2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、徳川家康への関心が高まっています。家康は「寡黙の苦労人」「腹黒い狸親父」というイメージがありますが、その実像は近年の研究により、大きく変わってきています。
家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証し真実を解き明かした『誤解だらけの徳川家康』から一部を試し読みとしてお届けします。
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徳川氏改姓の舞台裏
永禄九年(一五六六)十二月、家康は従五位下・三河守に叙位任官され、あわせて松平から徳川に改姓した。実際に勅許を得られたのは翌年一月のことである。
そもそも家康の本姓(ほんせい)は、「源」だった。本姓とは、天皇から下賜(かし)された姓のことで、名字とは別個のものである。たとえば、足利義満は本姓が「源」なので、正式には源義満という。しかし、このとき家康が与えられた口宣案(くぜんあん)(辞令書)には、「藤原家康」と書かれていた。なぜ家康は、本姓を「源」から「藤原」に改姓したのか、まずこの問題を取り上げることにしよう。
そのカギを握るのは、慶長七年二月二十日付の近衛前久(このえさきひさ)書状(近衛信尹(のぶただ)宛)である(「近衛家文書」)。以下、藤井讓治氏の研究(二〇二〇)により、改姓の経緯をまとめておこう。
正親町(おおぎまち)天皇は家康を公家として処遇したかったが、家康の家系の徳川では先例がなかった。ところが、徳川の源氏には二つの系統があり、惣領(そうりよう)の系統が藤原氏になったという例が報告された。この情報を知らせたのは、吉田兼右(かねみぎ)だった。そこで、家康の本姓を「源」から「藤原」に変更することで、右の叙位任官が叶ったのである。当時は先例を重んじる気風があったので、こうした「裏技」を使ったのである。
家康の「松平」から「徳川」への改姓は、永禄九年十二月三日付近衛前久書状(誓願寺泰翁(せいがんじたいおう)宛)に事情が書かれている(「近衛家文書」)。以下、その概要をまとめておこう。実は家康が「徳川」に改姓するまで、書状などに「徳川」と署名した文書はない。改正以後もわずか二通の書状を除き、自ら「徳川」と署名した文書もない。
右の前久の書状によると、誓願寺(京都市中京区)で納所(なつしよ)(金銭の収支を扱う役)を務めた慶深(けいしん)なる者が、「徳川氏はかつて近衛家に仕えていた」と証言したことが書かれている。この件については、「松平」のままでは従五位下・三河守への叙位任官が困難だったので、家康が「徳川」に改姓することによって、認めてもらうよう画策したと指摘されている。こうして家康は、晴れて公家の仲間入りを果たした。
ところで、われわれは「徳川」と表記するが、公家の間では「得川」と書かれるのが一般的だった。先の前久の書状には「徳川は得川と書くのが根本である。『徳』の字を書くのは、事情があるからだ」と書かれている。
家康は叙位任官に際して、間を取り持った近衛氏、吉田氏にお礼をすることになった。近衛氏には馬が進上されたが、約束した二百貫文(現在の貨幣価値で約二千万円)のうち、わずか二十貫文(約二百万円)しか献上されなかったという。吉田氏に至っては、存命中に約束した馬が献上されることはなかった。
誤解だらけの徳川家康
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、徳川家康への関心が高まっています。家康は「寡黙の苦労人」「腹黒い狸親父」というイメージがありますが、その実像は近年の研究により、大きく変わってきています。
家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証した『誤解だらけの徳川家康』から一部を試し読みとしてお届けします。