『誤解だらけの徳川家康』から一部を試し読みとしてお届けします。
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徳川家康といえば、江戸幕府の創始者であるが、その人生は波乱に富んでいた。幼い頃は今川義元(よしもと)の人質になり、その後は織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕えた。その間、多くの合戦に出陣し、ときには落命の危機にもさらされた。とはいえ、革新者だった信長や知恵者の秀吉に比べ、家康の印象はやや薄い。
その理由は、家康が江戸幕府を築いたという点を除けば、目立った功績などがあまり周知されていないからだろう。一言でいえば、地味なのである。地味であるがゆえに、家康にまつわる誤解が多々あるのも事実である。
家康は幼い頃に今川氏の人質となり、苦労して育った。父と祖父は殺害され、生い立ちから不幸だった。三河の一向一揆では家臣に裏切られるなど、その生涯は苦難の道のりだったといえる。実力はありながらも、同時代には織田信長、豊臣秀吉という天下人がいたので、天下取りへの道は険しかった。おまけに派手なエピソードがたくさんあるわけでもなく、家康には「寡黙な苦労人」というイメージが定着した。
次の言葉は、家康の遺訓として非常に有名なものである。
「人の一生は重荷を負(おう)て遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし、心に望(のぞみ)起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久(ちょうきゅう)の基(もとい)、怒りは敵と思へ。勝事(かつこと)ばかり知りて、負(ま)くる事をしらざれば、害其(その)身にいたる。己を責て人を責むるな。及ばざるは過たるより勝れり」(読みやすさを考慮し、句読点を付した)
家康が「寡黙な苦労人」と評価されるに至った遺訓であるが、この遺訓は後世の創作だったことが明らかにされている。明治維新後、幕臣の池田松之介(まつのすけ)は、伝(でん)徳川光圀(みつくに)作の遺訓「人のいましめ」をもとにして、家康の遺訓と称した。この創作を高橋泥舟(でいしゅう)らが日光東照宮(栃木県日光市)などに奉納し、広く知られるようになったという。「人のいましめ」自体も「伝」とあるように、光圀の手によるものなのか不明である。
苦労人といえば、信長や秀吉も苦難の道のりを歩んできた。信長は若い頃に一族間での争いに明け暮れ、晩年は「反信長」勢力との戦いに奔走した。秀吉に至っては、出自が武士身分ではなく、貧しい家の生まれだった。そのようなことを考えると、家康の苦労ばかりが強調されるのは不自然である。
これまで、戦国期の松平・徳川氏については、江戸期の家譜・記録類をもとにした「松平・徳川中心史観」に基づいていた。「松平・徳川中心史観」とは、家康が慶長(けいちよう)八年(一六〇三)に征夷大将軍に就任したことから遡及(そきゆう)して、それ以前の松平・徳川両氏の存在を特別視する歴史観である。特別視というよりも、神格化といったほうが良いかもしれない。本書でも取り上げる「神君(しんくん)伊賀越え」などは、その代表的なものだろう。
しかし、現在の研究では「松平・徳川中心史観」が克服され、従来説の誤りがかなり正されている。私たちがよく知る家康に関する有名な「あの話」も、実は誤りだったということも珍しくない。「家康が三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで脱糞(だっぷん)した」というのもその一つだろう。
むろん、そうしたおもしろおかしい話は「松平・徳川中心史観」に基づくものだけではなく、「アンチ家康」によるものもある。大坂の陣において、家康が真田信繁(のぶしげ)に追撃され、逃げに逃げまくるというエピソードがそれである。
本書は家康の生涯をたどるものであるが、こまごまとした史実を網羅的に追究するのではなく、その生涯のなかで特筆すべきトピックスの分析に焦点を定めたものである。平たくいえば、家康にまつわるさまざまな俗説を詳しく検証し、それが誤りであること、あるいは疑問視されることを指摘した。むろん、家康の生涯についても、必要なことには触れているので、ご安心いただけると幸いである。
誤解だらけの徳川家康
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、徳川家康への関心が高まっています。家康は「寡黙の苦労人」「腹黒い狸親父」というイメージがありますが、その実像は近年の研究により、大きく変わってきています。
家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証した『誤解だらけの徳川家康』から一部を試し読みとしてお届けします。